研究者の心理と世界の食料需給の見通し

研究者の心理と世界の食料需給の見通し

2019年3月23日

 去る2008年前後の国際食料価格高騰に端を発し、世界の食料問題、農業問題に関心が寄せられていることはそれを研究している者にとっては喜ぶべきことである。その一方で、一般社会では地球温暖化問題や気候変動の問題、世界の人口増の問題等で、食料生産が今後も順調に増産されるのか、食料危機が来るのではないか、という将来に向けた不安も少なくない。
 前述のように、研究者にとって、自分たちの研究内容が社会の関心を呼び起こしていることは喜ばしいことであるが、それは、純粋に研究者が自らの研究の成果を知ってもらい、社会に注意を喚起できる、ということもさることながら、新たな研究費の獲得の可能性が出てくる、ということも研究者にとっては重要なことなのである。調査・研究には資金が必要となる。世間が目も向けないところに研究資金が集まることはまれである。資金がなければ研究はできない、といっても過言ではない。
 私の研究は応用経済学の範疇に入り、経済学の視点から世界の食料需給状況を診ている。そうして、その食料需給の状況と将来に向けた潜在性について、海外調査やデータ収集をもとに分析している。余談であるが、この海外調査やデータ収集においても資金なしには不可能である。幸いなことに、私の場合は1990年代以来、文部科学省の科学研究費に恵まれてきた。
 ところで、研究者というものは私がこれまで(自分も含めて)観察している限り、意外に社会に対して危機意識や不安を投げかける性格があるようだ。その理由は上記に述べたこととの関係を否定はできない。また、不安を投げかけることにより、それを避けようと社会が努力し、その懸念された事態が到来しなければ、それで良し、とすることもあり得るであろう。
 しかし、あまり心配することはないんですよ、ということが研究の結果で示唆されれば、それを正直に社会に伝えることも科学者の責務ではないだろうか。研究者によってはそれでも不安が残るとして、その不安を強調している向きもあるようだが、社会に平安を提供することも大切なことである。
 さて、前置きが長くなってしまったが、世界の食料の現状はどうなっているのか、ご報告したい。社会に意外と理解されていないのが、先の国際食料価格の高騰をきっかけに世界の食料生産が大幅に伸びたことである。ちなみに、国際価格が上昇し始めた2006年を基準に、一応の価格の落ち着きがみられた2014年までの8年間の変化を見てみると、この間に世界の人口が10.2%伸びているのに対して、世界のコメ、コムギ、トウモロコシ、そしてダイズの伸び率はそれぞれ14.7%22.4%47.7%、そして36.0%である(米国農務省のPSD Onlineデータから計算)。価格も確かに大きく上昇したのであるが、その価格上昇に反応する全世界の農家の対応には驚くべきものがある。
 これはなにも貧しい発展途上国だけのことではない、発展国の農民も同じである。むしろ、欧米の発展国の農民のほうがより敏感であるかもしれない。私は80年代に米国で研究していたころ、米国の農民は価格が上昇すると1ha当たりの単収も増加することをそれまでのデータ分析から把握している。これは当然と言えば当然のことである。農民にとって農産物の価格上昇は、サラリーマンの月給が上昇するのと実は同じことである。「価格は上昇しコストも増えているため儲けはない」という言葉をよく耳にするが、これは世界共通の謙遜的な弁であろう。上昇するとなれば、誰もがより力を込めて働くであろう。
 価格が上昇してメリットを得るのは農民だけではない。研究者も同じ。価格が上昇するとより生産を拡大できる手段はないかと、研究にも資金が回ってくるのである。そうして、農民の努力に加えて、研究においても増産のファクターが追加される。農機も売れるようになると、農機の研究も進む。肥料においてもそうだ。さらに、流通においても取扱量が増え、効率化が加速する。そのように、食料を取り巻く社会全体がダイナミックに変化するのである。よって、価格の上昇は長期的には技術革新も伴い、大きな増産を引き起こすこととなる。
 実はこの価格上昇によるダイナミックな生産拡大を現存するモデルの計算式で予測するのはかなり困難なようである。そもそも、研究者が技術革新の現代のスピードを十分にモデル化できなかったり、またペシミスティックであったり、外部からの圧力があったりするのも実情である。だから、価格の上昇面だけが強調されて、消費者には不安が増し、増産が必要だとする世論となり、生産サイドには一時的にはプラスになるが、長期的には価格低迷をもたらす、ということがこれまでの歴史である。
 地球温暖化や気候変動に関しても、世界の食料問題にとってはマイナスの側面として映るきらいがある。しかし、仮に気象が悪化して単収が減少するようなことがあれば、世界の食料価格はすぐに大きく上昇する。上昇すれば新たな農業投資に世界で火が付き、農業開発に勢いがつくことになろう。日本に近い東南アジア諸国や南米の各国にはまだかなりの潜在的農地が残されている。さらに、アフリカのサブサハラとなれば、これはコンゴ民主共和国、アンゴラなど、多くの国で膨大な開発潜在地がある。現在は内紛もあり、開発は遅れているが、可能性は非常に高い。
 世界の食料に対して、手放しで安心しておいてよい、ということでは決してないが、大きな不安を抱く必要もない。なお、世界の食料生産は価格が下降気味で推移している2014年以降も増産を続けている。一度達成された各地それぞれの生産技術は生産量を大きく底上げする力があり、多少の価格低迷で生産量がすぐ元に戻るような減産にはならない。

政策オピニオン
伊東 正一 九州大学名誉教授・特任教授
著者プロフィール
宮崎県生まれ。宮崎大学農学部を卒業後、米国アーカンソー大学で修士号、テキサスA&M大学で博士号を取得。鳥取大学助教授、教授、首都ワシントンの国際食料政策研究所(IFPRI)の上級研究員などの後、九州大学大学院教授を経て、2018年3月定年退職。現在、九州大学名誉教授・特任教授。これまで世界50カ国を調査する傍ら、ホームページ「世界の食料統計」にて世界200カ国・地域に及ぶ統計グラフと数値を4カ国語(英語、スペイン語、中国語及び日本語)で世界に提供。

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