コロナ後の新たな家族関係

コロナ後の新たな家族関係

2020年5月20日

 21世紀に入ってから20年が経過するが、この間、多くの自然災害が発生している。とりわけ、東日本大震災は、記憶に新しい。今回の新型コロナウィルスの拡散は、それが特定の地域に限定されたものでないこと、地球規模での拡散という特徴を持つ。グローバリゼーションは、経済や人の移動を地球規模で展開してきたが、新型コロナウィルスの拡散は、グローバリゼーションの実態を反映する形で、一気に地球規模で拡散していった。
 東日本大震災と新型コロナウィルスの拡散の共通点は、それぞれの災害がもたらす日常生活の変化である。東日本大震災は、生活の基盤が根こそぎ奪われ、非日常の生活を強いられることであった。この経験は、われわれが、利便性・快適性・効率性を追求してきた社会の基盤の喪失でもあれば、お互いに助け合うことをやらなければ、生き残れないことを意味する。そのことが、家族の絆の再発見として確認された。今回の新型コロナウィルスは、家族に感染者が出ると、隔離され、感染を防止するために、家族の絆を確認する機会も与えられない。

「あいだ」と「つながり」の微妙なバランス

 ところで、家族を情緒関係としての家族関係に着眼すると、この関係は、「あいだ」と「つながり」から構成される。「あいだ」とは、自己と他者に距離があること、すなわち、個として自立していることを意味する。「つながり」は、自己と他者が、つながることを意味する。したがって、「あいだ」と「つながり」は、個として他者と距離を取りつつ、つながることであるため、絶妙なバランスが要請される。個としての自立が強調されると、「あいだ」に軸足が置かれ、「つながり」感覚が希薄になる。かつての日本社会は、「つながり」に軸足が置かれ、「あいだ」の感覚が希薄であった。今日の社会は、個としての自立が強調されることからも、「あいだ」に軸足が置かれている。
 若い世代の関係を観察すると、この「あいだ」をなるべく認めず、「つながり」を求めて安心したい、そして他者から承認されたいと思っているように見える。しかし、国際化のなかで期待されているメンタリティは、「あいだ」をきちんと受け入れ、「つながり」を持つことである。「あいだ」をなるべく認めないということは、同質志向でもある。「あいだ」を認めるということは、自分と異なる存在を認めるということである。他者という異質な存在あるいは異文化を受容するということ、そして自己の文化も主張できると言うことが担保されて、他者と「つながる」ことが求められる。これは、容易な課題ではないが、この課題がクリアされない限り、国際化のなかで生き残ることは難しい。個として自立することだけでは、さまざまな限界が生まれてくる。このことに加えて、「共に生きること」が志向される必要がある。「共に生きる」とは、「関係性を生きる」ことである。「関係性を生きる」とは、他者を存在として受容し、自己の思いも伝えることができる。これが、相互性のなかで展開される現象である。したがって、「共に生きる」とは、「個として自立する」ことに加えて、「関係性のなかでの自立」が志向される。これは、「関係性を生きる」ことを前提に、他者を飲み込む関係でも、他者から飲み込まれる関係でもない、自分は自分であるという在り方を言う。

「答えの出ない事態に耐える力」の必要性

 異質な他者あるいは異質な文化を受容するためには、どうしても欠かせない能力が存在する。これは、帚木蓬生氏が言うところの「ネガティブ・ケイパビリティ」である。これは、答えの出ない事態に耐える力を意味する。なぜこの概念が重要かというと、われわれの社会は、利便性・快適性・効率性を追求すると先ほど記述したが、このような特徴を持つ社会では、白黒を明確にすることや可視化することが好まれる。もちろん、白黒を明確にできることや可視化できることについては、その努力を否定するものではないが、さまざまな困難な状況を生きている個人や家族は、白黒を明確にできない状況を悩みながら生きている。したがって、このような状況を生きている個人や家族にとって、白黒をはっきりさせることよりも答えの出ない事態に耐える力こそ、必要である。この力が、相対的に落ちているように想像する。
 今回の新型コロナウィルスの拡散は、世界経済に大きな影響を与えていることも事実であるが、これまでの家族のあり方にも影響を与えていくように想像する。すなわち、個人化や多様化によって機能水準を低下させてきた家族が、在宅勤務を余儀なくされ、これまでとは異なる生活リズムで生きることになったことで、経験したことのないストレスを感じ始めていることも事実である。生活リズムの変化が、体調の不調につながることも少なくない。少しずつ感染者の数は、終息に向かいつつはあるが、今回のような試練は、われわれのライフスタイルを見直す機会として前向きに受け止めることも必要ではないか。大学社会では、これを機に遠隔授業が一気に加速していくと予想される。社会は、外圧によって変化するという見本のようなものである。
 しかし、外圧による変化には、注意が必要である。変化そのものが避けられないものであるとしても、それによって失われるものに対して自覚的であることである。例えば、遠隔授業の拡散は、それが利便なツールであることは事実であるが、対面授業の価値が過小評価される可能性を否定できない。とりわけ臨床系の科目は、身体を通して体得するものが多く、遠隔授業では代替が難しい。
 今回のような危機に直面することで、「あいだ」を維持し、「つながり」を志向すると言うあり方に近づくことを期待したい。

 

【参考文献】

畠中宗一編『共に生きるための人間関係学:「自立」と「つながり」のあり方』金剛出版、2020

畠中 宗一 関西福祉科学大学教授
著者プロフィール
1951年鹿児島県生まれ。鹿児島大学教育学部卒。筑波大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。東洋大学助教授、大阪市立大学教授などを経て、現職。大阪市立大学名誉教授。日本IPR研究会代表。公益財団法人ひと・健康・未来研究財団理事。学術博士。専門は家族臨床福祉学。著書に『子ども家族支援の社会学』『チャイルドマインディング』『家族支援論』『富裕化社会に、なぜ対人関係トレイニングが必要か』他。

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