インドの戦略的自律性と日印関係の展望  ―インド太平洋構想を踏まえて―

インドの戦略的自律性と日印関係の展望 ―インド太平洋構想を踏まえて―

2019年7月12日

 国際政治におけるインドの位置は近年大きくなっており、日本でも各分野で関心が高まりつつある。とくに安倍政権が掲げるインド太平洋構想との関係で、そもそもインド(政府)はどのような世界戦略を考えているのか、そしてどのような外交を展開しようとしているのかについてみておく必要がある。そこでここでは、それらについて概観した後、この3月の総選挙で圧勝した第2期モディ政権が、従来の外交を基盤としながら、インド太平洋にどう関わっていこうとしているのかについて述べてみたい。
 ちなみにモディ政権は、2014年に誕生し今年5月の総選挙で前回以上の得票を得て圧勝したので、今後さらに5年間執政していくことになる。実はインドの政権は、その前のマンモハン・シン政権も10年(2004-14年)続いたように、政治的には非常に安定している。しかし同じ長期政権の国である中国とは違い、民主的なプロセスを経て成立した民主主義国家である。


1.台頭するインド

 まずインドが世界的に見てどのようなパワーを持った国なのかを押さえておきたい。

(1)人口規模

 人口で見ると、現時点で世界1位は中国で(約13.9億人、2018年)、次いでインド(約13.3億人、2018年)となっており、この二つの国を合わせると世界の約三分の一を占める。つまり世界70数億人の三人に一人は中国人かインド人ということになる。今後、2020年代初めには、インドの人口が中国を上回るだろうと予測されている。
 世界の人口トップ10を見ると、その中に南アジアの国が3カ国(インド、パキスタン=約2億人、バングラデシュ=約1.6億人、各2018年)も含まれているが、そのようなことはあまり明確に認識されていないように思う。

(2)GDP

 GDP規模で世界の国々とインドを比較してみると、年次によって若干変動はあるものの、インドのGDPはイギリスやフランスと同規模となっている(約2兆6000億ドル、2017年)。近年インドは、毎年7%ほどの高い経済成長を続けているので、近いうちに英仏を引き離すことは確実視されている。
 GDPは、人口規模に支えられている面があるために、一人当たりGDPとなるとインドは、142位(2017年)とむしろ後ろから数えた方が早いという状況にある。ただし、インドの人口構成を見ると若年層が非常に多く、それが経済成長の基礎となっていることを考えれば、今後も経済成長の潜在可能性は大きい。
 それではインドの高度経済成長はいつごろから始まったのか。1990年代までのインドは、社会主義的な経済体制であり(ネルー型社会主義)、「眠れる巨象」とも揶揄されていた。ところが90年代に経済を自由化したことで、2000年代に入ると急速に経済成長を遂げるようになった。
 インドの都市に行って見ると、東南アジアの大都市と変わらないような近代的な都市景観が見られるようになって、(ステレオタイプ的なイメージとしての)「インドらしさ」がなくなったような感じさえする。日本のODAによって建設された地下鉄もあり、デリー郊外には大規模な新興都市が建設されつつあり、経済発展による変貌が激しい。

(3)軍事費

 経済成長に支えられて、インドは軍事支出も増えている。軍事支出額でみると、フランスやロシアに匹敵する軍事費(639億ドル、2017年)となっている。そして陸海空の軍事力整備を進めている。


2.インド外交のDNA

 インド外交について一般的にいわれる言説は、ネルー時代の理想主義から現実主義に転換したということだが、私はそれは表層的見方だと考えている。私は研究者として、(南アジア)地域研究および国際政治の分野を専攻しながらも、とくに南アジアに根差した国際政治学の構築を目指している。
 それではインド外交をどうとらえるべきか。インド外交のDNAとしていくつかの特徴を挙げてみたい。

(1)強い大国志向

 特徴の第一は、強い大国志向である。インドは、堂々と「大国である」「大国になる」と主張する。この傾向は、最近に限られたものではなく、もともとそのような思考があった。非常に貧しい時代のネルー時代においても、米ソ超大国が争う時代に、米ソどちらの陣営にも与せずに、インドは「非同盟」の立場を主張して第三世界の結集を図った。国連の場でも、第三世界のリーダーとして発言し堂々と振舞った。
 このような意識の背景には、インド周辺の世界、つまり南アジア世界でインドが超大国であるという地政学的現実がある。この地域の地図を見ると、インドの大きさがどれほど圧倒的であるかが分かる。
 例えば、北部の(係争地である)カシミール地方、ネパールとブータンの間の回廊地域(インド・シッキム州)、バングラデシュの北東部もインドの領土だ。また南アジアの地域共同体「南アジア地域協力連合(SAARC)」に加盟する国8カ国中、インドはすべての国と国境を接しているが、それ以外の国々は(アフガンとパキスタンを除き)互いに接していない。
 南アジア世界の中のインドは、面積、人口、GDP、軍事力などすべてにおいて他国にぬきんでている。このように圧倒的なパワーを持っているので、(南アジアの)超大国という意識が昔からあった。ところが、近年、中国が南アジア地域に進出して急速に影響力を拡大させているために、これに対して巻き返しを図らないといけないという対抗意識が2000年代後半ごろから強くなってきた。
 他方、グローバルに見るとインドは、冷戦時代はその存在感は限定されたものだった。そこでネルーは、理念に基づく外交を掲げて展開したわけだが、冷戦後は(社会主義体制から脱却して)経済成長と軍事的拡大を成し遂げ、「普通の大国」として振る舞うようになり、リージョナルなパワーからグローバル・パワーへの道を進んでいる現状である。

(2)自主性への拘り

 二つ目のインド外交のDNAは、自分たちのことは自分で決めるという自主性への拘りが非常に強いことである。これは(同盟などによって)拘束されたくないという意識で、過去から現在まで連綿と通底している。具体的には、同盟を忌避し、強いパートナーの支配によってジュニア・パートナーになることを否定する。
 冷戦時代には、インド外交の特徴として「非同盟」が語られたが、それはすでに1970年代に終わったとの議論もあった。ソ連との間で1971年に印ソ平和友好協力条約が結ばれたが、この条約は相互防衛を義務付けたものではない。特殊な性格の条約で、簡単に言えば、有事の際には話し合うという程度の規定しかなかった。(同盟の定義にもよるが)これを果たして同盟条約と呼べるかどうか。
 ただし、この条約によってインドの兵器のソ連依存が進行したために、その後の外交や軍事展開に制約がかかり条約について反省するきっかけとなった。1979年にソ連のアフガン侵攻が行われたが、これは明らかにインドの外交方針に反するものであったにもかかわらず、条約の縛りによってソ連の行動に対して一切批判ができなかった。その結果、アフガニスタンというインドの地政学的利益にとって非常に重要な国(敵対するパキスタンをはさむ位置にある国としてインドは友好的関係を保つ必要があった)が、ソ連のアフガン撤退後、パキスタンに支えられたターリバーン政権(傀儡政権)が成立するという、インドにとっては好ましくない状況を作ってしまった。こうした反省に立ってインドは、特定の国に依存することは好ましくないということを学習した。
 そこで冷戦後は、先進国や新興国などすべての国と政治・経済・軍事などの分野で緊密な関係の構築を推進してきた。それを「戦略的パートナーシップ」と呼び、「同盟」とは決して呼ばない。つまり、友好国以上の関係ではあるが、同盟ではないという意味である。そこで私は、こうしたインド外交の特徴を、「全方位型戦略的パートナーシップ」と名付けている。
 再言すれば、冷戦期のインドはソ連くらいしか頼れるパートナーはなく、中国とは対立関係にあった。日米にとってインドは敵対関係にはないものの、近寄りがたい存在だった。ところが冷戦後、世界の多くの国がインドに接近してきている。

 戦略的パートナーシップ関係は、インドから見ると、非常に都合がよく合理的なものとなっている。それを示すのが表1で、インドから見た米中露との関係のみを示すが、日本は米国と同じ立場と見ていいだろう。
 まず米国であるが、インドから見ると民主主義・多様性など国内政治的価値の共有をはじめ、政治大国化、地域外交・安保、軍事協力、貿易などの面でも親和性がある。その一方で、中国とも親和性のある領域がある。例えば、トランプ政権のように米国が一国主義を前面に出すと、インドは(国際政治秩序の領域では)中国やロシアと立場を同じくすることになる。また国際経済秩序をどう構築するかに関しては、インドは米国と一致しない。気候変動問題やWTOなどのイシューでは、中国やロシアと同じスタンスとなる。
 中国とは、貿易や投資などで経済関係が深まっており、モディ政権は中国の投資を歓迎する意向を示している。領域によっては中国とも重要なパートナーシップ関係にあるといえる。
 以上をまとめると、インドの外交は、戦略的自律性を維持しながら、地域あるいはグローバルな局面での大国志向を実現しようとしており、しかもそのやり方が非常に巧みなのである。次にその「巧みさ」を詳しく見てみよう。

(3)「アルタ的リアリズム」の伝統:プラグマティズムとしてのリアリズム

 インドの研究者や政治家と話をすると、インド外交における「プラグマティズム」や「リアリズム」という言葉をよく耳にする。ただ西洋的な意味合いからすると、その言葉遣いには若干違和感があって、なぜだろうと思っていた。
 古代インドのマウリヤ朝の古典に『アルタシャーストラ』(実利論)というものがあるが、これはマウリヤ朝を築いたチャンドラ・グプタ王の宰相カウティリヤが著したとされる書物だ。この書物は次のような内容だ。
 王が追求すべきは道義(ダルマ)ではなく、実利(アルタ)、つまり国益の追求である。国際社会(当時でいえば南アジア)の原則は弱肉強食(ちなみに、インドでは肉食をしないので「弱魚強食」とある)であり、隣接国は基本的に敵対者である。そして永遠の友は存在しない。

 これを言い換えると次のようになるだろう。自国の隣には敵対国(A)があり、その向こう側には友邦国となりうる国(B)があり、さらにその先にはAの友邦国が、その先にはBの友邦国というように、曼荼羅的・同心円的に広がる世界観である。重要なことはこの地域を統一(征服)することである。そのために隣国=敵対国Aは、最終的には滅ぼすべき相手であるにしても、すぐさま戦争を開始するかどうかについては、自国と相手国の国力を正確に比較衡量して時機を見極める必要がある。状況によっては、和平を結ぶことも選択肢の一つと考える。そのほかの選択肢として、戦争・休止・進軍・庇護要請(例:強い国の庇護を求める)・二重政策(例:和平を求めつつ戦争を準備する)などの「六計」を挙げている。
 最終的には、友邦国とともに敵対者を滅ぼすのだが、その方法は何でもいいということになる。そのほかの方法として、(毒の作り方も含めた要人の)毒殺の方法やスパイによる離反策、ハニートラップなども挙げている。いずれにしても、敵対国を滅ぼして版図を拡大するのであるが、こうしたことからも「永遠の友はいない」ということの意味が見えてくる。
 これがインド人のもつ、プラグマティズムやリアリズムである。


3.インド外交の制約要因

(1)「脆弱な国民国家」としての連繋政治

 制約要因の一つは、国内的、あるいはインドの持つ多様性に起因するものである。
 インドは、欧州大陸に相当するような面積に13億人以上の人々が住み、南北、東西で民族が違う。東の方には日本人とも似たような外貌の人がいると思えば、アーリア系はヨーロッパ系統の人々だ。また宗教で見ても、最大多数の人口の約8割を占めるヒンドゥー教のほかに、イスラーム、仏教、ジャイナ教、シーク教、キリスト教など多くの宗教があり、言語も非常に多い。このようにインドは、多民族、多宗教からなる国民国家であるから、ややもすればばらばらになりかねない。過去には何度もそのような分裂の危機があった。例えば、1980年代のパンジャブ地方のシーク教徒の分離独立の動き、現在にも続くカシミール問題、北東部にも同様の動きがあった。
 そのため歴代の指導者は、まず国内統一の維持が第一で、できるかぎり理念系としての国民国家の体に近づけたいと考える。モディ政権のようなインド人民党は、まさにそのような政治方針で国政を運営している。一方、ネルーに代表されるインド国民会議派は、ばらばらな集団をそれぞれ分権化しておきながらも、分裂しないようにしておこうと考えている。
 1990年代以降、地域政党が非常に大きな影響力を持つようになった。国政においては二大政党だが、それらの政党も地域政党の協力を得ない限り、中央における政権維持が困難になる状況が長年続いてきた。その結果、地域政党が内政のみならず、外交についても影響力を持ってきた。
 とくに近隣諸国に対する外交政策は、インドの場合、内政の延長線上にあるという特徴を持つ。その顕著な表れが、対スリランカ政策である。それは、インド南部のスリランカの対面に位置するタミル・ナードゥ州の影響を強く受けてきた。タミル・ナードゥが「タミル人の国」という意味であることからもわかるように、この地方はインドの他の州とは文化や風土が全然違っている。今春の総選挙において全国的に圧勝したインド人民党であったが、この州では1議席も取れていない。タミル・ナードゥ州では、ドラヴィダ進歩連盟と全インド・アンナ・ドラヴィダ進歩連盟の二大政党が争う構図になっている。
 タミル・ナードゥ州のタミル人は、スリランカの少数派民族であるタミル人と言語や宗教を一にしている。スリランカ内戦の構図は、多数派である仏教徒のシンハラ人が主導するスリランカ政府と、少数派のタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)に代表されるタミル人組織との間で四半世紀にわたって対立が継続してきた。そこに長年インド政府がさまざまな面で関与し、二国間協定によりインド平和維持部隊を派遣してLTTEの武装解除を図ろうとして泥沼化したこともあった。このように州政治の影響を受けながら、インドのスリランカ政策が展開されてきた。その後、中国がスリランカ政治に関与し浸透し始めると、それに対してインドは不快感を示し関与を強めた。
 対バングラデシュ政策も同様で、近接する西ベンガル州の州政治の影響を大きく受けてきた。

(2)「域外修正主義」と「域内現状維持」の共存

 二つ目は、パワーに起因する制約要因である。南アジア地域の中でインドは、圧倒的なパワーを持つために、それに対しては現状維持を図り二国間主義でやっていこうとする。一方、域外に目を向けるともっと大きなパワー(米中など)がある。そのような場でインドは、NPT体制に対して不平等を訴えたり、WTOや気候変動問題については異論を唱えたりする。
 例えば、カシミール問題についてインドは、パキスタンとの間では基本的に現状維持でいいと考えている。現状変更を迫ってきたのは、つねにパキスタン側であった。そしてカシミール問題は二国間で解決を図ろうと考えているので、米国など他国が関与することを嫌う。
 また南アジア地域協力連合(SAARC)に対しては、一貫して後ろ向きであった。地域協力機構を推進すれば、他の国々によってインドが逆に封じ込められてしまいかねないことを憂慮してのことである。インドは、自国を中心として他の域内諸国と二国関係でやっていくことを基本と考えている。


4.モディ政権の外交:その変化と不変

 前述のインド外交の特徴や制約要因は、基本的に現モディ政権においても同じ枠組みでとらえることができる。一見するとモディ政権は、これまでのインド外交とは「変わった」と見られるが、基本は変わっていないと考えている。

(1)変化

 もちろん変わった点もある。30年ぶりに連邦下院において一つの政党だけで単独過半数を獲得したことは、変化したところである。過去30年間、インドの連邦下院において一つの政党が単独過半数を獲得したことはなかった。ところが、2014年の総選挙で、インド人民党は283議席(総数543議席)を獲得し、過半数を確保した。これは同党始まって以来の最大議席数であったが、今回の総選挙ではそれを上回る303議席を確保した。
 単独過半数を確保したことで、政策決定過程が大きく変化した。この勝利によってモディ政権の党内外の政治基盤は盤石なものとなった。一方、地域政党や連立パートナーの影響力が後退した。また(外交安全保障政策を含めて)重要な政策は、モディ首相と側近によってほぼ決定されるような構図ができた。その側近が、国家安全保障顧問ドバル(Ajit Doval、元警察・諜報官僚)とモディが外務次官に抜擢したジャイシャンカル(S. Jaishankar)(2019年5月31日に外相に任命)で、この3人によって外交安全保障政策がほぼ決定されているといわれる。
 インドの外交安全保障政策を考える上では、モディ首相の考え方が重要なので、その特徴を見ておこう。
①ナショナリストとしての顔
 筋金入りのヒンドゥー・ナショナリズムの考え方を持つ。インド人民党(BJP)の母体である宗教組織、民族奉仕団(RSS=Rashtriya Swayamsevak Sangh または National Volunteers Organization)が、インド人民党を作った。モディは少年時代からRSSに加入して活動してきた熱心な活動家であった。RSSはヒンドゥー至上主義的な側面があって、かつてガンジーの暗殺をしたのもこのメンバーだった。こうした彼の背景は、パキスタン政策や中国政策に如実に現れている。
②ビジネスマンとしての顔
 モディは、長年グジャラート州首相(2001-14年)を務め、同州をインド一ともいわれるほどに経済発展を成し遂げた実績が高く評価されて、2014年の総選挙で(国政の経験なしに)首相になった人物である。それだけにモディは、「Make in India」というスローガンを掲げて、日米中などとの経済関係強化を図りつつ、インドにおける製造業の振興を積極的に推進してきた。
 これらの二つの特徴がよく表れた政策の一つが、ディアスポラ(在外インド人)への積極的関与である。国連統計によると、在外インド人数は、世界に散らばる在外同胞数では華僑・華人よりも多いとされるほどに多い。それまであまり活用されていなかったディアスポラをモディは積極的に活用している。
 各国訪問時には、(インド人民党の国際組織=OFBJPをフル活用して)ディアスポラを集めた大規模集会を開催している。2014年の訪米時には、マディソン・スクウェア・ガーデンで大集会を開いて在米インド人を集め、インド・ナショナリズムを喚起しインドの経済発展に貢献するよう(投資などを)促すべく呼びかけた。

(2)不変

 以上のように変化した部分もあるが、モディ首相の基本姿勢は不変である。彼の基本的な考え方は、前述したインド外交のDNAの王道を行くものだと思う。以下、いくつか長年受け継がれてきた政策の主なテーマを掲げてみる。

①国連安保理常任国入り
②NSG(原子力供給国グループ)加盟への意欲
 そもそも米印原子力協力を結んだ際に(2007年7月)、NSGで特例扱いを受け、NPT体制に入ってはいないが原子力面で協力を受けてもいいとなった。それなのにインドはNSGに加盟したいという。そこには具体的実利を得るというよりも、いわゆる「核クラブ入り」ができるという目的があるように思われる。
③ASAT(衛星攻撃兵器)発射実験「宇宙の超大国」
 2019年3月インドはミサイルによる人工衛星破壊実験に成功したが、これに関してモディ首相は「この能力を取得したのは、米国、中国、ロシアに続いて4番目であり、インドはより強く、安全で、平和を重んじる国になった」と述べて、宇宙開発分野で強国の仲間入りを果たしたことをアピールした。これも大国意識の表れであろう。
④戦略的自律性への言及
 モディ首相は、(従来、インド外交では禁句扱いだった)「同盟(alliance)」という言葉を禁句にはしていないが、2014年の総選挙時のBJPのマニフェストには、「同盟網(web of alliances)という言葉(注:多くの同盟=alliancesをもった網を構築するという意味)を使った。これは前述した「全方位型戦略的パートナーシップ」を作るということである。かつてインドは「非同盟」を主張してどの国にも近づかないとしたが、現在はどの国にも近づくという方針に転換した。そして2018年6月のシャングリラ演説でモディ首相は、戦略的自律性について言及した。
⑤パキスタンや中国への硬軟織り交ぜた政策
 この政策を見ると、インド外交の伝統であるプラグマティズムやリアリズムを見ることができる。
 制約要因も変化していない。
①脆弱は国民国家としての連携政治
 今のモディ政権は、国内に複数の分離運動を抱えているとは言っても、それによってすぐに崩壊するような懸念はない。最大の弱さは、総選挙で連邦下院では過半数を確保して安定政権となったものの、連邦上院では大きく過半数を割り込んでいる点だ。
 インドの上院は州の代表という性格をもち、各州議会選挙を通じて間接的に選出されるしくみなので、州の政党勢力図が色濃く反映される。5年毎の各州議会選挙で多数議席を獲得して連邦上院の議員構成に反映させるため時間を要する。
 そうなると連邦上院においては、地域政党の協力を得ないと何も進まないということになる。もちろん連邦下院の過半数を確保しているので、内閣不信任案は成立しないのだが、連邦上院で反対されると法律案は葬られてしまう。第1期モディ政権は、「内政において何もできなかった」と酷評されることがあるが、それはそういう背景からであった。日本の投資家を最もがっかりさせたのは、(社会主義体制時代の遺物ともいうべき)土地収用法の改正、労働法の改正ができなかったことだった。
 モディは、彼自身がヒンドゥー・ナショナリストであり、ヒンドゥー・ナショナリズムの支持母体に支えられているために、それがモディ首相の対バングラデシュ政策や対パキスタン政策の制約要因となっている。
②域外修正主義と域内現状維持の共存
 インドが大国化していく中で、気候変動問題に関しては、一部自分たちも温室効果ガス排出削減義務ありとして受け入れたものの、基本的には、南アジア地域における自国中心は変わっていない。近年、中国が南アジア地域に触手を伸ばし始めている中で、インドの最大の課題は対中政策である。この状況から中国の攻勢に対処する意味で掲げたのが、「近隣第一政策」「アクト・イースト政策」「インド太平洋へのコミット」である。


5.モディ政権のインド太平洋観

(1)躊躇した前政権

 マンモハン・シン前政権は、日米が「アジア太平洋」から「インド太平洋」へと戦略概念を変化させた時、「インド」を冠した用語でこの地域を戦略的アリーナと位置付けたことで関心を示したものの、同政権はむしろそれへの関与への躊躇の方が色濃かった。国民会議派のシン政権はその性格からいっても、「非同盟」への固執が伝統的に強かった。
 また当時、あるシンクタンクがNonalignment 2.0(「非同盟2.0」)という戦略文書を発表して、その内容に米国は非常にがっかりさせられた。同文書は、「われわれと米国が同盟を結ぶという考えは間違いだ。米国と正式な同盟関係を結んだ国はすべて戦略的自律性を放棄している」と主張するとともに、中国への配慮が非常に強かったからであった。さらに、インドにとって重要なアリーナは、太平洋ではなくインド洋だと位置づけたのである。
 シンクタンク「政策調査センター」のC.ラージャ・モハンも「インド太平洋」を唱えて国内で旗振り役を務めていたが、それに対して(政権側の)メノン国家安全保障顧問が痛烈な批判を加えた。

(2)概念の受容

 モディ政権は、前政権のそうした政策を翻して、インド太平洋の概念を受容していった。政権発足の初期においては、「インド太平洋」という言葉を使うことはなく慎重な姿勢ではあったが、外交面では最初から日米豪への接近を図ってきた。
 まず訪問したのが日本であった。2014年8月の日印首脳会談の中で、「特別戦略的グローバル・パートナーシップ」を宣言した。実はその2カ月前に安倍首相がオーストラリアを訪問して、同様に「特別戦略的グローバル・パートナーシップ」を結んでおり、その文脈で「特別」という言葉を受け入れたのだった。
 その後、2014年9月に訪米してオバマ大統領と会談して信頼関係を構築し、翌2015年1月のインド共和国記念日の記念式典にはオバマ大統領を初招待して関係強化を示した。また2015年11月にはオーストラリアをインド首相としては28年ぶりに訪問、インド・オーストラリアの安全保障の共同枠組みを宣言して関係強化に乗り出した。
 そして2015年9月のニューヨークにおける日米印の外相会議においてインドは、初めて「インド太平洋」という概念を公式的に受容したのである。それ以降、インドはインド太平洋という言葉を躊躇なく使うようになった。
 日本の海上自衛隊は、2017年9月からインド南部のチェンナイの港を拠点とした米印の海上共同訓練「マラバール」演習に正式参加となり、以後、恒常的に参加するようになった。2017年11月には、日米豪印の局長級協議が(第一次安倍内閣で始まり頓挫してから)10年ぶりに開かれた。また18年11月には日米印首脳会談も開かれるなど、関係の強化が進んでいる。

(3)概念受容の背景

 インドが日米豪への接近を強めた背景には、2016年半ば以降、対中関係悪化がある。具体例としては次のようなことである。

① 対中協力を進めたものの期待したほどの経済的進展がなかったこと。
②インドが目指すNSG(原子力供給国グループ)への加盟に対して中国が阻害したこと。
③パキスタン過激派指導者制裁指定に関するインドの取り組みを中国が阻害してきたこと。パキスタンのイスラーム過激派ジェイシェ・モハメドは、カシミール地方などで複数個所攻撃したが、2019年2月には同地方で自爆攻撃を行ってインド治安部隊員40名余が死亡する事件が起きた。そこでインドはジェイェ・シモハメドの指導者マスード・アズハル師を制裁対象とすることを国連安保理に要請したが中国が非協力的だった。但し、5月に入り中国も制裁決議案をようやく受け入れた。
④一帯一路における中パ経済回廊(CPEC)の推進。
 インドにとって中国のCPECの推進は、対中関係悪化の決定的なモメンタムとなった。中国西域地方のカシュガルからパキスタンのグワダールまでを結ぶCPECのルートはカシミール地方を経由するので、譬えてみれば、わが国の北方領土を通過するプロジェクトを推進するようなもので、主権問題から言っても許しがたい行為として受け取った。
 もしここに道路等が建設されると、有事の際にいつでもインド領内に中国軍が入ってくることが可能になるわけで、安全保障上から言ってもインドは決して容認できない。
⑤中国の援助で建設されたスリランカのハンバントタ港が、いわゆる債務の罠によって、その運営権が中国に譲渡されたこと。
⑥2017年夏のドクラム危機。
 ブータンと中国の係争地であるドクラム高地(インドのシッキム州に隣接)に、中国が道路建設を進めたために、ブータンと関係が緊密なインドは軍を展開し、数カ月にわたって中印両軍のにらみ合いが続いた。ドクラム高地は、インドのチキン・ネックとも呼ばれる安全保障上重要な地域で、そこに中国が道路を建設することは、インド北東部と本土が寸断されかねないために、インドとしては絶対容認できないとして対抗措置をとったのであった。
 このような中印関係の悪化という背景から、インドは米日豪への接近を図ったのである。

(4)「インド太平洋」の独自の定義

 さらに最近は、米中戦争ともいわれるほどの米中関係悪化が進む中、中国やロシアもインドを抱き込もうと考えている。2018年6月のアジア安全保障会議(シャングリラ会合)でのインドのモディ首相の基調演説発言が注目された。日本のメディアだけではなく、中国のメディアも、モディ首相の発言を(自分たちの立場を支持したと)評価した。
 それではモディ首相は何と発言したのか。同首相は、「戦略的自律性は不変だ。アクト・イースト政策は、3年前の2018年3月にモーリシャスで演説したSAGARに基づいている」と述べたのだった。
 SAGARとは、ヒンディー語で「海」という意味だが、それをSecurity and Growth for the All in the Regionという意味に拡大・応用して説明し、これが「アクト・イースト政策」においても追求する信条だとしたのである。
 ちなみにモーリシャス演説のポイントは次のとおり。
①インドの主権と国益はインド洋の安定と不可分である。
②インドがインド洋の海洋安全保障と経済に貢献する。
③インド洋海軍シンポジウム(IONS)のような集団的協力メカニズムを構築する。
④環インド洋連合(IORA)などでの持続可能な開発、ブルー・エコノミーを推進する。
⑤インド洋ではインドが主たる責任を担う。
 つまり、この概念はインド洋だけではなく、インド太平洋にも適用するというのである。ただし「インド太平洋」を限定された加盟国の戦略やクラブとして、また支配したり、特定の国を標的にしたものとはとらえないとした。その上で、インドが考える「インド太平洋」概念の基本原則を7つ示したのである。
①自由で開かれた包摂的な地域、すべての関係国を含む。(⇒中国を排除するものではない)。
②ASEANを中心とした平和・安全保障アーキテクチャー。
③対話とルールに基づく共通の地域秩序。
④海・空の共通の空間はすべての国が利用できる。
⑤保護主義ではなく、ルールに基づく開放的な貿易環境。
⑥コネクティヴィティ・インフラは重要だが、主権・領土保全、透明性、持続可能性などに立脚すべきであり、返済できないような債務負担(⇒「債務の罠」)を課すべきではない。
⑦対立ではなく協力のアジアが未来を創る。
 これらの項目はいろいろな解釈が可能だ。これは、中国に対する牽制と同時に、米国に対しても保護主義はノーと明確に述べるなど、強いメッセージとなっている。ここにはインドの戦略的自律性が如実に現れている。


6.今後の展望と日本のかかわり

 今後の第2期モディ政権の課題について簡単に触れておきたい。
①政権与党が過半数を制していない連邦上院の壁を克服できるか。
②ヒンドゥー・ナショナリズムの拡大は社会の分断を招かないか。
③対中、対米政策の行方。
 それらは米中関係がどう展開するかによるだろう。また米国トランプ政権の対ロシア、対イラン政策次第では、インドの中国やロシアとの関係の変化につながりかねない要素も孕んでいる。つまり、米国の対外政策がどう展開するかが、今後インド外交を考える上で、最も重要な要素ではないかと思う。
④日印関係
 日本ができることとしては、コネクティヴィティ・インフラが重要だと考えている。インドは、いろいろなところにコネクティヴィティ・インフラを構築しようとしているが、それに関連して日本との協力も望んでいる。
 最近の話題として、スリランカのコロンボ南港の開発がある。スリランカでは、内政上インドを経済協力パートナーとして受け入れることに関して、大統領(反インド)と首相(親インド)が対立していた。そのような中、日本が港湾開発に関与して3カ国のジョイントで推進する合意ができたのである(2019年5月)。
 日本はインド洋地域においては、どの国からも嫌われていない。悪く言えば、影響力が少ない(存在感が小さい)ということの裏返しでもある。しかし、日本に対してもっと積極的に関与してほしいという国は多いので、その意味でも日本の役割への期待は大きなものがあると思う。

(2019年5月31日に開催されたIPP政策研究会のおける発題内容を整理して掲載)

政策オピニオン
伊藤 融 防衛大学校准教授
著者プロフィール
1999年中央大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程後期単位取得退学。在インド日本大使館専門調査員、島根大学准教授等を経て、現在、防衛大学校准教授(国際関係学科)。専門はインドを中心とした南アジア外交・安全保障。主な編著に『大国化するインドにおける多国間主義の動揺―現代「実利」外交の展開』『中国とインド』論文に「インド外交のリアリズム」「インドの核政策の現状と展望」ほか。

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