大韓帝国の成立と日本への併合 ―「中華」と近代国際関係のはざまで―

大韓帝国の成立と日本への併合 ―「中華」と近代国際関係のはざまで―

2021年8月31日
はじめに

 韓国併合について考えるときに参考に資するものとして、歴史学者が一般読者向けに新書レベルで多くの研究書を出している。その中のいくつかを挙げてみる。

①山辺健太郎『日韓併合小史』岩波新書、1966
 社会運動史の研究を出発点として、日本の資本主義発達の歴史を考える上では朝鮮の状況も考慮する必要があるという視角から韓国併合について書かれた本である。

②森山茂徳『日韓併合』吉川弘文館、1992
 日韓の政治・外交史の特質を比較しながら、日本はなぜ朝鮮を併合し、また朝鮮はそれにいかに対応したのかについて焦点を当てた本である。

③海野福寿『韓国併合』岩波新書、1995
 この本は、外交史を軸に韓国併合過程を整理する。とりわけ第二次日韓協約(1905、韓国では乙巳保護条約という)が合法か否かについての検討も加え、国際法上合法であり、日本の朝鮮支配は国際的に承認されたと見解を示した点が特徴である。その後、この本が韓国語に翻訳され、反論した李泰鎮・ソウル大学名誉教授の反論をはじめ、韓国の歴史学会でも乙巳保護条約の有無効について活発な議論がなされるなど反響を呼んだ。韓国側は、今も乙巳保護条約無効論の立場で、元徴用工訴訟判決でも日本の朝鮮半島支配について「植民地支配」ではなく不法・不当な「強占」だったと主張している。

④和田春樹『韓国併合 110年後の真実—条約による併合という欺瞞—』岩波ブックレット、2019
 この本は若い人に向けて、日本政府の韓国併合過程を、分かりやすくまとめた本である。第二次日韓協約の合法・非合法の問題にも切り込み、李泰鎮氏の議論を援用し、海野氏の見解に対しては、形式を議論していて実質を見ていないと反論する。

⑤趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書、2012

⑥糟谷憲一『朝鮮半島を日本が領土とした時代』新日本出版社、2020
 この二冊の本の著者は朝鮮史の研究者で、本のタイトルに「韓国併合」の文字はないものの、韓国併合に至る時代(過程)について詳述している。⑤は、東学農民運動をはじめとした民衆運動について研究してきた研究者で、併合過程においても朝鮮半島に視座を置いて、民衆の動きに注目しながら論じているところに特徴がある。⑥は朝鮮政治史を専門とする視点から、朝鮮政府の動向が詳しく整理されている。⑤、⑥ともに、肝心の併合過程に関しては、大韓帝国よりも日本の動きに重点をおいた記述になっている。それでも①、②、③の本が、日本(政府)の視点から、日本の政治家や外務省、あるいは日本軍が朝鮮半島でどう行動したかを論じているのとは観点が若干異なる。

 いずれにしても、韓国併合を論じたこれらの研究は、日本政府の記録や政治家の個人文書を主な史料として、日本がどのように大韓帝国を併合していったかに焦点を当てて論じている点で共通している。そのため1897年に成立した大韓帝国についての関心が、侵略を進める日本への反応・対応という見方にならざるを得ない面がみられる。
 こうした先行研究に学びながら抱く疑問は、当時の大韓帝国では、近代国家形成やそれを取り巻く国際関係への対応の論理がどのようなものだったのか、日本側の史料からだけではそれが十分浮かび上がってこないのではないかという点である。そこで、大韓帝国期の史料(『承政院日記』『官報』『高宗実録』、あるいは『独立新聞』をはじめとした新聞など)をもとに、大韓帝国の論理をひも解いていく必要があると考える。
 今回はそうした研究の手はじめとして、筆者のこれまでの研究成果である「中華」をキーワードにした朝鮮近代史への概観ののち、大韓帝国の成立と日本への併合過程について大韓帝国の動きから考察してみたい。

1.中華と朝鮮

 韓国の近代史研究で朝鮮時代の外交というと、近代的要素をどのように取り入れていったか、そしていかに(外勢に)抵抗した外交が展開できたか、といった近代外交の形成過程に着目される。そのため、朝鮮が近代外交体制にどれだけ近づき、その過程でいかに中国(清)に抵抗したかが議論の中心になり、当時、在来の秩序として併存していた中華世界、事大字小、冊封・朝貢体制などの史実については自明とし、それらへの実証的解明は十分に進んでいない。日本の研究では、李穂枝(2015)が、朝鮮時代の外交を「戦略的な事大主義」と論じたが、朝鮮王朝が事大主義の上位概念である「中華」について具体的にどのように考えていたかとなるとあまり明確な議論がみられない。
 結果的に朝鮮王朝や大韓帝国は近代外交を目指したが、当時の時代状況の中でそれはそれほど単純な過程ではなかった。その要因が、まさに「中華」であった。日清戦争までの時期は、朝鮮の「中華」には二つあって(「二元的中華」)、その二つの中華のはざまで朝鮮は対外関係(外交)を展開せざるを得ず、そうしたもどかしさのようなものがあったと考えられる。そのため19世紀から20世紀初頭の朝鮮近代外交を理解するうえでは、時期区分として「二元的中華」と「一元的中華」という操作概念を用いて議論することで、新たに見えてくるものがある。(参照:拙著『朝鮮外交の近代』名古屋大学出版会2017)。

(1)二元的中華

 「二元的中華」は、高宗の即位(1864年)から日清戦争(1894年)までの時期にあたる。この時期は、朝鮮こそが明朝中華の正統な後継者と自負する朝鮮中華と、宗属関係の相手である清朝が体現する中華の、二元的中華のもと政治外交を展開した。以下、その特徴を示す。

1)明朝への義理意識
 清朝は朝鮮の立場からみれば野蛮な民族(オランケ)であったが、明朝を倒して新たな皇帝の座に就いた。もともと朝鮮は明朝への義理意識があった(明朝滅亡60年後の1704年に、明の皇帝を祀るため「大報壇」を建て、その祭壇に高宗自ら祭祀を行うほど)。表向きは現実の皇帝である清朝皇帝に朝貢して冊封を受けてはいるものの、心の中では明朝中華を消せずに慕っていたのである。
 このことは、次の史料からも確認できる。『承政院日記』(高宗7年3月7日、陽暦1870年4月7日)には、高宗に朴珪寿が進講した次のような記載がある。

高宗:中国が終始胡服を変えないのはなぜか
朴珪寿:これは本当に理解できないことでございます。前代の胡主が、中国の衣冠を手本にし、たちまち文弱して滅びてしまったために、それを戒めとして一貫して胡服を守るのだともいい、あるいは国を手に入れた最初に、中原の人たちが終始服従しなかったために一切厳しく容赦ない法を使って天下の人たちを従わざるを得ないようにしているのだとも言います。
高宗:我が国の衣冠は三代以来の古の制度であるが、明の制度もやはりそうだ
朴珪寿:その通りでございます。国王が着用する袞冕から百官が朝祭で着用する公服・時服に至るまで、ひとつひとつ全て明の制度です。将来、もし中国の真天子があらわれて中華の古の制度を再び復元しようとすれば、必ず我が国を手本にすることでしょう

 史料からは、清朝中華への尊敬は感じられない。さらに、「将来、もし中国の真天子があらわれて中華の古の制度を再び復元しようとすれば」という記述は非常に重要である。つまり、朝鮮では清朝の天子(皇帝)は、あくまでも一時的な統治者であり、いつか「真天子」があらわれて中華を復古してくれるだろうとみていたのである。だから明朝以来の衣冠をしっかり守っている朝鮮は、「真天子」があらわれるときに手本になるだろうと自負をもつのである。
 このような態度をとることは、朝鮮内政に対しても意味があった。高宗は満11歳で即位したために、大院君(父親)が高宗に代わって政治の実権を握ったが、カリスマ的政治手腕をもった大院君の「衛正斥邪」の政治は広く支持されていた。そのため、やがて高宗が年齢とともに親政をはじめようとしたときに、その正統性をアピールするための根拠として明朝の威光を必要としたとみることもできる。大報壇祭祀を行ったり、(明の制度に基づく)衣冠を守ったりしたのもそうした一連の動きのなかで捉えられるのかもしれない。例えば、高宗は、大院君政権が長く受け入れを拒否していた明治政府の書契を受け入れたが、明治政府がそれに乗じて宴席での大礼服着用を要求すると、態度を再び硬化させた。高宗の書契受理は、親政の正統性・独自性をアピールする施策の一つであったが、先のような衣冠を尊重する朝鮮にとって、大礼服着用の要求までは受け入れることができなかったのである。

2)清朝皇帝の絶対性・「事大字小」による安全保障
 二元的中華の時期に、朝鮮が外交を展開しにくかった背景として、既にみたように清朝が公的な中華であったことに加え、国際関係の変化に伴い、その清朝が従来の中華秩序を変容させた事情もあった。以下、三つの具体例を挙げてみよう。

①中国朝鮮商民水陸貿易章程(1882年)
 この章程は、中朝間を行き来する商人の貿易に関する規定であるが、その前文に、朝鮮は長い間中国から冊封を受けていること(「宗属関係」)をわざわざ明文化した。それまで宗属関係は、儀礼のプロセスを通して暗黙の裡に確認されてきた。ところが清朝は、西欧列強と条約を結ぶ経験を通して、朝鮮は清朝の属国であることを明文化し、列強にそれを示すことの必要性を感じたのである。そうした背景には、明治政府が琉球王国を政府管轄下に置いたこと(琉球処分1879年)への危機感もあった。同時期に、清朝は朝鮮に欧米列強と条約を結ばせるが、条約締結に際して添付する外交文書(照会)には「朝鮮は清朝の属国で内政外交は自主である」と表現し、朝鮮が清朝の「属国」であることを欧米列強に伝えようとした。

②朴定陽初代駐米全権大臣の派遣(1887年)
 こうした清朝の変化に対して、1887年になると朝鮮の清朝への態度にも明確な変化が表れてくる。朝鮮は、米朝修好通商条約(1882年)を結んだことから、条約に即してワシントンに全権大臣を派遣すれば、朝鮮が独立国であることをアピールできると考えた。従来の宗属関係では、中国は朝鮮の内政・外交には容喙しないという原則があったが、朴定陽初代駐米全権大臣の派遣について清朝は再三干渉をしてきた。その結果、朴定陽はワシントンに派遣されたものの、駐米中国公使からの「圧力」もあり、1年足らずで帰国することになった。

③神貞王后逝去(1890年)への弔勅使派遣
 神貞王后(第24代憲宗の母后)が逝去すると、従来の宗属関係の典礼に則って、清朝から弔勅使が派遣され、朝鮮国王は属国の礼をもって弔勅使を迎え入れることになっていた。しかし、高宗は外国人も多く駐在するようになった朝鮮で、弔勅使に対して属国の礼を執り行う様子を見られたくないと思い、財政難を表向きの理由として清朝皇帝に弔勅使を派遣しないように要請した。ところが清朝皇帝は、朝鮮の財政難を慮って陸路派遣の慣例を破り、陸路よりは費用がかさまないと判断された航路で弔勅使を派遣した。そのため、むしろ外国人が多くいた済物浦(仁川)に弔勅使が到着し、かえって朝鮮が清朝の属国であることを強くアピールする結果となった。

 清朝が①の事例のように、国際関係の変化に伴って宗属関係を変容させたのを受け、②③では朝鮮も同様に近代の理論を用いて国際社会と関わろうとしたが、清朝はそうさせなかった。二元的中華の時期は、国際情勢の変化と西欧列強との交わりを通して清朝の朝鮮への関わりが変化し、朝鮮は、宗属関係での「属国」の立場と西欧列強や日本との条約による「独立国」としての立場のはざまで、どのように折り合いをつけるかで悩んでいた。
 この時期で重要なことは、朝鮮が対欧米列強・日本との関係で「独立国」としての立場を有したとはいえ、清朝皇帝のとの関係が絶対的であったことである。そのため、朝鮮が欧米列強や日本とは対等な関係にあることをいくら清朝に主張したところで、国際社会での行動に関しては清朝皇帝の命に服さざるを得ないというのが現実であった。そのようなもどかしい中で朝鮮は近代外交を形成していったのである。

(2)一元的中華の開始(1894〜1895年)

 清朝が日清戦争で敗北し、朝鮮半島での勢力を弱めると、朝鮮(大韓帝国)はどのような歩みを進めていったのであろうか。そして日本によって併合されることによってどんなしこりを残したのだろうか。
 二元的中華の時代は、清朝皇帝が絶対的権限を持っていた。ところが日清戦争によって、朝鮮における清朝の絶対性はなくなった。その結果、以下のように、朝鮮は清朝に対して「独立」を表す行為をおこなった。二元的中華の時代には、清朝との関係を考慮して、朝鮮政府が公に「独立」という漢語を用いることはなかったので、以下の行為は国際環境の変化を意味する。そして、清朝との朝貢・冊封体制の消滅による中華の一元化は、朝鮮外交にとって新たな展開が可能になった。

①中国朝鮮商民水陸貿易章程など三章程の破棄を通告(陽暦1894年7月)。
②「独立宣告文」(1895年1月)を高宗が宗廟で宣告。
③下関条約(1895年4月):「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す」。
④圜丘壇建築の命(1895年7月):「南門の外の南壇に圜丘をつくること」。

 圜丘壇とは、皇帝が天子として昊天上帝(注:儒教経典に見える宇宙の最高神)を祭る祭壇で、本来、中国皇帝のみが祭祀を許されるものである。そのため世界に一つだけ存在すべきものである。ところが、下関条約によって中国皇帝と朝鮮国王の関係が名目上は「対等」になったことで、朝鮮は圜丘壇をつくる動きに出たのである。
 一元的中華の特徴として、清朝が体現する中華が、朝鮮の政治外交に直接的に影響を与えることはなくなり、朝鮮中華を前面に出した政治外交が可能となったのである。かつて朴珪寿が述べた「真天子があらわれて・・」の文言が、真天子=高宗となって現実のものとなる。
 もう一つ、一元的中華の特徴として考えるべき点がある。それは、日清戦争後の日本政府の介入・指導によって甲午改革が行われ、朝鮮が近代的政治制度・西洋文化を取り入れるようになったことである。二元的中華の時代には、清朝との関係の手前、そのようなことはできなかった。日本政府の介入による半ば強制的な政治制度の変化ではあったが、そうした西洋近代の導入によって、朝鮮は近代と中華をどう共存させて、国家形成をしていくべきかという課題を突き付けられた。

2.大韓帝国の成立(1896〜1898年)

(1)露館播遷(1896年2月〜97年2月)

 閔妃殺害(1895年)後、高宗は次のターゲットは自分ではないかと身の危険を案じて、国王側近の宮内官主導の下、ロシア公使館に居を移して執務をはじめた。その結果、高宗の側近勢力が力を持つようになった。ただ側近勢力の多くは、甲午改革によって科挙試験が廃止されたために、伝統的な官僚コースを経ずに高宗の寵愛を受けてその地位を確保した者たちだった。その一方で、従来からの政府高官は一国の王が外国公使館に逃げ込んだことに不信感を抱き、露館播遷を支持しなかった。高宗は、朝野に衆望のある金炳始を総理大臣に任命しようとしたが、還宮が先だと固辞され、朴定陽を総理大臣の代理として内閣を組織することになった。そのような内政状況であったため、高宗は大臣たちを信用することができず、大臣たちも国王に不満を抱いており、結局は側近勢力を寵愛しながら高宗の政治は進められていった。
 露館播遷によって宮内官・勤王勢力が拡大し、やがて彼らは「宮内府」を構成した。彼らの多くは親露派で下級身分の出身だったため、頼るべきは高宗の寵愛のみであった。それまで朝鮮政治を支えてきた既存の政府官僚(両班)は、彼らを軽視し、対立構造が顕著になっていった。

(2)独立協会の発足(1896年7月)

 海外に留学した人士に加え、既存の政府大臣も参与する形で、開化派官僚を中心に独立協会が作られた。この協会は、自主独立するためには一国だけ(とくにロシア一辺倒)に頼っていてはだめだと考え、米国・英国・日本などとも関わりつつ、列強の勢力均衡による朝鮮の独立、そのための防露論(反露抗争)を主張し、近代化改革を推進しようとした。
 1896年春には、亡命先の米国から帰国した徐載弼(注:1884年の甲申政変に参加した4凶=金玉均・朴泳孝・徐光範の一人)が『独立新聞』を創刊した。同新聞は、読み聞かせによって伝播し、1898年秋ごろには約3000部を発行するまでになり、その会員数も、4000人まで拡大し、漢城(現ソウル)で一定の影響力を持つまでになった。
 独立協会の当初の目的は、宗属関係の象徴であった迎恩門(注:朝鮮の歴代王が中国皇帝の使者を迎えるための門)と慕華館(注:中国の使者を迎える建物)をそれぞれ独立門、独立館に改称し定礎することである。この意味はつまり、独立協会の主張する「独立」が、清朝からの独立、すなわち宗属関係の解消を強調したということである。独立協会の運動は、ナショナリズムや国民意識の形成にも寄与したほか、万歳三唱を誘導することにもなったが、その本質は「清朝」「中国」から脱した独立国としての朝鮮を強調している点にあった。繰り返しになるが、独立協会のいう「独立」は、日本からの独立という意味では決してなかった。それが分かるのが、次に示す『独立新聞』の記事(1896年6月20日)である。

朝鮮人民は独立ということを知らないので、外国人が朝鮮人を蔑んでも憤ることを知らず、朝鮮/大君主陛下におかれては清国の君に毎年使臣を送り、暦をもらって来て、公文に清国の年号を使い、朝鮮人民は清国に属する者と思いながらも、数百年間仇を討つ考えをせず属国のようにしていたので、その弱い心を考えれば、どうして可哀相な人生ではないだろうか。(中略)そこで神様が朝鮮を可哀相に思われ、日本と清国が戦争した後に、朝鮮が独立国になり、今は朝鮮/大君主陛下におかれて、世界各国の帝王と同等になられ、それ故に朝鮮人民も世界各国の人民と同等になった。
(月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム—近代朝鮮の形成—』東京大学出版会、2009、178〜179頁)

 独立協会は、朝鮮が有してきた中国からの冊封や事大関係が、「可哀相」なことであったというのである。朝鮮は清朝から独立し、もはや清朝の属国ではなく、他国の人民と同等な地位にあるので自覚をもつよう訴えている。そして朝鮮が清朝との関係を解消して独立国になったことによって、「今は朝鮮/大君主陛下におかれて、世界各国の帝王と同等」になりとあるように、このあとの高宗の皇帝即位へとつながっていくのである。

(3)高宗の皇帝即位(1897年)

 二元的中華の時代は、皇帝は中国の皇帝ただ一人であるべきだったので、決して朝鮮国王が「皇帝」と名乗ることはできなかった。例えば、国王の誕生日を日本や欧米諸国に向けては「大君主萬壽聖節」と、皇帝の誕生日に用いる「萬壽」や「聖節」を用いて称すことはあっても、清朝には決してそう称することはせず、「千秋慶節」であった。日清戦争後は、「大君主陛下」(1895年1月〜)と尊称されるようになったが、高宗は、それにとどまらず「皇帝陛下」になることを望んだのである。それは大韓帝国の成立と表裏一体のできごとであった。それでは、高宗はいつから皇帝即位を考えていたのだろうか。
 結論を先に言えば、露館播遷中には具体的な計画を練っていたと考えられる。それは次のような事例から推測ができる。1897年1月に、孝明天皇の妃で、明治天皇の嫡出である英照皇太后が死去した。そこで高宗は朝鮮政府に命じて他国に比して丁寧な弔問を指示した。それを受けた明治政府は、高宗に「大勲位菊花大綬章」を授与した。こうした日韓関係の改善を高宗が望み、それが皇帝即位への計画の背景にあったと考えられる。なぜなら、高宗は、ロシア公使館にいる限り皇帝即位ができないことは認知していたし、中国は言わずもがな、列強も自身の皇帝即位を承認しない可能性が高いことを分かっていた。ただ、日本は朝鮮同様、漢語を用いる国で「皇帝陛下」の使用と矛盾せず、日本ならば皇帝称号使用を承認してくれるだろうと目論んだと考えられる。事実、日本は‘King’から‘Emperor’への変更は他国の動向を見守ったものの、「大韓帝国大皇帝陛下」という漢語による称号の使用は他国に先んじて最も早かった。
 このような事例からも、大韓帝国成立前後の高宗が、「反日」意識だけから外交を行っていたとは考えにくい。閔妃殺害への怨念はありつつも、外勢の一つとして日本の利用を考え、ロシア公使館を出た後、日本ともある程度の関係を持つことで自らの皇帝としての政治をうまく進められると考えていたのではないだろうか。
 1897年2月20日に高宗は、ロシア公使館を出て慶運宮(現在の徳寿宮)に還宮した。その後、同年5月ごろから称帝を建言する上疏(注:事情や意見を書いて国王に差し出された書状)がたくさん上がっている。以下で、その要旨を確認しよう。

<李㝡榮の上疏の要旨>
 詔勅をくだし、皇帝とちがいがないのにまだ「君主」の位にいらっしゃる。三十余年のあいだ、三千里の地を治め、数十万の兵を統率しているのだから、皇帝の大きな地位についていただきたい(『承政院日記』高宗34年3月30日、1897年5月1日)。

<権達変の上疏の要旨>
 高宗が堯舜や湯武のように更張をなし、自主独立の地位で詔勅をくだし、「建陽」という年号をもち、既に皇帝の行いをしていらっしゃるのに、まだ「君主」の地位にいらっしゃる。天と祖宗が与えた命にふさわしく皇帝に即位していただきたい(『承政院日記』高宗34年4月8日、1897年5月9日)。

<任商準の上疏の要旨>
 我が東邦は、箕子以来の礼楽文物と典章法度が燦然に備わっています。なんとすばらしいことでしょう。既に何度か大臣が聖上の功徳ゆえに皇帝の称号をお勧めしているが、謙遜されてお受けにならないでいらっしゃる。今、天下の友邦は聖上の功徳を敬服し、自主独立している。どうか「應天順人」、天に従い民の願いをかなえるよう皇帝に即位していただきたい(『高宗実録』1897年5月16日)。

<姜懋馨の上疏の要旨>
 いま、西洋各国では「皇帝」といい、「大君主」といい、「大伯理」という称号があり、その間に等級はないというけれど、アジア東洋においては歴代帝王の区別があり高低があります。『資治通鑑綱目』でも、皇帝に「主」と呼ぶことは乏しめることになると書かれています。閔妃の国葬が近づき、皆悲しみにくれています。国葬の前に皇帝に即位していただきたい(『承政院日記』高宗34年4月24日、1897年5月26日)。

 下線を引いた部分に共通しているように、1897年5月の段階の称帝建言の論理は、高宗は対内的にも対外的にも既に「皇帝」の行いをしているのだから即位に値するというのである。その根拠として挙げる「皇帝」像は、中国の歴史を引き、中国の皇帝が引照基準であった。その中で、姜懋馨の上疏だけが西洋各国について挙げているのは注目されるが、最終的な典拠は『資治通鑑綱目』になり中国の歴史に収斂する。
 ただ、この時に称帝建言をした役人たちの身分はあまり高くなく、 5月の段階では、高宗の皇帝即位について政府高官からの支持は未だ十分ではなく、高宗側近(勤王勢力)が中心になって皇帝即位の方向で動いていたのではないだろうか。ただ、高宗はこうした称帝建言を受け入れなかったものの、1897年6月に「史禮所」を設置し、皇帝国に見合った国家典礼を再整備しようと『大韓禮典』の編纂を進めている。そして、その編纂に当たっては、朝鮮時代の五禮(吉禮・嘉禮・賓禮・軍禮・凶禮)の儀礼と手続きに関して記録した『國朝五禮儀』を土台にしながらも、皇帝国固有の儀礼については明朝の『大明集禮』『大明會典』を参照・引用した。高宗にとって、皇帝即位は既定路線であり、即位しようとする皇帝像は、西洋近代の皇帝のイメージではなく、明朝の皇帝を手本とするもので、中国皇帝を体現するイメージあったことが確認できる。
 その後、1897年8月12日に甲午改革時の断髪令と「建陽」年号を取り消し(繳消)、新たな年号として「光武」を定めた(8月14日)。さらに、9月20日は圜丘壇の改築を提案し、築壇工事が開始された。圜丘壇の改築整備方針が決定される頃になると再び称帝建言が活発になり、10月3日に高宗がそれを允許するまでの間、連日計20件ほどの称帝建言がなされた。
 この二度目の称帝建言の段階では、皇帝即位は決定的になっていたと思われ、議政をはじめ政府の重鎮も参加している。以下に挙げるように、政府重鎮たちの上疏は、先にみた身分の低い役人の称帝建言とは少し異なり、朝鮮皇帝が明朝皇帝を継承するという路線は共有しつつも、その上で、西洋と対等な独立国家としての朝鮮皇帝の誕生に触れている。つまり、独立協会の討論会や新聞を中心に広まっていた西洋近代の国家制度も念頭においた議論になっており、大韓帝国成立前後には、多様な国家の在り方議論され、近代国家の形成において様々な可能性があったことがうかがえる。

<農商工部協辦 権在衡の上疏の要旨>
 王を皇に上げることは万国公法上の問題はありません。我が国の文弱、人に依存する性格は、遠く2000年、近くはこの500年間に中国に仕えてきたためですが、今は自主の国としてそうした慣習を打破しなければなりません。そのためにも皇帝に即位していただきたい(『承政院日記』高宗34年8月29日/1897年9月25日)。

<外務協辦 兪箕煥の上疏の要旨>
 漢・唐から宋・明まで人君の称号といえば皇帝なので、人臣はみな皇帝の位についていただきたいと思っています。ヨーロッパでは皇帝の称号がローマで初めて使用され、その後、ゲルマンはローマの系統を継ぎ、皇帝の位号を使用し、オーストリアやドイツも皇帝を用いています。我が国は、中国に接しており衣冠文物が全て明の制度に倣っており、その系統を継ぎ皇帝を称していけないことはないでしょう。また、清と我が国は同じ東洋にあり、ドイツとオーストリアがローマの系統を引き継いでいることと同じです(『承政院日記』高宗34年9月10日/1897年9月26日)。

 権在衡の上疏は、先述した『独立新聞』の記事(1896年6月20日)と軌を一にする内容である。朝鮮は、既に中国から独立したのだから、朝鮮国王も皇帝に即位して、中国に仕える慣習を打破したいというのである。また、兪箕煥の上疏からは、朝鮮が中国に仕えてきた歴史をもちながらも、まさに朝鮮が二元的中華の地位にあり、清朝に対して複雑な思いを有してきたことがうかがえる。つまり、「清と我が国は同じ東洋にあり、ドイツとオーストリアがローマの系統を引き継いでいることと同じです」という部分は、清朝も朝鮮も明朝中華の系譜を継ぐ互いに対等な国家であるという見方が示される。二元的中華の時代には、明朝中華を頂けば朝鮮と清朝は互いに対等であるという見方をしてきた清朝に対して、政治・外交の現場では事大の関係をもち、公的には清朝皇帝だけが皇帝の座にあった。そうした状況に対して、朝鮮がいかに複雑な地位に認識していたかが確認できる。
 その後、高宗34年9月17日(1897年10月12日)に高宗は、明朝の皇帝即位式を参照して、圜丘壇で午前2時から4時ごろにかけて皇帝即位式を挙行した。高宗は、王太子および臣下とともに天地と太祖李成桂に対し、新しい皇帝国の開国を告げる告由祭を行い、即位式を挙行した。これは中華である政治的な権威は天徳に参与することで生じるという儒教理念に基づくものであった。繰り返しになるが、皇帝即位式は、あくまでも明朝の皇帝即位式を参考にして行った点が重要である。高宗は午前4時に慶運宮に戻り、皇帝を象徴する金でできた御座に座り、臣下が12枚の皇帝の服装である袞冕服を着用させ、皇帝の御寶を受けた。ここまでは明朝の伝統にのっとったもので、西欧式の近代的皇帝としてのアピール・披露は、日を改めて行った。ただし、各国公使・領事からの反発や謁見拒否を未然に防ぐため、引見の通知には皇帝即位のことは記さず、「皇帝」という用語も用いなかった。他方、各国公使・領事は、事前に打ち合わせをして、高宗の皇帝即位への公的な祝辞などはしなかった。
 翌10月13日には、高宗は皇帝の朝服である「通天冠服」を着て、皇太子と皇后を冊封した。こうした皇帝の服装が準備されていたことからも、明朝中華を継承した朝鮮の皇帝、言い換えれば「真天子」の朝鮮における創出が、かなり以前から計画されていたと考えられる。即位後の10月14日には、国号を「大韓」と改めた。それは「朝鮮」が、箕子朝鮮以来、中国に冊封された国名であり、天下を支配する帝国の国号にはふさわしくないという考えに基づくものだった。

3.大韓帝国の繁栄(1898〜1902年)

 大韓帝国発足初期のこの時期は、高宗が描く政治をやることができた時期であった。

(1)独立協会の解散

 海外に留学ないし亡命した者、露館播遷に関与しなかった両班官僚などが中心となってできた独立協会は、もともとロシアの影響力排除を強く主張していた。1898年3月にロシア人財政顧問および軍事顧問が撤収し、同年4月には西・ローゼン協定が結ばれて、独立協会が皇帝・政権側に訴えていたロシア勢力の撤収がほぼ完了した。この協定によってロシアは、朝鮮における日本の商工業発達を承認し妨害しないことが取り決められた。なお、この措置により日本の対韓政策が外務省から大蔵省に移行するなど、日本側の参画主体の多元化が図られた。
 また独立協会の人たちは、1898年2月から12月まで集会を開きながら「万民共同会」を結成し、共和制的民主主義、立憲政治体制樹立を目指す政治運動を展開し始めた。1898年春頃には、議会開設運動が本格的に展開し、同年4月3日に「議会院を開設することが政治上最も緊要である」というテーマの討論会が開かれると、高宗皇帝・勤王勢力との対立が激化した。独立協会は、さらに10月29日には、「外国人に依頼せず官民の合心で皇権を強固にする」などの内容を含む「献議六条」を提出し、皇帝権の恣意的運営を牽制しようとした。しかし、皇帝は受け入れず、11月4日、独立協会指導者17名が拘束された。続いて皇帝は、11月22日に「法律第二号 依頼外国致損国体者処断例」を制定して取り締まりを強化した。
 このように1898年10月から同年12月には、ほぼ毎日、漢城の鍾路で集会が開催され、特に10月・11月の大韓帝国では、立憲君主制に政体を移行できる可能性を有していた。その後、12月16日、万民共同会は大臣とすべき人材の投票を行ったが、その選出者の中に朴泳孝が含まれていたため、皇帝は「朴泳孝の登用を求める者は処罰する」旨の詔書を下し、12月23日、侍衛隊を派遣して、万民共同会を武力弾圧して解散させた。翌年1月15日には、独立協会地方支部が解散させられた。このようにして皇帝は、大韓帝国を専制君主制へと導いていった。

(2)「大韓国国制」の制定(1899年)

 独立協会が解散されることによって議会開設運動は下火になる中、皇帝はどのような国家を企図したのであろうか。
 まず、皇帝は世界の国々が宗教を尊尚するのは、治道のためであるとした上で、大韓帝国の宗教を儒教とし、大韓帝国が「儒教宗主」となることを1899年4月宣布した。こうして、国制の(皇帝の無限な権限)の根拠として儒教を据えたうえで、8月17日に「大韓国国制」を制定した(注1)。
 「大韓国国制」は、「大韓国は、世界万国に公認された自主独立の帝国である」(第一条)、「大韓帝国の政治は、過去500年の伝来により、萬世不変の専制政治である」(第二条)などとあるように、朝鮮王朝以来はじめて、皇帝の権限を独立した近代法体系にまとめたものである。大韓帝国は近代と中華の折衷で運営されてきたが、「大韓国国制」以後高宗は、近代法体系に立脚した各種整備を進め、それに則った専制政治を目指した。そのため「大韓国国制」は国号と主権の所在を明示し、無限な軍権・行政権・任命権・外交権を規定したが、国民の権利・義務、主権機関などについては明記しなかった。「大韓国国制」が近代法体系に即した皇帝権限を正当化する内容であったからこそ、民心離反を未然に防ごうと、皇帝自らが大韓帝国の宗教はあくまでも儒教であるという宣布を行ったと考えられる。
 また「大韓国国制」の内容は、過度なほどに皇帝専制を記したものであり、高宗がそれだけ将来発生しうる政変や反政府勢力に対する防御を想定していたことも考えられる。事実、大韓帝国成立後、最初の高宗の誕生日を祝う晩餐の席でコーヒーに毒が盛られる事件があり(毒茶事件、1898年9月)、高宗は難を免れたもののそれを飲んだ皇太子に障害が残ることになった。こうした事情からも「大韓国国制」の発布は、高宗が描く政治を安全に安心して行うための布石であった。

(3)近代国家としての始動

 大韓国国制が制定された後、高宗は国制に規定された権限を現実のものとする施策を展開していった。主なものは次のとおりである。

①元帥府設置(1899年6月22日):皇帝を大元帥、皇太子を元帥として、陸海軍を統率。
②清韓通商条約締結(1899年9月11日):清朝と対等な国家間関係にあることを明確にする意味で締結した条約。
③石造殿の基礎工事開始(1900年):1898年2月20日付の設計図があるため、大韓帝国成立後のはやい時期に計画した西洋建築による王宮。
④中和殿の建築(1901年8月):大韓帝国が近代と中華の折衷であったように、宮殿も西洋式の石造殿と伝統的な朝鮮建築の中和殿から成る。
⑤文官服装規則、文官大礼服制式の制定(1900年4月17日):もともと明朝の衣冠制度を継承しているとの矜持があったが、西洋式の服制に変更。
⑥土地改革(量田事業、1900〜01年):土地の区画整理を行い、皇室財政を拡充。
⑦1902年の萬壽聖節(高宗の誕生日):大韓帝国繁栄の頂点であり、宮中だけにとどまらず民間をはじめとして、小学校や行商人も祝賀行事に参加。
⑧禮式章程の制定(1902年):外国との交際のため皇帝の外国使臣接見方法や、西洋式の宴会開催について記した規定を作成。
⑨高宗即位40周年行事(「御極四十年稱慶禮式」1904年)の計画:先の「禮式章程」を整備し盛大に行う準備をした(コレラの流行によって中止)。

 明朝中華を継承した皇帝として皇帝に即位した高宗は、朝鮮にとっての中華の皇帝像を骨格としつつ、「大韓国国制」を整備し、西洋近代的な皇帝像も肉付けしていく。独立協会を解散させ、「大韓国国制」を宣布した後の大韓帝国の政治からは、「肉付け」にあたる西洋近代的な皇帝国家として歩みを進めようとする論理が明確に示されている。きたる1904年に迎える高宗即位40周年行事は、まさにそうした近代的な皇帝性の部分を内外に顕示しようとする場であり、そうした国内環境も整ったと判断された。しかし、この行事はコレラの流行によって中止になる。そして、コレラ流行が収束した頃には、日露戦争に勝利した日本の進出がはじまった。大韓帝国の近代的な皇帝像の顕示は、むしろ日本政府によって利用されるものとなる。

おわりに

(1)大韓帝国の衰退

 1902年までの大韓帝国では、まず高宗が明朝中華の皇帝として即位し、その皇帝権を近代的な皇帝としての側面も付与することで、より強固な皇帝権をアピールしようとして予算外の支出も増大した(王陵や宮殿の改修など)。そのための基盤づくりには財政的基盤が不可欠であった。しかし財源の多くが内蔵院管轄となり、皇室財政は潤う反面、度支部は困窮することになった。
 もし日本による植民地化がなされなかったとしても、経済的に行き詰まっていた状況があり、独立協会解散後、独立協会系の人たちがそうした皇帝の政治をどのようにみなし、どのようなふるまいをしていたかについても検証してみる必要があるだろう。

(2)日本の侵出

 1903年12月30日、第一次桂内閣は「対露交渉決裂の際、日本の採るべき対清韓方針」を閣議決定し、軍事力によって朝鮮を日本の勢力下に収める方針を決定した。この後、日本政府は、列強の承認も取り付けつつ(桂・タクト協定1905年7月29日、第二次日英同盟8月12日、ポーツマス条約9月5日など)、1905年11月17日には、第二次日韓協約(乙巳保護条約)を結び保護国化の一歩を進めていった。
 日本の影響の方が強まるに従って、大韓帝国独自の運営は困難になっていった。

(3)一元的中華の帰結

 最後に、歴史の学びを活かして、韓国の現政府が進める「親日清算」やこじれてしまった日韓関係をいかに考えていくべきかを考えてみたい。
 二元的中華を背景にもっていた朝鮮にとって、清朝からの独立は非常に大きなできごとであった。しかし、それは外勢によって成し遂げられ、さらに朝鮮の中でも様々な「独立」の解釈があった。高宗は清朝から独立し明朝中華のような皇帝になろうとし、そこに西洋近代の皇帝像を肉付けしていこうとした。高宗を支持する勢力として、下級身分出身の側近・勤王勢力が形成され、高宗の希望を実現することによって、自分たちの地位を安定させようとした。一方、独立協会系の人たちは、清朝からの独立後のビジョンとして明朝のような国家形成は目指しておらず、日本や欧米列強のような近代国家を描いた。とりわけ、地理的に隣接し、知識人の間では往来があった日本の明治維新や近代国家としてのあゆみは、清朝との宗属関係亡き後の国家形成に大きな影響を与えた。本来ならば、清朝からの独立後の方向性について、朝鮮国内でしっかりと議論をして論の統一を図るべきであったが、十分ではなかった。
 現実には、高宗が独立協会系の動きを武力弾圧してしまったので、高宗が希望した方向に進まざるを得なくなったとはいえ、その先の大韓帝国の現実は、皇帝への権力集中とそれに伴う国家財政の困窮で進退窮まる状況であった。その現実を踏まえた議論が十分になされないままに(「独立」解釈の未消化)、より上位の次元から日本による侵略(植民地化)が進められた。
 こうした構図は、朝鮮の解放後(1945年)にもみられる。信託統治下におかれ米ソの統治にゆだねられたときも、朝鮮内部で国家運営について議論がまとまらず、朝鮮人が主体的に建国を目指した朝鮮人民共和国は成立しなかったことが想起される。つまり日本から独立は朝鮮にとって非常に大きなできごとであったが、それは外勢によって成し遂げられ、朝鮮半島にどのような国家をつくっていくかについて論がまとまらず、さらに上位の次元の米ソによって国家運営が収斂され分断国家になってしまった。このように歴史は繰り返しているようにも見える。
 現在の韓国政府は、こうした苦い歴史を経て、さらに経済開発と民主化をも獲得したという自負を持っている。こじれてしまった日韓関係をほぐすべく対話を可能にするには、韓国の歴史的な歩みを理解しておく必要があるだろう。

(2020年10月8日に開催されたIPP研究会における発題内容を整理して掲載)

 

(注1)

大韓国国制(『高宗実録』1899年8月17日より)

一.大韓国は、世界万国に公認された自主独立の帝国である。

二.大韓帝国の政治は、過去500年の伝来により、萬世不変の専制政治である。

三.大韓国皇帝は、無限の君権を享有し、公法でいう自立政体である。

四.大韓国臣民が、大皇帝が享有する君権を侵損する行為をすれば、その行為が既に行われたものか、これから行われようとするものかを問わず、臣民の道理を失うものとする。

五.大韓国大皇帝は、国内陸海軍を統率し、編成を定め、戒厳・解厳を命じる。

六.大韓国大皇帝は、法律を制定し、その頒布と執行を命じ、万国の法律に倣って改正し、大赦・特赦・減刑・復権を命じ、公法のいわゆる自定律例をおこなう。

七.大韓国大皇帝は、文武官の俸給を制定あるいは改正し、行政上必要な各種勅令を発し、公法のいわゆる自行治理をおこなう。

八.大韓国大皇帝は、文武官の黜陟・任免をおこない、爵位・勲章その他栄典を授与あるいは逓奪し、公法のいわゆる自選臣工をおこなう。

九.大韓国大皇帝は、各条約締結国に使臣を派送・駐在させ、宣戦・講和および諸般条約を締結し、公法のいわゆる自遣使臣をおこなう。

政策オピニオン
森 万佑子 東京女子大学准教授
著者プロフィール
2008年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、2012年ソウル大学校大学院人文大学博士課程修了。15年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、東京女子大学准教授。主な著書に『朝鮮外交の近代―宗属関係から大韓帝国へ―』(名古屋大学出版会)ほか。
日本による朝鮮半島支配の合法性について考えるために、当時の朝鮮側の史料をもとに19世紀末の朝鮮王朝および大韓帝国がどのような考えに基づき外交を行っていたかを考える。

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