第3期習近平政権の課題と中越関係 ―地政学的視点と日本の対中関係への教訓―

第3期習近平政権の課題と中越関係 ―地政学的視点と日本の対中関係への教訓―

2023年7月11日

 地域研究一般についても言えることだが、学者がその地域(国)のことについて本を書くと、正式な歴史をもとに記述することになりがちで、その民族の心、つまりその国の普通の人々の歴史認識とかけ離れたものになることが少なくない。ベトナムについても同様だ。そこでここでは、私が現地で体験し交流した普通のベトナム人の歴史認識に沿って、中越関係などについて考えてみたい。

1.中越の歴史は「戦争の歴史」

(1)まつろわぬ小国の物語

 普通のベトナム人が自国の歴史について思い浮かぶ主なものは表のようなことだと思う。以前、ベトナムの中学・高校課程で使われている歴史教科書(邦語訳)を見たことがあるが、その第一印象は、まるで防衛大学校や軍隊で使われる教科書ではないかと思われるほど、戦争の歴史とその一つ一つのできごとの軍事的な記述で埋められていた。
 ベトナム人にとっての歴史は、ある意味で「中国との戦いの歴史」であった。そしてその戦いの歴史の中で活躍した英雄の名前を憶えて尊敬している。さらにその英雄の名前は、ベトナムの各地の通りや地名になっている。例えば、首都ハノイには紀元1世紀に漢と戦った姉妹の名前を冠した「ハイ・バー・チュン通り」「ハイ・バー・チュン区」がある。同区にはハイ・バー・チュンを祀った寺院もある。またハノイ市内にある還剣湖(ホワンキエム)には明と戦ったレ・ロイ将軍を祀った祠がある。その他にも、多くの地名にそうした歴史上の英雄の名前が残っており、かれらの事績を覚えて重ね合わせながら自国の歴史認識をしている。
 このようなことから私は、ベトナムについて「まつろわぬ小国の物語」と称している。それは中国から見るとベトナムが「言うことを聞かない(まつろわぬ)隣国」と認識されているからだ。

(2)ベトナムのアイデンティティ

 次に、中越の歴史を簡単に振り返っておこう。
 ベトナム人と話をすると彼らの(歴史的)アイデンティティとして、「南越国」を挙げる人が多い。南越国(BC203-BC111)は、秦の元官僚・趙佗が秦滅亡後に、中国の南部に下って創った国だ。現在の地域で言うと、海南島を含め広東省南部からベトナム北部ハノイ付近までの範囲を統治した。ベトナム人は、その南越国が自分たちの始祖の国だと考えている。なかには、海南島ももともとはベトナムの領有だと真顔で言う人もいる。そして中国南部に位置した南越国は、その後、歴代中国王朝によって南に追いやられ、ベトナム人は現在の地に国を持つようになった。これがベトナム人の基本的な歴史認識(アイデンティティ)である。
 ちなみに、ベトナムには建国の日が二つある。一つは9月2日で、第二次世界大戦終了後の1945年9月2日にホー・チ・ミンが独立を宣言した日である。もう一つは、3月10日(旧暦)で、ベトナム建国の祖である「フン王」の功績を讃える日とされる。「フン王」は日本史でいえば神武天皇のような神話世界の王で、今から3000年ほど前にハノイの北部に国を建てたと信じられている。そして2007年に建国の日として制定された。
 ベトナムは「科学的社会主義」を基礎とするベトナム共産党が支配する社会主義国であるが、そのベトナムがこのような神話の世界を重んじているのには不思議な気がする。ベトナム人にとってマルクス主義・共産主義が嫌になっていていることが背景にあるようだ。

(3)中国による植民地支配の1000年

 前漢の武帝のときにベトナムは漢の植民地となり(BC111)、その後独立を果たしたのは939年で、この約1000年の間、中国の植民地支配を受けた。この1000年は彼らにとって「屈辱の歴史」で、「北属期」とも称している。
 その期間中のAD40年に、先述した「ハイ・バー・チュン」(「二人のバー姉妹」という意味)が後漢に対して反乱を起こした。しかし光武帝が派遣した馬援将軍率いる軍隊によって鎮圧され、二人の姉妹は殺された。これはベトナム人にとっての最初の抵抗の歴史として深く心に刻まれている。ハイ・バー・チュンを祀った寺院がハノイ市内に数多くあるが、ベトナムの経済成長と共にきれいに整備されている。
 余談だが、馬援将軍は「矍鑠(かくしゃく)」という言葉の故事と関連している。ハイ・バー・チュンの乱を鎮圧した数年後、中国南部で再び乱があり(すでに高齢になっていた)馬援将軍はその征伐を皇帝に願い出たが、光武帝からは高齢を理由に慰留された。しかし馬援将軍は、光武帝の前で颯爽と馬にまたがり健全ぶり見せた。その姿を見た光武帝は馬援将軍について「矍鑠たるかなこの翁」と言って笑い、出陣を許したという故事である。

(4)中国からの独立の戦い

 その後939年に、呉権が(中国の支配から)独立を果たした。南越国と呉権が独立を果たしたときは、ともに中国大陸が政治的混乱状態だった。つまり、中国大陸が政治的にしっかりしているときは、ベトナムは独立できないということでもある。南越国は、秦の元官僚が作った国だったが、呉権による独立は、907年に唐が滅亡し、960年に北宋が建国される間の五代十国の混乱期のできごとであった。
 ここからわかることは、ベトナム人はその出自を中国におき中国人の一部だと認識しながらも、その一方で中国の中央政権の言いなりにはなりたくないという心性がアイデンティティを形成している。
 ベトナム人が好きな歴史上の英雄の一人に、李王朝の将軍・李常傑(リ・トゥオーン・キエット)という人物がいるが、李将軍は北宋の時代の1075年に広東省付近まで侵攻した。ベトナムの歴史上、中国に攻め込んだ唯一の将軍としてベトナム人から尊敬されている。ハノイには彼の名を冠した通りがある。日本で言えば東京の銀座通りのような繁華街の通りで、2019年2月の米朝会談のとき金正恩委員長が宿泊したホテルもあるところだ。
 次のできごとは、1288年の陳興道による元朝との戦い(白藤江の戦い)だ。元は日本を攻めた(元寇)直後の1287年に3回目のベトナム侵攻を企てた。過去の失敗を教訓に元軍は、翌年初めに一時ハノイを占領したが、陳興道の清野とゲリラ戦により厳しい戦いを強いられた。同年4月になり猛暑が襲うと、糧秣欠乏への懸念から元軍は陸路と海路に分かれて一旦撤退することにした。
 この追撃において、陳興道は938年に呉権が行った作戦を応用することにした。呉権は白藤江を遡ってくる南漢軍を迎え撃ったのだが、陳興道は河を下って撤退する元軍を白藤江で待ち伏せることにしたベトナム兵は河口付近の川底に大量の杭を打って待ち伏せた。杭は満潮時には見えないが、干潮になると現れる。前回同様、干潮になって敵の船が杭に挟まって身動きが取れなくなったところを、周辺に隠れていたベトナム兵が小舟に乗って襲いかかり完勝した。この戦いも、今でもベトナム人の心を熱くする記憶になっている。
 その後、明朝になり永楽帝が陳朝の混乱に乗じてベトナムに攻め込みベトナム北部を征服した。しかし、レ・ロイを中心として反明闘争が起こり、1427年に明の支配するハノイを総攻撃し、翌年には明を破り独立を果たした(黎朝)。
 この戦いの際、レ・ロイは神から剣を授かり、その剣で明との戦いに勝利した。勝利したあと、レ・ロイが還剣湖(ホアンキエム)を散歩していると湖からカメが現れ「神が授けた剣を返してくれ」と言ったので、彼が剣を返すと剣を受け取って湖底に消えていったという。この逸話は現在でも信じられており、ホアンキエム湖でカメが死ぬと国を挙げての騒ぎになるほどだ。

(5)英雄に綴られた歴史

 このようにベトナムの歴史は、中国との戦いの中で中国を押し返してきた歴史であった。東南アジアの諸国の中でベトナムほど祖国防衛にアイデンティティを置く国はない。その抵抗における作戦は「ゲリラ戦」だ。物量では中国にはかなわいので、ゲリラ戦で抵抗してきた。ベトナムの5〜8月は非常に蒸し暑い。この時期に敵を誘い込み、ゲリラ戦でやっつけるという作戦を取ってきた。
 しかしゲリラ戦は、犠牲も多い。ベトナム戦争では100万人以上が亡くなったと言われているが、「(戦争には)よくあることだ」という程度にしか考えていないところがある。この辺は日本人の感性とはだいぶ違う。
 ベトナム戦争で米国と戦ったのはせいぜい10年だが、フランスとは100年、中国とは2000年の戦いの歴史だったとベトナムの人々はいう。米国はもはやベトナムを攻めることはないと考えているが、中国は現在でも非常に警戒すべき相手だと考えている。
 そのほか、1954年の対仏戦、ディエン・ビエン・フーの戦いで活躍したボー・グエン・ザップ将軍は、ホー・チ・ミンと同様に祭り上げられ人々から尊敬されている。
 いずれにしても、ベトナムの歴史は戦争の歴史であり、とくに中国との戦いにおいて多くの英雄が生まれた。その多くの英雄は、現在でも民衆の心の中に残っており、多くの人はその故事について語ることができる。

2.ベトナムの対中政策

(1)対中認識

 そもそもベトナム人とは誰かというと、「東南アジアに住む中国人、キン族」だ。多くのベトナム人は大乗仏教徒であるが、同時に、年長者を敬うなど、儒教的振る舞いをする。にもかかわらず、反中がベトナム人のアイデンティティでもある。これらをまとめて簡単に表現すると、中国南部に住みながら、中国人が嫌いな中国人ということができる。いつも中国のことを恐れ、中国は嫌いなのだが、儒教と大乗仏教を受け入れ、中国に朝貢をしてきた国がベトナムであった。
 もともとベトナム人は、東南アジアの一員という意識は低かった。彼ら意識の中には、他の東南アジアの人々に対して「化外の民」と見る認識があって、東南アジアの人々を下に見る傾向も見られる。例えば、ベトナムがカンボジア侵攻をしたとき、ポルポト政権に対して上からの目線で対応し自分たちの息のかかったヘン・サムリン政権を立てたことにも現れている。もちろん現在では、アセアンの一員という意識も高まっているが、そのような意識が出てきたのはここ50年くらいのことだと思う。
 すでに述べたように(ベトナム人は)、中国に対して国力が桁違いの差があるので正規戦では勝てないことを自覚している。しかし国土防衛ということについては非常に敏感に反応し、どんなに犠牲を払っても、国の独立、国土防衛は死守すると考えて、それを外交の最優先課題にしている。正規戦では勝てないので侵攻はせず、戦いにおいて前進しても国境のところでとどまる。前節で述べた、北宋を攻めた李常傑以外、中国を攻めた例はない。

(2)「ベトナムの夢」

 プライドは捨てて実利を取るというところは、日本として見習うべきところかもしれない。
 中国が攻めてくるとベトナムはゲリラ戦で戦い中国軍を押し戻しても、そこで有頂天にはならない。すぐに北京に飛んでむしろ下手に出て中国に和を乞う。それによって独立と国境を守ろうとするのである。
 ただし現在のベトナム人は、つねに中国に対して不信感をいだき、警戒心をもっている。そのためベトナムの外交の基本は、独立と国土防衛だ。
 とくに領土問題での戦いでは、中国に厳しく対応している。例えば、西沙諸島の戦いである。ベトナム戦争が完全に終結する前の1973年、西沙諸島をめぐって南ベトナム軍は、中国軍と戦い、中国軍は島嶼に上陸して西沙諸島を占領した。これに対してベトナムは非常に怒っている。また1988年には、スプラトリー諸島(南沙諸島)海戦で中国に破れ、南沙諸島のいくつかの島を中国に取られてしまった。これらの島々に対してベトナム人は、絶対に譲れないという強い思いを抱いて中国に対応している。
 ベトナム人には「ベトナムの夢」というものがある。西沙諸島、南沙諸島を取り戻すことは言うまでもなく、さらに歴史的に遡っていえば、海南島も自分たちのものだとまで主張する人がいる。そこには自分たちの始祖を南越国と考えるかれらの歴史観があると思う。そうしたベトナム人の「心の声」は、直接政治に反映されるわけではないが、どこかでそうした人々の心の声を受け止めて行かないと、人々の支持が離反してしまいかねない。
 よくタイは「ほほ笑みの国」と言われるが、ベトナムは「したたかな国」と言われる。タイ人はよく笑うが、ベトナム人はあまり笑わない。そのようなイメージが定着してか、映画に出てくるベトナム人は、目が細く表情に乏しく描かれている。
 実際、ベトナムの人々と接しても、彼らはあまり本音を語らないように感じる。ベトナムの高位高官といっしょに食事を経験したことがあるが、彼らは酒の席でも政治の話はせず、つねに当たり障りのない話しかしない。しかし帰り際に、「ちょっとそこに掛けませんか」と言われ、ものの数分の間に重要な頼み事をしてくる。あるいはその時は何も言わずに、翌日話を持ちかけてくる場合もある。
 これらがベトナム人の普通の(交渉の)やり方のようだ。会議では表面的なことしか話をせず、懇親会でも本音は語らない。相手が自分に好意をもっていることがわかると、別の席で本題を切り出すのである。
 現在、ベトナムの最大の貿易相手国は中国だ。そのこともありベトナム政府は最大限の神経を使って中国を刺激しないようにしている。そして現在ベトナム人が面白く思っていないことは、米中対立にかこつけて、中国企業の工場までがベトナムに移転していることだ。日本、韓国、米国の工場がベトナムに移ってくることは大歓迎だが、それに混じって中国の工場まで来て欲しくない。
 そして、中国の工場がベトナムに移転することを中国政府はベトナムが「漁夫の利」を得ているとみて快く思っていない。だが、中国政府が面白く思っていないにもかかわらず、中国企業はベトナムに工場を移している。中国の企業は儲かるとなれば政府の意向にも逆らう。中国の地方政府が工場のベトナムへの移転を応援している場合さえある。この辺りの感覚は日本人とは異なる。国益より省益、私益なのだ。
 ベトナム政府は中国政府を怒らせずにこのまま実利を得ていこうと考えている。実際、2023年6月には、ベトナムのチン首相が訪中し、李強首相や習近平国家主席と会談し、その表向きの目的とは別に、現在の中越関係を維持しながら中国の機嫌を損ねないようにし、引き続き利を得ていけば国力強化につなげられると考えているとみられる。ベトナムは、このような「したたかさ」をもっている。

(3)チョン書記長と習近平国家主席

 ここで現ベトナム政府の内情について述べたい。
 現在のベトナム共産党書記長グエン・フー・チョン氏(1944〜 )は79歳の老人だが、彼はベトナム共産党の生粋のエリートで党の理論的支柱と言われている。長年党の理論分野の道を歩んできたこともあり、彼のもとには学者の仲間くらいしかおらず、政治家として財界や警察などの人脈が薄く、党内では少数派だ。
 チョン書記長は、頑固なまでの反汚職主義者で、(汚職のはびこっていたベトナムで)反汚職運動に力を入れて取り組んできた。それに対して既得権を持つ人たちには、(清廉潔白であるが力のない人物としてチョン氏をせっかくトップにまつりあげたのに)かえって困っている状況が生まれている。
 一つの逸話を紹介する。ある会議でチョン書記長が「共産党内の汚職退治をしっかりやれ」と発言すると会議参加者たちは面従腹背で「はい」と答えた。それに対してチョン書記長が「君たちは共産党員だろう。そんなにお金儲けがしたいのか! お金なんか要らないだろう」とたしなめると、みな下を向いてしまったという。共産党員として建前では汚職はいけないとわかっていても、やはりお金は欲しいという彼らの本音が出た逸話である。
 チョン書記長は清廉潔白で非常に質素な生活をしている。書記長就任前、彼は、(オートバイも乗らず)自転車通勤をしていたという。当時、政府内で汚職がはびこっており、チョン氏が書記長に就任して最初に汚職違反で逮捕したのが、ロールスロイス車に乗っていた人物だった。
 そのようなチョン書記長は、現在、民衆から大きな支持を得ている。日本の歴史で言えば、水戸黄門のような存在だろう。ベトナム共産党内の汚職がこのまま続いた場合、共産党体制が崩壊しかねないという危機意識があったことも背景にあった。しかし(既得権層である)政治家や官僚からは煙たがられている。
 実は、チョン書記長は、同様に汚職退治で功を成した習近平国家主席と仲がいい。習近平国家主席は汚職退治によってライバルを排除して自分の政治基盤を固めたが、チョン書記長の場合は、アットランダムに汚職退治を行った。チョン書記長は、習近平国家主席のバックアップを受けていると言われている。
 かつて黎朝の最後の王・黎昭統(1765〜93)は、黎朝を存続させるために、清の乾隆帝にすがって権力を維持すべく、清の軍隊をベトナムに招き入れたことがあった。その事例をもってベトナムにおいて黎昭統は、「愚かな人」の代表と知られている。それをもって中にはチョン書記長を、黎昭統に譬える人もいる。
 これらの例からも、ベトナムと中国のセンシティブで政治的関係が見て取ることができる。

3.ベトナムから考える習近平政権

 日本にとっても重要な中国をどうみるかについて考える時に、ベトナムという共産圏から中国を見るという視点は意味があると思う。
 国の規模(人口比)で比較するとベトナムは、中国の約13分の1で、発展段階がだいたい10〜15年遅れという「中国のミニチュア版」の国だ。中国の10〜15年遅れくらいで改革開放路線を行い、現在不動産バブルで苦しんでいる。ベトナム共産党が何に苦しみ、どう打開しようとしているのかがわかると、その延長線上に中国共産党のこれからが見えて来る。
 現在の困難・混乱の原因をさかのぼると、改革開放路線の矛盾に行きつく。つまり経済は資本主義、政治は共産主義というやり方は、誰がどう考えても矛盾だ。改革開放路線は、鄧小平が言い出したわけだが、その後、天安門事件が起きたものの力で治め、そのあと経済が順調に発展した。ベトナムの改革開放路線「ドイモイ」(1986年)は、中国のやり方をそのまま踏襲して実行した。
 共産主義体制は、選挙がなく官僚主義に支えられた社会である。つまり官僚で局長クラス、あるいは次官クラスになると政治家となるという、選挙を経ないで政治家になる体制だ。(マスコミの批判もなく)選挙のない政府は権力基盤が強い。結果、政府権力が強いために、政府主導による民間を含む過剰投資政策によって高度経済成長を実現できた。政府信用による(国営)銀行の貸し出しが自由にでき、不正融資や不祥事が暴かれることもない。
 中国の新幹線網は日本の20倍もあるが、そこには採算性無視でも計画を立てて建設ができるのには、そのような理由がある。現在、中国の新幹線で採算が取れているのは、北京—上海路線くらいで、全体では100兆円もの負債を抱えていると言われている。
 このような傾向はベトナムも同様だが、中国との比較で言うと、ベトナム政府の方が権力はやや弱い。
 中国のバブル崩壊は、全都市住民(4〜5億人)を巻き込むと現実のものとなると考えられており、2012年の段階ですでにバブル崩壊が危惧されていた。中国人は、老後のためにマンションを買ったり、それを賃貸したりして理財をしている。銀行預金はインフレに見合わないための対応策として不動産投資をして、老後の資金に充てようとしている。
 ベトナムはそこまではいっていないものの、不動産バブルに踊らされたのは富裕層のみだった。ベトナムの現状は、中国の北京オリンピック(2008年)のころといえる。
 ここで習近平の「心の声」を想像してみたい。
——不動産バブルは俺の責任ではない。江沢民が搗き、胡錦涛が捏ねた「不動産バブル」に苦労するのは自分だ。本来、胡錦涛がバブルをしっかり収めてくれていれば、自分がこんなに苦労することはなかった。共産党体制が将来も存続していくためには、開放改革路線をやったこと自体が間違いだったのではないか。確かにそれによって奇跡の経済成長を達成することはできたが、もっとゆっくりした共産主義体制による成長を進めることができていれば、体制の危機を悩むことはなかったはずだ。そんなに拝金主義に陥る必要はなかったのではないか。
 同様のことは、先述したチョン書記長の「君たち、そんなにお金が好きなのか!」という言葉にも表れている。

4.ベトナムで考える中国共産党

 ベトナム共産党にしても中国共産党にしても、なんとしても共産党支配を変えたくはないという思いは共通だ。共産党員は、現在の体制の中で(既得権益者として)甘い汁を吸っている。その権益を失うような「再革命」のようなことが起きた場合は最悪で、その最たる例がソ連崩壊であった。
 ベトナム共産党は、いよいよ不動産バブルが崩壊し始めた現在、そのような危機感を強くしている。彼らと話をしてよく聞く話に、「日本の政治を真似たいところもあるが、もう少しソフトにやりたい」という。
 日本は1990年代にバブル崩壊に見舞われたが、それによっても自民党政権は崩壊しなかった。その後、政権交代も含め失われた30年を経験し、この間に(昭和の)権力構造が大きく変化した。政治家と官僚の地位が著しく低下し、官僚のトップといわれた大蔵官僚もいまや普通の官僚になってしまった。かつて自民党政権の中枢にかかわっていた政治家や高位官僚はうまみを享受していたが、いまやそうしたうまみはなくなってしまった。とは言っても、ソ連ほどの政権崩壊には至らなかった。
 そのような日本政治を横目に見ながら、ベトナム共産党の幹部は、なんとしても現在の既得権を守りたいと考えている。ベトナムよりももっと大きな次元で権益を享受している中国共産党なら、ベトナム共産党以上のことを考えているに違いない。
 昨年秋の共産党大会に出席した約2300人の代表者は、地方公務員、国営企業、警察、軍などの代表だ。13億の人口で、9800万人の共産党員の代表ということを考えると、その2300人の位置はとてつもなく重い。
 昨年秋の第20回共産党大会では、政治局から胡錦涛派が排除され、胡錦涛が途中退席させられる場面があった。ある意味で、胡錦涛はソ連のゴルバチョフになりかねない人物だった。つまり彼は共産党をソフトに改革していこうと考えていた節がある。しかし習近平国家主席は、ゴルバチョフのやったこととは真逆の政策を進めている。それを揶揄して(現政権について)「西朝鮮」(北朝鮮の西に現れた秘密国家)とも言われている。
 ベトナムの場合は、中国ほどに豊かでもなく、国力が強くないこともあり、ベトナム共産党は党の将来について非常に逡巡しているのではないか。チョン書記長を選出して、うまくやろうとしたのだが、(既得権益層が)考えていたようには進まず困っているという状況だろう。
 そもそもマルクス・レーニン主義とは何か。チョン書記長の説明によれば、「理知的・啓蒙的・先進的な党官僚が愚昧な民衆を率いていく政治」であり、「愚昧な民衆は、金を欲しがる。共産主義の実現した理想国家では、お金は最小限しか要らない。人間の幸せはお金、贅沢ではない」という。
 共産主義思想は、人間のどこか全体像を見ていない。ベトナムで崇拝されているホー・チ・ミンは、サンダル姿で出て来て子供の頭をなぜるような(純朴な)イメージで人々に心に描かれている。しかし(理想を唱えても時間と共に)堕落するような人間を組織的にまとめていくためには、チャーチルの「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」との言葉ではないが、それでも民主主義体制の中で政治を行う必要があるだろう。
 最後に、ベトナム共産党の「心の声」を想像してみると、「自民党になりたい」と考えているのではないか。
 ベトナムや日本は稲作文化の国で、稲作は共同作業で行うことから村社会が形成される。村社会では代表者が集まって意思決定を行うために、談合が起きやすい。代表者による談合を行うときにその象徴的存在があると意思決定と施策の実行がスムーズに進む。日本は、そのような象徴的存在として、万世一系の天皇がいたが、ベトナムではホー・チ・ミンがそれに相当する。それゆえホー・チ・ミンを祭り上げ、ホー・チ・ミンという象徴的存在によって、ベトナム共産党の存続を図り既得権益を守りたいと考えているようだ。

(2023年6月29日に開催されたIPP政策研究会における発題内容を整理した)

政策オピニオン
川島 博之 ベトナム・ビングループ主席経済顧問
著者プロフィール
1983 年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授を歴任。工学博士。専門は開発経済学。主な著書に『日本人が誤解している東南アジア近現代史』『習近平のデジタル文化大革命』『「食糧危機」をあおってはいけない』『中国、朝鮮、ベトナム、日本 極東アジアの地政学』他多数。
ベトナムの歴史は「戦いの歴史」と言われるが、とくに隣国中国とは2000年に及ぶの「戦いの歴史」であった。それだけに国土防衛に関しては強い意識をもって対しているが、その反面、うまく立ち回って実利を得るところもあり、日本の対中政策を考え上で参考にすべき点も多い。

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