世界遺産をとりまく環境問題 -アンコール世界遺産を例に-

世界遺産をとりまく環境問題 -アンコール世界遺産を例に-

2021年3月20日
アンコール世界遺産

 アンコール・ワット寺院で有名なカンボジアのアンコール世界遺産(以下、アンコール)は、9世紀から16世紀にかけてインドシナの地に栄えたクメール帝国がのこした石造建築物群で、約4万ヘクタールもの広大な区域に数多くの秀麗な古代遺跡が散在し、熱帯の濃密で豊かな生態系があり、伝統の生活をいとなむ地域社会があるという、文化遺産ながらも文化財と自然、そして地域住民が織りなす巨大な複合体である。長年にわたる戦乱にみまわれた同国だが、1993年の制憲議会総選挙の成功で平和が訪れ、その後に小規模な武力衝突はあったものの、国民の努力や国際社会からの支援もあって社会経済は順調に回復した。国王が交代した2004年前後をもって復興から開発の時代に移行したといえる。それと前後してアンコールを訪れる観光客の数が激増した。1992年にはわずか数千人だった観光客が、2019年には約400万人にも達している。その半数は国外からの観光客で、わが国の京都に匹敵する数である。

アンコール世界遺産の管理体制

 世界遺産に登録された1992年当時は内戦の末期だった。世界遺産の管理どころか国内治安の維持すらままならない時代だった。そのため、国際的な枠組みでこれを管理するための「アンコール世界遺産国際管理運営委員会(略称ICC-Angkor)」が設置され、カンボジアが議長国ながらも日仏が副議長国として支援する体制をとった。これに対応する国内管理組織として「国立アンコール世界遺産管理機構(略称APSARA機構)」が設置された。当初は国際チームの調整機関にしかすぎない同機構だったが、その後、着実に実力をつけ実績を積み重ね、現在では遺跡の保存修復の主力となり、環境整備や地域社会支援、観光管理といった業務をも担っている。さらに、この両者を監察する独立外部組織であり7名の委員からなる特別専門家委員会が設けられている。筆者はこの委員のひとりとして環境保全と開発管理をおもに担当している。なお、20213月現在、アンコールでは13カ国による53プロジェクトが進行中であり、わが国からは上智大学、早稲田大学、奈良国立文化財研究所、京都大学、金沢大学の5機関が、遺跡の保存修復や環境保全調査、人材育成といった活動を現地で展開している。

世界遺産における環境問題

 ところで1972年にUNESCO総会で採択された世界遺産条約から約半世紀がすぎた。登録される物件の数は年々増え続け2019年時点で1121にもおよぶ。わが国でも23の物件が世界遺産リストに登録されている。世界遺産条約とは「文化財、景観、自然など人類が共有すべき顕著な普遍的価値」があるものを、全人類のための遺産として損傷や破壊などの脅威から保護するための国際的な枠組みである。しかし、世界遺産とは「ユネスコお墨付きの観光地」という誤解が一般にあるらしく、登録とともに観光客が押し寄せるようになってしまい、それによって文化財が劣化したり自然環境が破壊されたりという本末転倒の事態が多くのところで見うけられる。アンコールもそのひとつである。
 長年の戦乱で観光インフラが未整備だったカンボジアである。「オーバーツーリズム」の問題がいたるところで発生している。文化財の劣化や損傷、自然環境の汚染や破壊という深刻で回復が困難な問題ばかりである。排気ガスで大気汚染濃度はバンコクの都心にも匹敵する劣悪さとなっている。水質の悪化でアンコール・ワットの環壕に悪臭がただようようになった。乱開発で熱帯の豊かな森林は減少し続け、観光客のあまりの多さに遺跡の劣化や損傷も想像を絶する早さで進んでいる。伝統文化や地域コミュニティの消失という目にみえない破壊もまた進行している。アンコールの観光がもたらす収入は、カンボジアのGDPの約2割にもなる。観光に制限をかけるわけにもいかず、かといって、環境問題を軽視するわけにもいかない。APSARA機構やICC-Angkorはこの対策に尽力してはいるが、抜本的な解決方法はみあたらない。

ポストコロナ時代の環境問題

 オーバーツーリズムによる環境破壊問題は、観光客に人気の世界遺産では多かれ少なかれ見うけられる。わが国でも屋久島の原生林や熊野古道の例が知られる。そこへきての今回の新型コロナ問題である。世界的な脅威による観光地の経済的脆弱性があきらかになった。アンコールも例外ではない。地元の観光業は経済的な打撃にあえいでいる。しかし、観光客の足が遠のいたおかげで遺跡の修復作業はおおいに進んだ。考古学的な発掘ではおおきな成果があがっている。おおぜいの観光客がいては手をつけられなかったところだ。自然環境もゆっくりと回復しているという。外国人観光客の姿が消えたアンコール・ワットはカンボジア人がしずかに足をはこぶ場になった。カンボジア人の精神的・文化的支柱ともいえる寺院である。これが本来の姿といえよう。環境保全の視点からは新型コロナ問題がいい方向にはたらいたといえる。このような状況はアンコールにのみ出現したものではない。ベネチアの運河にたくさんの魚がもどってきたというニュースを耳にした。世界を混乱のどん底に落とし込んだ新型コロナであるが、世界遺産の原点へ立ち返るとともに、文化財、自然、そして地域社会が織りなす調和的発展のための好機とこれを捉えたい。

塚脇 真二 金沢大学教授
著者プロフィール
福岡県生まれ。東北大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。日本学術振興会特別研究員、プノンペン王立芸術大学特別講師、金沢大学工学部助教授等をへて、現在、金沢大学環日本海域環境研究センター教授。専門は地域地質学、海洋地質学、環境動態解析学。2012年よりUNESCO/アンコール世界遺産国際管理運営委員会特別専門家委員会委員。2018年、カンボジア国王よりロイヤル・モニサラポン勲章大十字章を授与された。

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