第1回 昭和100年の幕開け:動乱の予兆 —「戦争の20年」を招いた原因は大正期に—

第1回 昭和100年の幕開け:動乱の予兆 —「戦争の20年」を招いた原因は大正期に—

はじめに

 2025年は令和7年だが、昭和に置き換えれば昭和100年に当たる。100年の昭和は、「戦争の20年」と「平和の80年」に分けることが出来る。昭和100年の節目に生きる我々には、戦前・戦中の昭和の再評価に挑むとともに、歴史の連続性を重視し、分断されたままの昭和史を一つの時代として扱い、その総括に取り組む責任がある。
 既に明治が語られなくなったように、昭和生まれの日本人も社会の一戦から間もなく消えていく。昭和、特に戦前記昭和に生を受けた日本人が健在なうちに、昭和の総括を試みるべきであろう。
 激動の昭和をいま冷静な眼差しを以て顧み、その時々の政策決定や国の進むべき進路、舵取りを巡る模索や挑戦、時に逡巡がその後の日本にどのような影響を与えたか。仮に選択が誤っていたならば、ではどうすればよかったのか。過去を振り返ることによって、今日の日本が直面している難問や課題解決の糸口を見出すことにも資するのではないか。
 そのような思いから、今年1年、昭和の時代における幾つかの節目に焦点をあわせ、考察を重ねていきたい。

1 「戦争の昭和」へと至る道程

 昭和を回顧し、その総括を試みる際、避けて通ることの出来ない最大のテーマは「戦争の20年」、その中でも大日本帝国を崩壊へと導いた対米戦争はなぜ起きたのか、そしてまた避けることが出来なかったのかという問題である。もし避けられたとすれば、どの時期のどの政策に誤りがあったのか。真珠湾攻撃の時期が近づくにつれ、対米戦回避に向け取り得る余地は狭くなるばかりであったが、戦争回避の最後のチャンス、つまりポイントオブノーリターンは何時だったか等々が検討されねばならない。
 戦争回避の機会は、許された時間に余裕があり、政策変更や外交的な駆け引きをする余地が大きかった遠い過去においてより多く存在したであろう。ではいつまで遡ればよいのか。昭和最初の20年を「戦争の時代」とした遠因は、始まったばかりの昭和の中に求めるのではなく、その前の時代に目を向ける必要がある。
 米国の著名な外交史家ジョージ・F・ケナンは、「この問題を充分に論じようとするならば、それは、太平洋戦争勃発に先立つ半世紀にわたる日米関係の経緯すべてを論ずることになる」(『アメリカ外交50年』)と述べているが、先立つ半世紀とは明治の末期に当たる。ケナンが指摘するように、太平洋戦争を招いた日米の対立は明治の末期、即ち日露戦争を巡る両国の関係にその起源を求めるのが至当である。そこで日露戦争以降の日米関係の経緯を振り返りつつ、日米戦を招いた原因を探っていきたい。

2 日露戦争と日米関係

 日露戦争は大国ロシアを相手とするまさに日本の存亡を賭した戦いであったが、日本陸軍は旅順を占領し、奉天会戦に勝利した。海軍は東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊が日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させ、世界海戦史上類無き勝利を収めた。日英同盟の存在が独仏の参戦を阻止し、ロシア国内の政情不安にも助けられた。また戦争に要した17億円の戦費の4割は、英米で募集した外債で賄われた。ロシアのアジア進出を阻止するため、米国は英国と共に日本を政治経済の両面で支えたのである。
 さらに、これ以上戦争を続ける力が日本に無くなった時、米国のセオドア・ローズベルト大統領が仲介に乗り出し、我が国有利のなかで講和交渉に持ち込むことができた。朝鮮における日本の優位的地位が米英に承認された(桂タフト協定、日英同盟改訂)のち、ポーツマス条約(1905年)で日本は韓国に対する一切の指導権を獲得したほか、ロシアから遼東半島南部の租借地(旅順、大連)や東清鉄道南満洲線、それに南樺太の譲渡を受けた。さらに鉄道守備隊を除く日露両軍の満洲からの撤退も実現した。
 近代国家として誕生間もない有色人種の国日本が世界最大の陸軍大国である白人国家ロシアの膨脹を阻止したことは、世界の被支配民族に独立への希望と民族の誇りを与えた。

3 日露戦後悪化した日米関係

 だが日露戦争を境に、それまで協調関係にあった日本と米国は徐々に対立の様相を深めていく。ロシアという共通脅威の後退に加え、日本陸軍が満洲経営の独占化をめざしたことが、大陸市場の開放を求める米国の利害と衝突したのだ。
 ポーツマス条約締結後、日本は関東総督を新設し、その指揮下に2個師団約1万人の兵力を満州に駐留させたが、陸軍は各地に軍政所を設け軍政を敷く姿勢を取り始めた。そもそもロシアによる満州独占に反対し、その機会均等・門戸開放を主張して英米と提携する形で対露戦を戦ってきた日本であり、清国及び英米両国からもこうした日本の独占閉鎖的な姿勢に抗議の書簡が寄せられた。
 南満州での軍政を継続させ、事実上満州の独占を図ろうとする陸軍の行動を憂いた伊藤博文は「満州問題に関する協議会」を開催させ、児玉源太郎参謀総長を筆頭とする陸軍の独走に歯止めをかけようと動いた。結果、伊藤ら文治派が勝利し、関東総督の機関を平時組織にすること、軍政所を逐次廃止することが決定され、軍政継続は解消させられた。
 伊藤博文によって軍政の継続は防がれたが、満州を独占しようとする日本の姿勢は徐々に強まっていく。ポーツマス会議から帰国した外相小村寿太郎は、満鉄を日米合弁事業にしようと目論む米国の鉄道王ハリマンの申し出を退けた。既に日本側も同意していたハリマンの提案を小村は破棄させ、米国資本が満州に入ることを阻んだのである。
 その後も米国はいわゆるドル外交を展開し、満州の鉄道事業への資本参加を狙ったが、日本側の抵抗でその思惑通りには進まなかった。米国の積極的な極東進出政策は、それに対抗する手段として逆に日露の接近、提携を招く結果となった。
 日露戦後、満州市場の独占を目指す日本とそれに反発、満州に入り込もうとする米国の対立は次第に先鋭化し、日米の関係に深い影を落とすことになった。日本が満州独占に拘り、英米への協調姿勢を失いつつあったことに警鐘を鳴らしたのが朝河貫一であった。
 「前後の事情をかえりみれば今日の形勢の奇異なるに驚かざるを得ず。清国の領土保全および機会均等は日本開戦の一大理由にして、ポーツマウスの談判及び条約またこれを主眼とせり。実に日本は一百万の兵を動かし、二十億の金を費やし、ほとんど国運を賭けてこの二大原則を主張し、幸いにして勝利の力によりてこの主張を貫徹し得たりしなり。しかるにたちまち清国自ら日本をもって主権侵略の敵となし、世界また日本をもって機会均等を破る張本(人)となすに至れり。彼等往々おもえらく、日本は戦後の優勢をもって戦前の露国の志を遂行せんとするものにして、露国よりも一層偽善にして、一層強大なる平和攪乱者というべしと」(朝河貫一『日本の禍機』)。

4 セオドア・ルーズベルトの対日警戒心

 だが、日米対立の火種は日本側だけにあったわけではない。日露戦争後、高まりを見せた黄禍論を背景に、カリフォルニアでは日本人移民の排斥運動が激化した。カリフォルニアの排日運動は日本人学童の隔離問題へと発展し、サンフランシスコでは1年間に57件もの日本人に対する傷害や家屋の破壊事件が起きた。日本に対しては中国での門戸開放や機会均等を唱えながら、米国自身は排外主義を押えようともしないダブルスタンダードが横行したのだ。
 またセオドア・ロ−ズベルト大統領は日露戦の末期、日本が大陸に勢力を伸長させることを強く警戒するようになる。彼が日露間の仲介役を買って出たのも、戦争を継続させロシアがアジアから撤退する事態となった場合、戦後、日本がロシアの手放した地域や権益を手に入れ中国市場を独占し、米国の中国大陸へのアクセスを妨げることを危惧したからであった。さらにロ−ズベルト大統領は、フィリピンと韓国における日米の勢力範囲を確認した「桂・タフト協定」(1905年)があるにもかかわらず、日本によるフィリンピン侵略(南進)脅威にも警戒の目を向けていた。
 日露の講和成立後、ローズベルト大統領はホワイトフリ−ト(戦艦16隻、装甲巡洋艦2隻、駆逐艦6隻、運送戦8隻からなる大艦隊)を日本に派遣(1908年)するなど米国の軍事力を誇示し対日牽制の動きを見せるとともに、同年締結した「高平・ルート協定」によって日本のフィリピンに対する野望を放棄させた。
 また米海軍は密かに対日戦争計画に着手(オレンジプラン:1911年立案、1924年採択)している。
 「海軍大学(Naval War College)」が、1911年のオレンジ計画において下した判断は、もし戦争勃発時にアメリカの戦闘艦隊が大西洋側にいる場合、(パナマ運河がまだ出来ていなかったため)艦隊が遠路南米を迂回して太平洋に出撃してくる前に、日本はフィリッピン、グァム、ハワイ、アリューシャン列島を攻略してしまうことができよう、というものであった。」(ウィリアム・R・プレイステッド「アメリカ海軍とオレンジ作戦計画」)
 一方、日本海軍も次第に米海軍をライバル視するようになる。1907年(明治40年)に制定された「帝国国防方針」では、ロシアに加えて米国も仮想敵国に取り上げられ、海軍は「国防所要兵力」の初年度決定において、戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻からなる八八艦隊の創設を謳った。ただ「帝国国防方針」は軍部のみで作成され、その最終決定から首相をはじめとする内閣は排除された。

5 日米未来戦ブーム

 日本が本格的に大陸進出に乗り出そうとした時期と、パクスアメリカーナが成立し始める時期が重なりあったことは、その後の日本にとっては不幸であった。
 但し、この時期の日本が露仏との提携を深め(日露協約、日仏協約:1907年) 、それが米国を牽制することにはなっても、日本外交の基軸はあくまで世界秩序を形成する覇権大国英国との同盟関係(=現状維持勢力への支持)に置かれ、挑戦勢力の側に立たなかった点で、日本の国際的立場は昭和前半期のそれとは根本的に異なるものであった。また海軍は対米戦を想定はしたが、それは八八艦隊など軍事力整備を進めるうえでの対抗目標としての位置づけの面がなお強かった。
 もっとも、対米関係の変化に加え、日露戦後、西欧コンプレックスの裏返しとして、神国思想や過度の精神主義に根ざす偏狭な民族主義、それに対外的な傲慢さが日本社会に強まり始めたことも事実だ。
 そうした中、日米両国政府が互いを仮想敵国と見なし、作戦や兵力整備の計画策定に入ったのと呼応して、民間では日米の戦争を描いた未来戦記が相次いで出版されるようになる。その嚆矢がホーマー・リーが著した『日米必戦論』(1909年)である。米本土に日本軍が攻め寄せ、太平洋岸の占領を目指すというストーリーで、モンロー主義に浸る米国民に警鐘を鳴らし、軍備強化の必要性を訴える狙いがあった。
 少し遅れて日本でも水野広徳の『此の一戦』(1911年)が出版されベストセラーとなった。そのほか阿武天風『日米戦争夢物語』(1910年)や河岡潮風『日米石油胆力戦争』(1911年)、有本芳水『空中大戦争』(1913年)などの日米未来戦記が相次いで出版されるようになる。

6 第一次世界大戦と対華21か条

 第一次世界大戦の勃発は、極東における列強勢力の空白を生み出した。それを好機と日本の中国進出の勢いは熱を帯び、同時に日米の対立関係は俄かに表面化する。日本の中国進出に対して米国は絶えず一つの原則を持ちだした。それがヘイ国務長官以来の「門戸開放主義」であった。
 1915年、日本が「対華21か条の要求」を袁世凱に突き付け、山東省におけるドイツの利権・租借地の継承などを狙った際、米政府は直ちにブライアン国務長官の名において抗議文を日本に送り、「米国は中国における米国の既得権益を侵害するような一切の変化を認めない」とした(対日不承認主義の宣言)。その後も米政府からは、事ある毎に同様の通告が日本政府になされた。
 先にも触れたが、米国は日露戦後、日本人移民が西部海岸地帯に流入することに過敏に反応し続け、1913年にはカリフォルニア州で日本人の土地所有を不可能にする法律を成立させた。広大な米国への移民を拒絶された日本に遺された地は中国しかなかった。
 英連邦内の自治領もみな人種差別主義で日本人移民を拒否していたが、米国とは対応が異なっていた。米国が日本人の中国領土内への発展も「通商上の機会均等」「中国の領土保全」原則を振りかざして反対したのに対し、日本人の中国進出には鷹揚な対応を見せたのだ。
 中国という弱小国を犠牲に差し出すことで、英国は自らの領土を守ったのである。他方、米国は自分の領土において示した非人道的な行為の埋め合わせをするかのように中国においては倫理的道徳家的アプローチに立って中国という弱小国を日本の侵略から守ろうとしたのである(三輪公忠『環太平洋関係史』)。米国の偽善というべきであろう。この対華21か条要求以後、日米は相互信頼の関係に立ち戻ることは不可能になった。

7 日本の参戦と英国の対日評価

 第一次世界大戦が勃発すると、英国は日本に陸軍のヨーロッパ派兵と金剛型戦艦の貸し出しを求めてきた。しかし日本はいずれの要請も断った。そこで、ヨーロッパ戦線で手一杯の英国は、中国にあるドイツの軍事拠点、青島要塞の攻略について日本に協力を求めてきた。
 当時、ドイツは青島に租借地を持っており、街を要塞化するとともに極東艦隊を配備していた。青島を攻略できれば我が国にとってもメリットが大きいと判断し、日本は英軍と共に青島攻略戦を実施した。また中国に残ったドイツ極東艦隊の一部がインド洋から東南アジアにかけての広い範囲で連合国の商船を攻撃していたため、日英の艦隊がそれを追撃した。さらに日本はドイツの植民地であったマリアナ諸島やパラオなどの南洋諸島を占領する。
 かように太平洋で日本は一定の軍事行動を担ったが、英国の欧州方面への派兵要請を断り続けるのは日英同盟の関係上不味いと判断し、第二特務艦隊を地中海に派遣し船団護衛の任務に従事した。程なくドイツは連合国の軍艦以外に商船も攻撃する「無制限潜水艦戦」を宣言、地中海の船団護衛は英国と共に日本が受け持ったのである。第二特務艦隊の作戦は、第一次世界大戦の終結まで続けられ、連合国からその働きは高く評価された。終戦後に設立された国際連盟で、日本が常任理事国になるきっかけの一つになった。
 かように、日本は大戦で英国に対しかなりの協力貢献をしている。しかしながら、大戦における日本軍の協力姿勢に対して英国の中では強い不満が生まれた。日本は自国の利益になる場合は日英同盟を最大限利用するが、そうでない場合は英国の求めに対して冷淡であり、利己主義の国との評価が強まった。
 仮に英国の要請に基づいて欧州戦線に地上兵力を送りこんでおれば、日本に対する評価は高まったであろうが、太平洋正面や地中海での船団護衛では、英国民に日本の貢献をアピールする力が弱かったことがその背景にあるとされる。ドイツの対日批判プロパガンダも英国の対日意識に影響していた。この日本への批判の強まりが、英国において日英同盟の継続を疑問視する声となった。
 この間、日米の間では、満州における日本の特殊権益を認めつつ、中国における門戸開放主義の原則を再確認する石井ランシング協定(1917年)が結ばれた。第一次世界大戦に参戦するに際し太平洋方面の安定を確保しておきたいウィルソン政権と中国進出について米国の了解を得たいと考えていた日本との妥協の産物であった。

8 シベリア日米共同出兵

 世界大戦中の1917年にロシアで革命が勃発、帝政ロシアが崩壊した。この政変によって、ロシアとの連携によって米国に当たろうとする日本の思惑は狂った。11月革命で生まれたボルシェビキ政権はドイツと単独講和したため、東部戦線を維持する必要から英仏両国は日米両国にシベリアへの出兵を求めた。米国はこれに応じず、対米協調を重視する日本も権益拡大の動きと批判されぬよう単独での出兵に慎重だった。
 ところがその後、チェコスロバキア軍団の救出問題が持ち上がり、英仏は再び日本に出兵を要請、またそれまで出兵に反対していた米国が突然態度を翻し日本に共同出兵を提議してきたため、1918年8月、日本も出兵を応諾した。共同出兵を持ちかけてきた米国の真の狙いは、帝政ロシアの勢力範囲を継承しようとする日本を牽制することにあった。「米国のシベリア出兵の目的は、徹頭徹尾日本の北満州とシベリアへの進出に抵抗することだった」と米国の外交史家グリスウォルドも「米国の極東政策」で述べている。
 そもそも米国は日本とは逆にボルシェビキ政権に好意的であり、経済援助を行っていた。日米の共同出兵とはいえ実態は同床異夢だった。そのうえ出兵によっても目的が果たせないと見た米国は1920年1月、突然日本との事前調整も無く一方的に米軍の撤兵に比み切り、日本の出兵を際立たせる手段に出たのである。

9 ワシントン体制と日英同盟の廃棄

 大戦後、日本全権団は先勝国の一員として勇躍ベルサイユ会議(1919年) に列席、悲願であった大国の地位を手に入れ、山東省の旧独利権を獲得、赤道以北の旧独領南洋諸島(マリアナ、パラオ、マーシャル諸島)を委任統治領とするが、人種差別撤廃を国際連盟規約に挿入させることはできなかった。
 第一次世界大戦を機にパクスブリタニカが陰りを色濃くし、それに代わり米国の力が俄かに高まった。そして1920年代、欧州においてはベルサイユ体制が、アジア太平洋では新たな覇権国となった米国が主導してワシントン体制という新たな国際秩序が構築された。
 ワシントン体制の背景には、米国の太平洋・中国大陸への進出意欲と日本の膨脹を抑制する狙いが存在していた。第一次世界大戦終了直後、米軍部はドイツの牽制を受けなくなった英国が、その海軍優位と通商支配を回復するために米国に敵対してくるのではないか、と懸念するようになった。そのため米国にとって第一の仮想敵国は英国とされ、その英国と日本が日英同盟を結んでいることから、米英間で戦争が起きた際、日本が英国側に立って参戦することを米国は恐れた。また現実性が低いとはいえ、日米戦争となった場合、日英同盟が存在する限り、英国は理論的に日本の側に就く可能性があった、そこで米国は、日英同盟を廃棄させるため全力をあげるのである。
 1921年に開催されたワシントン会議において日本政府は、対米協調優先の立場から「海軍軍備制限に関する5か国条約」(1922年締結) によって米英日の主力艦比率を5:5:3とすることを甘受し、軍部の目指していた対米7割を断念する。


 また中国の主権尊重・行政と領土保全・門戸開放・機会均等の原則を謳った9か国条約(1922年締結) によって米国は、ジョン・ヘイ以来の門戸開放宣言の国際的認知を獲得した。一方我が国はドイツから得た山東半島における特殊権益を放棄させられ、さらに太平洋の現状維持に関する日英米仏の4か国条約(1921年締結) の第4条に「千九百十一年七月十三日倫敦ニ於テ締結セラレタル大不列顚國及日本國間ノ協約(=第三次日英同盟)之ト同時ニ終了スルモノトス」の一文が挿入され、これによって米国の思惑通り国家戦略の機軸であった日英同盟も破棄されることとなった。
 ワシントン体制の成立と日英同盟の破棄は、日本に対する米国の政治的勝利を意味するとともに、米国による太平洋時代の幕開けを告げるものでもあった。日本は明治以来の軍備増強路線が抑えられ、軍内部の反米派を勢いづかせる契機ともなった。

10 日本の孤立と米国の偏向的な対日・対中政策

 ワシントン体制の下、それまで日本外交の基軸としてきた日英同盟は破棄に追い込まれ、日本は日英同盟に変わり4カ国条約や9カ国条約と言った多国間条約の枠組みの中で自国の安全保障を委ねることになった。しかし、これら多国間条約に日本の生存を託すに足りるだけの規範力が無いことは明白だった。
 基軸同盟を失う一方で、新たな覇権国家となった米国との関係改善は日増しに悪化した。日本は英国に代わる同盟国を見出せず、次第に世界から孤立する。その挙句、国際秩序への挑戦と破壊を目論む独伊との連携に途を託すようになる。
 新たな覇権国家である米国の東アジア外交は、日本の孤立化を図る一方で中国寄りの政策を展開する。米国の政策は日本に厳しく、中国には甘かったのだ。歴史の浅い米国には、中国を殊更美化し、その文化や歴史に畏敬や憧憬の念を抱く傾向があったが、19世紀後半からの米国人宣教師によるキリスト教伝道活動を通して、中国に対する慈悲的な感情が支配的となり、思い入れや使命感はさらに強くなっていった。逆にキリスト教の布教に成功しなかった日本への視線は冷たかった。
 「1920年代初頭におけるアメリカの外交官たちの対日観は、その対中観ときわだって対照的であった。彼らはこの中国の隣国を疑惑と警戒をもって眺めていた。第一次世界大戦中における日本の中国への侵略は、日本に対するアメリカの敵意を強めさせた。アメリカの外交官の多くは、独立した近代強国としての中国の誕生にとっての最大の脅威は日本であると確信するにいたった。彼らは・・・同時に日本をアジアにおける二流国であるとみなしていた。この二流国は中国資源の搾取によって自らを強化しようとしており、その過程で欧米的理想と制度が中国に浸透するのを妨げようとしており、開かれた中国の門戸を閉じようとしている、とアメリカの外交官たちは思っていた。・・・
 アメリカの外交官たちの中国への傾倒は、近代社会の緊張から逃れたいという彼らの願望に根差していた。彼らは中国において文明的ではあるが産業化されていない国家を見出した。そこには彼らの美的感覚に訴えるものがあり、また過ぎ去ったアメリカを想い出させるものがあった。・・・日本は中国に比してこの種の吸引力を欠いていた。19世紀後半には日本の前産業社会がアメリカ人を魅きつけたこともあったが、1920年代の日本は近代化の道をすでにかなり進んでおり、その種の魅力の大部分を失っていたのである。」(チャールズ・E・ニュウ「東アジアにおけるアメリカ外交官」)
 先のケナンも『アメリカ外交50年』の中で、中国に対する米国の態度にはどこか贔屓客のような感じがすると述べている。後に大統領となるフランクリン・ローズベルトは中国に理屈抜きで好意を抱く一方、日本を警戒、敵視する念は消えなかった。そして米国が掲げる門戸開放、機会均等、中国の領土保全の原則に背き、侵略主義を露骨に進めるのが日本であり、他方、日本の搾取に立ち向かう若き国中国にはいまや健全なナショナリズムが育ち始めている。この中国を支え、育て挙げるのが米国の使命であるかの甘い認識が、当時の米国の外交当局をも支配していた。
 中国=善、日本=悪という善悪二元的な捉え方は、米外交の特徴である道徳主義の産物であった。当時中国が欧米に向け活発に繰り広げていた反日キャンペーンが効果を上げていたことも多分に影響していた。


 これに警鐘を鳴らしたのが、1925年から29年まで米国の駐華公使を務めた中国通の外交官マクマレーであった。米政府が中国には大きな関心を払う一方、日本に対して十分な注意を向けないことにかねてより強い違和感を抱いていたマクマリーは1935年、国務省極東部長のホーンベックに宛てて「極東における米国の政策に影響を及ぼしつつある諸動向」と題した覚書を提出した。
 その中でマクマリーは、米国外交には勢力均衡の発想が欠如しており、道徳律や使命感といった情念によって外交が動かされることを批判したうえで、統治能力に欠け未だ主権国家の体を為していない中国が反日ナショナリズムを背景にワシントンの諸条約を公然と無視する強引な外交を進めている実態に懸念を示し、しかも米国がそのような中国の側を支持し、日本を追い詰めていくことは将来の戦争を招く恐れがある。そうなれば結局はソ連の影響力が強まるだけであるとして、力の均衡に配意した穏当な対日政策を取るべしと主張した。だが、マクマリーの献策が採り入れられることはなかった。

結語:日英同盟の破棄と対米国家戦略の不在

 ワシントン会議の後、日本海軍は軍縮条約への不満も加わり、それまで以上に対米戦を強く意識するようになる。一方、陸軍はそれまで通り大陸やソ連への関心が中心であった。政府・外交当局はといえば、米英協調を掲げてはいたものの、次第に悪化する日米関係を前にその場凌ぎの対応を見せるだけで、日米関係の将来を見通した政策は持ち合わせていなかった。対米戦などは想定の外にあり、逆に対米戦を強く意識する海軍との間で意思の統一や擦り合わせ、政策調整の作業を試みることもなかった。
 日本は外交の柱としてきた英国との同盟関係を失い、他方、新たな覇権国家である米国の日本に対する態度は厳しいものがあった。それは、太平洋や東アジアで米国を脅かす危険な存在、共存を許さぬ存在と位置付けた日本に向けられた視線だった。
 では日本はどう対応すべきなのか。米国が排日反日の姿勢を益々堅固なものとするなかで、米国との関係悪化を避けるため、あくまで対米協調の路線を維持し続けるのか?そうであるなら、大陸進出を目論む陸軍を抑えるなど我が国の対中政策を再検討し国策の統一を図り、対米合意が得られるようなものに改めねばならない。
 反対に、日米妥協の接点を模索しても、米側に交渉解決の意思が乏しく、屈辱的一方的な譲歩や無理難題を強いられる事態にならば、それに耐えてまで卑屈な外交関係の維持に徹することはできまい。今後の展開如何では、対米戦已む無しの事態も想定し、一戦交える覚悟を固めるのか?しかし、圧倒的な国力の開きから対米戦での勝利は到底望めず、極力限定的な戦いに留め、早期和平の道を模索する以外に途はない。戦争と講和を視野に入れた国家戦略の策定が必要である。
 あるいはまた、諸外国と友好協調的な外交関係を展開し、国際的な枠組みで米国の圧力や横やりを抑えるのか。前二者に比べ、この第三の道が最も現実的で実行可能性の高い選択肢であったように思えるが、そうだとすれば、日英同盟の破棄は最悪の選択であった。
 米国に備えるには、9カ国条約や4カ国条約のような安全保障の裏打ちの無い多国間枠組みではなく大国との同盟が不可欠であり、当時の国際情勢でそれは英国との同盟以外に考えられなかった。対米関係が悪化する中、日英同盟を存続させ、英国との絆を梃子に、英国を前面に押し出すことで、米国を牽制すべきであった。
 第一次大戦後、英国の日本や日英同盟に対する評価は悪化した。加えて英国には、日英同盟を破棄させようと米国からの圧力がかかってはいたが、英国の識者や外交当局の中には、豪州やニュージーランドなど英連邦への日本の脅威を減殺するうえで、日英同盟を存続させる必要性を説く者もなおいた。同盟の継続は決して不可能ではなかった。だが第一次世界大戦後、日英同盟を存続させるための真剣な努力を日本は行わなかった。大正期日本外交の大きな失点だった。
 そしていまひとつの失点は、米国との関係が悪化しているにもかかわらず、和戦両様を睨んで具体的な対米国家戦略を構築しようとしなかったことだ。
 「米国は過去の政策および未来の利害の上より東洋の正当競争をますます固く主張せざるべからざる地位にあり、これがためにはその日に月に増進しつつある驚くべき深大の国力を傾けて、これを遂行することをも辞せざる決心を有せるものなり。今日はいざ知らず、将来は味方として頼むべく、敵として恐るべきこと世界列国のうち米国のごときものあらざるの時来るべく、而してこれを我が敵たらしむると味方たらしむるとは、一に日本の動作これを決するのみならん」(朝河貫一『日本の禍機』)
 日米関係をあくまで外交解決で処理し対米戦回避を貫くなら、外交でどこまで米国に譲るのか、反対に対米限定戦を意識するなら、戦争の方針と講和の途をどう描くのか、国家として統一された対米戦略を構築しなければならなかった時期に、なすべき努力を怠った責めは重い。
 昭和を迎える頃の日本を取り巻く国際環境は、現在のそれと似ている。覇権国家の交代という世紀レベルの国際秩序の変動期にあたっていたからだ。そして、どの国と同盟を築くか、またそのためにどのような外交を展開すべきかの重大な判断が問われた際に、当時の日本はその選択を誤った。そして多国間枠組みに翻弄され、さらに孤立化の途に陥った挙句、秩序破壊の挑戦勢力に与した選択が国の命取りになったのである。
 日米の対立が深刻化していく一方、日本国内では軍部と政府(外交)の間で政策の調整や一本化に向けた努力が試みられず、一体感のないままそれぞれが独立した行為体のように動き出していく。
 世界大戦の戦勝国に名を連らね、世界の大国の仲間入りを果たした日本ではあったが、大正から昭和初期にかけて、新旧覇権国家に対する対応ぶりはかように極めて拙劣であった。国家戦略の策定力という面で、日清、日露を戦い抜いた明治政府の力量を下回っていたのではないか。この変質と劣化が「戦争の20年」を招くことになったといっても過言ではない。では明治末から大正期にかけて、なぜ国家の命運を左右する重要な国策の策定が出来なくなってしまったのか。その原因を探る必要がある。
 その解明に際して、時代が明治から大正に変わるや気に掛かる出来事が起きている。第一次世界大戦がはじまる前年、軍部の政治への干渉が初めて公然化する事件が持ち上がったのだ。世に謂う大正政変(1913年)である。時代の変化に伴うこうした動きを踏まえつつ検討を進めていきたい。

西川 佳秀 平和政策研究所上席研究員
著者プロフィール
1978年大阪大学法学部卒。防衛庁入庁、防衛研究所研究室長、東洋大学教授等を経て、現在、東洋大学現代社会総合研究所研究員、(一社)平和政策研究所上席研究員。法学博士(大阪大学)、国際関係論修士(英国リーズ大学)。専攻は、国際政治学、戦略論、安全保障政策。主な著書に『ポスト冷戦の国際政治と日本の国家戦略』『ヘゲモニーの国際関係史』『日本の外交政策―現状と課題、展望』『特攻と日本人の戦争』『日本の安全保障政策』他多数。

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