米国における文明衝突

米国における文明衝突

2021年3月19日
「ふたつの米国」、「ふたつの文明」

 文明・宗教を補助線として使うと、「ふたつの米国」が存在することが、昨秋の米国大統領選挙を通じ改めて確認された。米国は、社会的、階層的、教育的、経済的、人種的、地域的、政治的に「分断」していることはつとに指摘されているが、より深いところで存在する文明・宗教面の「亀裂」を見逃す訳にはゆかない。
 「ふたつの米国」を解くキーワードは「啓蒙思想」だ。米国には、啓蒙思想に由来する「近代主義」の受容に前向きな「新文明」と、受容に消極的な「反近代主義」の「旧文明」とがあるが、何れも元気いっぱいだ。前者は宗教に冷たく(「世俗主義」)、後者は宗教に篤い(「伝統主義」)ことから、両者はそりが合わず、対立・衝突を繰り返す。なお、新旧文明間の衝突は、イタリア、フランスなど広く西洋圏全般で見られるが、米国での衝突は、よりダイナミックで派手だ。
 「文明の衝突」を喝破した、かのS.ハンティントン教授は、30年ほど前、「西洋vs中国」、「西洋vsイスラム」間の文明衝突に警鐘を鳴らしたが、「西洋はひとつの文明」だとの前提に立ち、西洋圏内での「文明衝突」には着目しなかった。私は、バチカン勤務時の観察を通じて、教授の見落としに気付いた。

「文明衝突」の源・・・・・・啓蒙思想の出現

 西洋圏での「文明衝突」の起源は、数世紀前の啓蒙思想の出現・台頭に遡る。それ以前、中世の西欧では、森羅万象を律する「神」が宇宙の中心(玉座)から万般を支配していた。この「神中心思想」が絶対的だった時代には、文明はひとつであり、「文明の衝突」は起こり得なかった。
 ところが、16世紀から18世紀にかけて、「神」を退位させ、「人間」を玉座に座らせる「人間中心思想」が台頭し、時代は近代へ移行した。この転換の主導者こそが啓蒙思想である。
 この「人間中心思想」はやがて、「自由」「人権」「民主主義」などの世俗主義的、近代主義的原理を生み出した。これら新原理は、「神」に代わる絶対的「正義」であり、かれらは「自由」「人権」などの新原理を「神」の如く奉った(「擬似的な神」)。この「神なき宗教」を基軸とする啓蒙思想は、新文明の核となり、旧文明への挑戦を始めた。

「啓蒙思想は宗教」

 つまり、啓蒙思想の本性は「宗教」にある。この「啓蒙思想教」は、①「自由教」、②「人権教」、③「民主主義教」、④(宗教を表舞台から隔離する)「ライシテ教」、⑤「科学教」の「5教」を骨格とする。
 人間中心主義を基軸とする「啓蒙思想教」は、宗教には冷淡で、脱キリスト教的体質を有する。このため、「5教」の主張には、伝統主義派を苛立たせるものが少くなく、伝統主義派は「5教」への反発を隠さない。新旧両文明は、共に「宗教」であり、自分たちの正義(神)を絶対視するので、両者間の衝突は熾烈になりがちだ。この衝突の本質は「宗教戦争」にあると言って過言ではない。

衝突の最前線・・・・・・中絶を巡る衝突

 「5教」が惹起する衝突は多様であるが、米国で最も熾烈なものは、中絶の是非を巡るものだ。伝統主義派はこれを「殺人」だと糾弾。米国では、1973年に最高裁が中絶を容認する判決を出しているにもかかわらず、近年、伝統派の巻き返しは強烈であり、多数の州で人工中絶抑制強化措置がとられている。更に、中絶を実施するクリニックへの放火、医師の銃殺などの「宗教テロ」すら起きている。中絶の是非を巡る対立は、政治とも連動、大統領選挙でも一大争点となっており、この対立は近く最高裁に持ち込まれる見通しだ。
 因みに、米国で両派の対立がダイナミックなのは、双方とも「宗教的パッション」に満ちていることと、両者の勢力が拮抗していることによる。また、この衝突を「文化戦争」と形容する向きがあるが、この対立は、啓蒙思想が絡む文明観の対立に起因するものであり、「文明衝突」とするのが適当だ。
 なお、啓蒙思想派は、人種、女性、LGBTなどに人権概念を拡大適用し、近年には、動物まで視野に入れ始めている。これに対し、バチカンや米国の保守派は、それらの主張は「神意」、自然法に反する「相対主義」だ、人権概念の無節操な拡張は受け入れ難いと反駁する。人間と神のどちらを優先するべきかというこの対立は、「5教」の中でも最も対立の深刻なテーマだ。なお、LGBT擁護などにつき啓蒙思想派が示す「宗教的パッション」は、日本人には馴染みがないが、このパッションこそが米国における「文明衝突」に凄みを与えている源泉だ。

隔絶した時代意識

 宗教に冷淡で、人権概念の拡張にこだわる米国の「近代主義」派は、宗教離れの進んだ北部西欧の世俗主義派と同じような時代感覚に立つ(「21世紀」的意識)。これに対し、宗教に篤く、人権概念が神の領域を侵犯することに否定的な「伝統主義」派は、欧州で言えば東欧周辺部あたりと似た時代感覚に立つ(「17‐19世紀」的意識)。
 つまり、米国には、「21世紀」と「17‐19世紀」という時代意識の異なる文明観が併存し、「ふたつの米国」は激しく「衝突」する。同じ「分断」でも、教育格差や経済格差は政策的に改善することが可能かもしれないが、文明観の違いの解消は長期間を要し、「ふたつの米国」の対峙は当分続くであろう。

「分裂」は常態

 全く異質な文明が対峙しながら、米国が「分裂」しないのは、連邦制度に負うところが大きいと見る(新文明派は東西沿岸部中心、旧文明派は内陸部中心と言う大まかな「棲み分け」はあるが)。中絶であれ、死刑制度であれ・・・各州が思いのままの選択をすることが憲法で保障されていることが、バラバラな米国を繋ないでいると言うことだ。全く異質な文明が同居しつつ、衝突している、そこに、米国のダイナミズムの淵源があるのだろう。「分断のない米国」なんて、考え難い。

上野 景文 文明論考家・元駐バチカン大使
著者プロフィール
東京大学教養学科卒。駐グアテマラ大使、駐バチカン大使、杏林大学客員教授、国際日本文化研究センター共同研究員など歴任。著書に『バチカンの聖と俗』(かまくら春秋社)、『現代日本文明論』(第三企画)ほか。

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