アフターコロナの社会像:都市と農村の共生 ―ソーシャル・ディスタンスに矮小化するな―

アフターコロナの社会像:都市と農村の共生 ―ソーシャル・ディスタンスに矮小化するな―

2020年6月19日

 アフターコロナの社会像を如何に描くか。環境計画家の私見を述べてみる。
 たとえ新型コロナウイルスへの医薬学的対応ができても、ウイルスの脅威はなくならない。であれば、ウィズ・コロナ。リスク覚悟で上手につきあうしかない。政治、経済系の論者が、アフターコロナの新生活様式の確立を強調するのはそのためだろう。
 マスクを付け三密を避け、オンライン・テレワーク活用をすすめる。私の大学でもいち早くウェブ授業を開始、いまも続けている。しかし実験実習を重視し、公立大学の使命として広く県民各層とのイベント等を通じてのコミュニケーション、コラボレーションの進化と深化を目指す観点に立てば、およそオンラインやリモート(遠隔)は万能とはいえない。

コロナ禍を助長した都市化と都市への人口集中

 ウィズ・コロナを言うまえに、こんなに悲惨なパンデミックが何故地球的規模で広がるのか。その根底には世界的な都市化と都市への人口集中という大問題がある。それを加速したのはグローバル経済下の現代的サービス産業社会で、その7割の人は三密を必然とする第三次産業に属しているのだ。
 丹羽宇一郎氏の『戦争の大問題』(東洋経済新報社、2017)に触発されて、「緑とオープンスペース論」や「都市のグリーンミニマム研究」の私としては〝過密都市の病理〟を指摘したいし、アフターコロナでは「都市と農村の共生」を基調としなければならないと言いたい。
 丹羽氏の本は世界史に残る戦争を戦費と戦利の損益で分析し、「儲かった戦争はひとつもない」「平和の要諦は戦争に近づかないこと」と断言する。
 都市とは何か?その前に私の卒論研究の一端を。いまでは日常語のような「ソーシャル・ディスタンス」を初めて読んだのだ。世界中でこんなに使われるとは50年前は想像もしなかった。逆にいま、この言葉の使い方の危うさも感じる。
 卒論では、どこにでも坐れる緑地利用者調査で次の2点を発見した。①新宿御苑の芝生地に点在するカップルの分布を調査すると林縁(Forest Edge)に7割以上が分布。②或るカップルと別のカップルの間距を実測すると、まるで測ったようにほぼ40ft12m)ずつ離れている。40ftSpreiregenによると「顔の表情がわかる限界距離」。2人だけの世界を求めて坐るのだが、危害を加える他人かどうかは絶えずウォッチしているらしい。
 さらにはE.T.HallTHE HIDDEN DIMENSION1966、日高敏隆訳、かくれた次元、1970)に出会った。いまは三密対策用語かと錯覚する「ソーシャル・ディスタンス」だが元は、アメリカの文化人類学者ホールが系統化した「人間における4つの距離帯」のひとつである。
 ホールは、多様な人間同士の社会的関係性を「人と人の間の距離のとり方」で、次のように類型化した。

①密接距離(近接相15㎝以下、遠方相1545㎝)
②個体距離(近接相4575㎝、遠方相75120㎝)
③社会距離(近接相1.22.1m、遠方相2.13.6m)
④公衆距離(近接相3.67.5m、遠方相7.5m以上)

 初対面でもハグやキスをする接触型民族もあれば、会釈、おじぎをする日本人のような非接触型もある。それが文化のちがいと論じてもいる。社会生活で相手方に好ましさを感じさせる接触のための適性距離、平和のための他民族との異文化コミュニケーションの基礎でもある。本当は感染症予防のためだけの2.1mではなく、人間同士の4タイプのいい関係を築くために、人間同士の距離は重要なのだ。

21世紀は「都市の農村化」の時代

 拙著『「農」の時代』(学芸出版社、2003)で私は、「20世紀は農村を都市化したが、21世紀は都市を農村化しなければならない」と強調した。
 都市計画研究で不思議なことは、適正人口密度が解明されていない点だ。理想的な都市計画事例では、最小と最大の人口密度幅は10000倍もちがってバラバラ。実に高密と過密、低密と過疎の定義は誰にもできない。ただ歴史的にみて都市化で伝染病が蔓延し多くの死者が出、都市の過密化人工化で呼吸器・精神疾患が急増、殺人や犯罪など「都市病理」が深刻化しているのは世界共通の事実だ。
 適性密度にも過密防止にも、水や大気、生き物が循環できる健全環境の保持にも「緑のオープンスペース・グリーンミニマム自然面率50%」を実現しなければならない。超高層ビル乱立の大都市東京の過密と、限界集落、消滅町村の超過疎の極端なアンバランスを、都市および地方計画当局者は本気で見つめなければならない。ソーシャル・ディスタンス、三密回避を云々するだけに、事の重大性を矮小化してはならない。
 効率と魅力の都市集住を、グローバルな商業主義が地球上に蔓延させてしまった。集住と高密を基調とする究極の都市化を追求しておいて、その真反対のソーシャル・ディスタンスを言い、適密なウィズ・コロナの新都市生活様式の創出を言うのは、生物学的に欺瞞でしかない。
 人間も生き物。生物社会には棲み分け理論がある。ハイリスクの過密大都市か、安全安心な「農」のあるくらしを選ぶ適密田園居住の地方か。いや実は、高・適・低の間は実に多段階で、極めて多様なチョイスが可能である。現代人の生物的感性は今や大幅に劣化し、過密と過疎の両極しか見えないようだが、「多自然居住」「二地域居住」「マルチハビテーション」など、今こそ地方のポテンシャルを発見すべき好機である。

進士 五十八 福井県立大学長
著者プロフィール
東京農業大学農学部卒。農学博士。東京農業大学教授、同農学部長・同地域環境科学部長、同大学長を歴任し、2016年より現在、福井県立大学長。専門は環境計画学。紫綬褒章受章(2007)、内閣みどりの学術賞(2015)。著書に『グリーン・エコライフ』(小学館)、『緑のまちづくり学』(学芸出版社)、『日本の庭園』(中公新書)、『都市になぜ農地が必要か』(実教出版)、『日比谷公園-百年の矜持に学ぶ』(鹿島出版会)他多数。

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