日本社会と社会政策の昭和百年

日本社会と社会政策の昭和百年

 昭和百年は、咄嗟に「降る雪や明治は遠くなりにけり」を想起させる。昭和初期、明治を偲んで歌人が詠んだ句である。20世紀の日本人は近代国家を成し遂げた明治への思いが強く、21世紀の日本人は戦争と繁栄が織りなした昭和への思いが強い。
 仮に、千年の歴史を振り返れということになっても、明治と昭和は画期的な時代として取り上げられよう。社会政策という観点に絞れば、欧米の制度を採り入れる以前には、8世紀の光明皇后が創設した悲田院、施薬院以来、救貧対策しか存在しなかった。明治には、近代国家としての制度整備、昭和には福祉国家としての制度が創設され、日本は世界史に登場する国になった。
 筆者はこの論考において、昭和百年の歴史的社会政策として、社会保険方式の福祉国家の建設と、家族に関する福祉政策(介護、少子化、女性)の発展の二点を挙げたい。前者はまさに昭和時代の仕事だが、後者は実際には平成時代の仕事である。その上で、社会政策が日本社会から受けた影響、与えた影響を考慮し、昭和百年を歴史上際立たせる議論を試す。筆者は健康と福祉分野の実務家(行政官、政治家)としての立場から論ずるため、労働政策と広い意味での社会政策である教育政策には言及しない。

1 福祉国家の建設

 明治になって、義務教育など学制はいち早く整えられたが、社会政策では、恤救規則(じゅっきゅうきそく)をはじめ救貧対策にとどまった。日本が社会保障・社会福祉の制度を確立し福祉国家として踏み出すのは戦後のことであり、昭和半ばである。ただし、戦前・戦時中にも、戦争を後押しするための社会政策は始まっていた。昭和16年(1941)の人口政策確立要綱(いわゆる産めよ増やせよ閣議決定)は総力戦に必要な人的資源の確保を目指した。昭和17年(1942)には、現在の厚生年金の元となる労働者年金保険法ができ、夫が戦死しても遺族年金が給付される仕組みをつくった。
 昭和25年(1950)が福祉国家開始の年である。未だ占領統治を脱せずの中、朝鮮戦争が始まり、朝鮮特需で日本の経済復興が始まった年でもある。拙稿において、昭和百年の社会政策上の第一の論点「福祉国家の建設」は、ここを起点とする。社会保障制度審議会の総理諮問に対する答申で、社会保障制度は、社会保険方式を採用することが宣言された。イギリスの経済学者ベバリッジ報告を基礎とした構想であり、イギリスを真似てゆりかごから墓場までの社会保障制度構築に向かうことになった。
 これに先立って、昭和22年(1947)に日本国憲法が施行され、その第25条で生存権が認められた。しかし、これはプログラム規定であり、具体的な立法を必要とした。社会保障制度審議会答申の前に、既に、終戦直後の急務を要する法律が憲法と同時に施行されている。生活困窮者のための生活保護法、孤児・浮浪児保護のための児童福祉法、傷痍軍人のための身体障害者福祉法の3法である。この3法はいずれも税金を財源とする施策であったが、社会保障制度審議会の答申では、全国民を対象とする福祉国家の建設には、保険料を財源とする方針を選択したのである。
 眼前の貧困などについては、税金による救貧対策がふさわしいが、国民が将来、疾病や障害や失業や死亡や離婚によって貧困に陥ることがないように仕組むのは社会保険方式がふさわしいとされた。社会保険制度はリスクに対する予防を担う防貧対策だからである。救貧から防貧へ一歩進めた日本は、これを以て福祉国家の道を歩み始めたのである。社会保険方式は、19世紀ドイツのビスマルク宰相が創設した制度に倣って、既に健康保険法等に対象を限定しながら採り入れられていたが、昭和36年(1961)には、国民皆保険を達成し、農家をはじめとする自営業者にまで対象を広げ、すべての国民に年金、医療の給付が行われる年金保険と健康保険の仕組みが出来上がった。
 制度は、初めから完璧にはできない。健康保険で言えば、大企業では、企業ごとに健保組合が保険者となり、中小企業は集まって政府管掌健康保険として当時の社会保険庁が保険者となり、公務員や私立学校は別制度、自営業者は市町村長が保険者となった。給付も保険料もまちまちである。年金保険では、5人未満事業所は任意加入であり、専業主婦の国民年金も任意加入であったから、実際には、被保険者にならずに取り残された人々が存在したのである。
 また、大企業は若くて健康な人々の集団であり、保険財政が豊かでさまざまな副次給付があったが、中小企業はそれとは逆で政府の補助金を入れてもなお財政が逼迫し、政府管掌健康保険は長らく、政府の三大赤字である、コメ、国鉄、健保の3K赤字の一角として政治問題になっていた。最も大きな問題は、自営業者の国民健康保険は、退職者を被保険者に迎えるため、高齢社会になればなるほど保険者である市町村の財政は圧迫され、国からの税金による交付金を前提としなければ運営はできないことであった。
 昭和48年(1973)は、第一次オイルショックが起きた年であるが、田中角栄首相の下、福祉元年とも呼ばれた年でもある。福祉元年の目玉である老人医療費無料化が80年代までに老人患者を増やし医療費の増嵩が社会問題となる中、昭和57年(1982)、老人保健法が立法され、無料化を終わらし、それに代わって、公費負担と保険者からの拠出金の仕組みができた。高齢者だけを集団にした制度は、公費負担や財政状況の優劣がある各保険者からの拠出が必至であり、2000年施行の介護保険法もそれに倣った。
 健康保険は、国民総生産よりも高い率で伸びる医療費に対して、被保険者や被扶養者の負担を増減したり、保険料を上げて3K赤字から脱したり、老人加入の多い市町村の国民健康保険を、他の保険者の拠出によって支えたりの工夫(介護保険法の創設等)がなされてきた。国の視点は、常に財政であり、超高齢社会と斜陽経済大国にのしかかる問題を昭和百年は残したまま終わる。
 年金保険については、これもまた昭和48年(1973)の福祉元年が起点となる。戦時中にできた労働者年金保険法(のち、厚生年金保険法)を国連が定義する老人人口7%の高齢化社会に至った1973年に改正し、積立方式から賦課方式に変換して若い人の保険料によって支え、今日の「食える年金」の土台が創られた。この改正が、現在の高齢者の多くの生活を支え、同時に、国の財政問題のタネをまいたことにもなった。男女の支給開始年齢が異なったり、55歳定年の社会に合わせることが財政上困難になったり、専業主婦の国民年金が任意加入だったため無年金者を生み出していたりの様々な問題は5年ごとの財政再計算期に合わせて行われる年金制度の改革で解決してきた。
 1986年の改正で、基礎年金という国民全員が受け取る年金制度がつくられた。企業や公務や私学などに従事する所得比例部分は上乗せで給付される仕組みであり、特に、専業主婦は、保険料を支払わずに基礎年金を受け取れる制度(第3号被保険者)によって、女性の年金権が確立した。
 以降の改正は、健康保険と同様、高齢社会に対応する財政の観点を主とし、保険料の引き上げ、支給開始年齢の繰り下げ、物価スライドの廃止などが行われてきた。それでも、年金だけで生活している高齢者の割合が現在41.7%であり、年金保険は超高齢社会の屋台骨であることには変わりがない。
 社会保障給付費は、年金4、医療3、福祉その他が2強、の割合であり、年金と健康保険は生活保障(所得保障)であって、福祉は生活の質の確保であるから、90年代から、福祉の割合を増加させる努力が求められてきた。その意味では、2000年施行の介護保険は福祉の割合を上げる役割を果たした。福祉国家の屋台骨である健康保険と年金保険の安定運営が基本であり、より豊かな社会をめざすには、福祉の発展が望まれる。

2 家族に関する福祉政策の発展

 老後の生活と疾病のための経済的防貧政策は、上述のように福祉国家の屋台骨である健康保険と年金保険で社会保険制度による頑丈な保障が創られたが、いわゆる社会的弱者(老人、障害者、子供、一部の女性)については、個別に対応する政策の必要があり、要保護政策として税金で行われるのを是としている。福祉国家の屋台骨に対して、応用部分ととらえることもできる。
 戦後緊急を要した生活保護法、児童福祉法及び身体障害者福祉法の3法の後、経済状況がよくなった昭和38年(1963)には、老人福祉法、母子寡婦福祉法及び精神薄弱者(現・知的障害者)福祉法の3法が創られた。
 戦前のイエ制度の下、家族単位での生活基盤が根付いていた日本で、身寄りのない老人、戦争未亡人、専門ケアを受けられないままの知能の障害を持った子供などに対しては家族内での対処が困難であり、社会的支援が認識されたのである。それらの措置費は少額で始まり、国民経済の向上とともに、制度自体も予算も改善がなされてきた。欧州から導入する当時最後の社会政策と言われた児童手当法が1972年に施行され、老人ホームや障害者施設も建てられるようになった。
 日本社会は、1970年の高齢化率7%の高齢化社会から、1994年の14%の高齢社会、2007年の21%の超高齢社会へと急激なスピードで高齢化が進む中で、一部の弱者のためと考えられてきた福祉政策が、一般的な人々のためにも、生活の質を上げる政策として拡大する必要性が出てきた。2000年施行の介護保険は、市町村長の入所措置という老人ホームの行政処分による入所の方法を改め、利用者とサービス提供者の契約による市場原理を採用した。救貧政策ではなく、老人が自ら選ぶ生き方、家族の介護者への支援も含む新しい福祉の形になったのである。福祉は公定価格が設定されてはいるが、部分的とはいえ一般市場に出回るサービスの地位を得たのである。
 一方で、少子化問題が深刻になり、児童手当についても、給付拡大と同時に、まだ実現をみないものの所得制限撤廃までが視野に入ってきた。つまり、救貧対策ではなく、人口資源という国益を守る子育てを社会全体で負担していこうとの考えである。少子化は、もはや家族の問題とはとらえられず、少子化の指標である合計特殊出生率の長期にわたる低下が国益を損傷し、社会政策の対応の失敗が指摘されている。
 社会政策の一つとして男女共同参画社会基本法がある。これは、女性の働き手の多い健康と福祉の分野にも大いに関係している。先進国でありながらジェンダーギャップ118位に甘んずる日本では、昭和61年(1986)施行の男女雇用機会均等法は一定の成果を挙げたものの、2000年施行の男女共同参画社会基本法の取り組みの弱さが露呈している。女性の社会進出に重点を置き、保育や看護や介護など女性の多い職場での経済的向上を十分果たせず、少数派になりつつある専業主婦の社会的地位をどう位置付けるかも曖昧である。それらが、ひとり親となったときの貧困や、第三号被保険者問題や、被扶養者に留まるための働き控えなどの社会問題につながり、根本的解決が待たれる。
 昭和百年の後半(実際には平成時代)では、老人の社会扶養、子供の社会保育、女性の機会拡大などが進む中、いわゆる昭和家族を標準型とした政策では、離婚が多く二極化した社会にある現代の家族には対処しきれず、個人の生き方に中立な制度への変換が求められている。福祉政策は常に未完であることを認識し、政治と社会が新たな福祉政策のステージに至ったところで昭和百年は終わる。

3 日本社会と社会政策

 昭和百年は、制度的には揺るがぬ福祉国家の屋台骨を作った。しかし、先進国の中で経済成長の鈍化が著しく斜陽国家とも言われる今の日本では、その存続には、財政上の危機が潜む。戦後八十年、民主主義国家であり、福祉国家であることが当然として育った大多数の日本人にとって、福祉国家を守り抜かねば国内外における存在意義を失う。斜陽を覆す経済政策とは、社会政策の強化に他ならない。
 日本国憲法において、生存権は日本側が主張したという事実が明らかになっている一方、民主主義、国際平和主義、男女平等などはアメリカによってもたらされたものである。戦後80年にわたって、社会政策はその理念の下に創られてきた。疑いも否定もあるまい。昭和百年は、その理念に基づいて社会の変化に対応し、制度を改変してきた歴史である。
 しかし、生活保障(所得保障)たる年金・健康保険は保険料の支払いをめぐって世代間の争いを産み、福祉政策においては、欧米流の個人単位に抗う勢力が常に存在しているのが日本である。保育所が幼稚園を子供の数、施設の数とも凌駕する時代になったが、保育所を利用する母親の多くは正規職員として働いていないし、必ずしも、欧米のように「男に伍して」働くのを信奉しているのではない。
 介護は、嫁の役割から親は実子が看る時代に代わり、墓仕舞いも、夫の墓に入らない選択も不思議ではなくなった。にもかかわらず、欧米的価値から生まれた憲法の理念−個人の幸福追求の権利と民主主義−を、ひいては社会政策の理念を受け止められない人々が存在するのも日本社会であろう。旧い観念を抱く人々の存在を慮って長らく保守政治が行われた節がある。介護、保育、女性の権利などは旧い観念と押し相撲をしながら発展してきた。今、政治カオスを招いた状況の中で、さらに憲法の理念に立ち返ることが必至だ。
 福祉国家の屋台骨をしっかりと守り、その上で、もっとやるべき福祉政策がある。少子化政策である。名はあれども実を伴わない。岸田政権が異次元の少子化政策と銘打ちしながら、財源問題を先送りし、まして、社会保険料の上乗せ案を示唆したことは、福祉国家としての危機であると筆者は考える。
 少子化は児童の健全育成対策あるいは保育などの児童福祉政策ととらえがちであったが、現在の位置づけは、人口減少を食い止める国益事業であるはずである。健全育成対策は、児童手当の一部も含め社会保険料の事業主負担上乗せを財源としてきたが、少子化はリスク予防の政策ではない。国益事業の本丸であることを認識せねばならない。
 防衛、教育は国家として誰もが負担すべきものである。少子化、別の言葉で言えば人口資源の確保もまた、国民全体の必要と国際社会における地位のために、誰もが負担すべきものである。少子化政策は、税金を財源として進めなければならない。人口、教育、防衛それに食料安保を加えて、救貧対策ならぬ救国対策こそ税金で行われることがふさわしい。国家として存続するため、さらに福祉国家として存続するため、昭和百年は社会政策のダイナミズムが発揮されねばならぬ時機を意味する。昭和百年の歴史を無駄にしないためにも。

 

注・当該論考において数値は厚労省資料による

最新情報
大泉 博子 元衆議院議員、元厚生省児童家庭局企画課長
著者プロフィール
東京生まれ。東京大学教養学部(国際関係論専攻)卒。厚生省に入省。国連児童基金(ユニセフ)中北部インド事務所計画評価官、厚生省児童家庭局企画課長、社会援護局企画課長、山口県副知事などを経て、2009年に衆議院議員初当選。現在、三井住友海上福祉財団評議員。主な著書に『インドから考えるアジア』『ワシントンハイツ横町物語』『私はグッドルーザー』他。

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