入管法廃案の顚末 ―外国人の人権と国益―

入管法廃案の顚末 ―外国人の人権と国益―

2021年6月15日

 本年2月に提出された改正案は、日本からの退去を拒否して入管収容施設に長期収容されている数百人の不法滞在外国人を減らすことを目指していた。その中心は、仮に在留中に重罪を犯しても、難民申請を繰り返す限りは送還が絶対にできないという「送還停止項」に例外を設け、送還を可能とすることだった。
 この法案、支援団体などからの反対はあったものの、問題なく通ると思われた。しかし、3月にスリランカ女性ウイシュマさんが入管収容中に死亡する事件が起きたことで状況が一変した。支援団体はこの事件を外国人の人権を無視する入管庁を象徴するものとして「入管法改悪」反対キャンペーンを張り、いわゆるリベラル系メディアがそれを大きく報じた。もともとは関心の薄かった野党も、2021年秋の総選挙を念頭にこの問題を国会での対決法案とした。
 コロナ対応で支持率が下がる中、衆院選への悪影響を懸念した与党は野党の修正案に大幅に歩み寄り、修正案がいったん合意された。修正案は、収容は原則6カ月までとし、その後は支援者など「管理人」の監督のもとで社会生活を容認することとした。ただし、「送還停止項」の撤廃は与党が譲らなかった。結局、514日の協議の土壇場で、野党が死亡にかかる録画の即時開示に固執して交渉は決裂し、法案は廃案となった。
 原則として長期収容をなくす点で現行法より良いものだったが、それは幻と消え、誰もが不満の現行入管法だけが残った。野党は「たらいの水と一緒に赤子を流す」ことになった。
 この件では、野党・支援団体・リベラル系メディアと与党・入管庁・保守系メディアが対照的な姿勢を見せた。前者はこの問題を人権問題として追求し、後者は制度を濫用する送還忌避者を国の安全にかかる問題として扱った。言い換えれば、法を破った外国人の人権と日本人の安心と国益のどちらを重視するか、という問題だ。

難民を追い込む過度な人権主義

 実はこの問題は、難民問題に内在する「人権と政治的利害の相克」に通じる。難民保護には「難民の人権保護」という側面と、「受け入れ国の国益」という二つの側面がある。1951年の難民条約は難民の国際的保護を目指すものだが、重大犯罪で有罪となった者など、受け入れ国の社会の安全にとって危険である難民は追放できるとしている(難民条約33条の2)。難民条約は難民の保護だけを無条件に唱えているのではない。
 要するに難民条約は、難民の人権と国益を両立せよ、としているのだが、それは容易ではない。難民(外国人)の人権と国益のどちらが重視されるかはその時々の国内的・国際的状況で変わる。2015年の秋、トルコの海岸に打ち上げられたシリア人の子供アイラン・クルディ君の遺体写真は世界中に衝撃を与え、ドイツのメルケル首相は「シリア難民は全員受け入れる」と宣言して喝さいを浴びた。しかしそれを引き金に、シリア難民に加えバルカン諸国の経済移民など100万人以上がドイツに流れ込み、治安上の混乱も起きた。ドイツ国民の間には不安感と反難民・移民感情が強まり、メルケル首相は国境開放政策を断念せざるを得なかった。反難民・移民の動きは欧州諸国、イギリス(Brexit)、さらにアメリカ(トランプ出現)の一要因にもなった。その動きは今も続き、デンマークは最近シリア難民の強制送還を始めた。振り子が外国人の人権から国家の安全へと大きく揺れたのだ。過度な人道主義は、結果的には多数の難民の境遇を悪化させる例だ。
 紛争国から遠く離れて、海に囲まれ、言葉も文化も異質な日本に逃げたいという難民はごく少なく、難民が治安上の問題起こすこともない日本では、難民問題については欧米や途上国ほどの切迫感も関心もないが、人道と政治の相克という問題の二重性は同じだ。
 2010年に難民申請者に対しては6カ月後に全員に就労許可を出す取扱いが始まってから、難民制度を「活用」して日本での稼働を目指す人々が毎年50%増え、2017年には2万人近くになった。難民不認定となっても難民申請を繰り返す送還忌避者も増えた。これに対し筆者もメンバーである法務省出入国管理政策懇談会は、2014年に、急増する申請者への対応だけでなく、厳しすぎると評される難民認定制度の改革を提言した。しかし、入管庁は制度濫用を抑制する施策を次々に打ち出す一方で、昨年まで認定制度の改革を本格化しなかった。「補完的保護」の創設、国際基準を反映する難民認定ガイドラインの策定など進行中の改革案とセットで出していたなら、法案を巡る議論は違ったものになっていたろう。

入管庁は人権を優先したが・・・

 入管法廃案にはその後がある。周知のように2月にクーデターで権力を奪ったミャンマー国軍は民主化勢力への仮借なき弾圧を続けているが、入管庁は35千人の在留ミャンマー人を保護するため、在留期限が切れた後も在留を認め、同国の難民申請者3千人については優先的に処理し不認定でも送還はしない上、原則として就労も認めるとした。数百人の不法滞在者も強制送還せず、状況により就労も認める。本国事情の変化をもとに数千人単位の外国人に合法・非合法滞在に関わらず一斉に在留・就労許可を与えるというのは、特例措置とはいえ日本の難民政策上で初めてで、40年前の11000人のインドシナ難民受け入れに匹敵する。
 入管庁は、クーデターに抗議し帰国を拒否したミャンマーのサッカー選手に対して難民申請を認める方向を早々に明らかにしている。さらに入管庁のキャリアで初の女性長官となった佐々木聖子氏は、在留資格がない外国人を原則として入管施設に収容する「全件収容主義」と決別すべく不退転の決意で取り組む、と述べた。
 入管庁が「国家の利益」と「外国人の人権」を両立させる施策に出たのだが、「入管は非人間的」という固定観念を脱せない支援団体やメディアはほぼこれを無視し、相変わらずの反入管キャンペーンを続けている。ミクロな事件に目を取られ、政策レベルで是々非々の立場を取ることができない、そこに後者の限界がある。

滝澤 三郎 東洋英和女学院大学名誉教授/早稲田大学AHC研究所招聘研究員
著者プロフィール
東京都立大学大学院博士課程を経て法務省入省。カリフォルニア大学バークレー経営大学院修了。UNIDO(国連工業開発機構)財務部長、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)財務局長、UNHCR駐日代表、東洋英和女学院大学教授、国連UNHCR協会理事長などを歴任。専門は日本の難民政策。

関連記事