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IPP分析レポート

緊迫する北東アジア情勢と日露関係の展望:ロシアの視点

―日露平和条約の可能性と歴史的背景―ロシア科学アカデミー極東研究所主任研究員 ウラジミール・ペトロフスキー

東アジアにおける戦後秩序の形成

 現在の東アジア・アジア太平洋地域の不安定な情勢、未解決のままの領土紛争や対立、地域安全保障・協力メカニズムの欠如などの問題は、20世紀後半に発生した事象にその根があり、それと関連する歴史的・地政学的な緊張関係から生じたものである。太平洋地域では第二次世界大戦の教訓は活かされておらず、露日平和条約の締結を始めとする地域諸国間の善隣友好関係、協力関係確立の妨げとなっている。 
 第二次世界大戦を正式に終結させた国際的政治・法律文書の解釈には諸説あり(戦勝諸国によってカイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約などの解釈が異なる)、それが原因となって(現在は助長して)この地域に領土問題が生じている。具体的には、日中間、日韓間の主張の違い、クリル諸島(千島列島)をめぐる日本のロシアに対する主張、この地域のそのほかの危機や対立などがある。
 東アジアにおける戦後秩序の形成は、当初からヨーロッパとは異なる進展を見た。国際関係を定めたヤルタ体制は、ヨーロッパには根付いたものの、冷戦が激化し東西が対立したアジア太平洋地域では結実することはなかった。

サンフランシスコ平和条約

 原貴美恵は「日本がサンフランシスコ平和条約を結んだ1951年までに、東アジアではヤルタ協定の大前提が崩壊していた」としている。そして「ヨーロッパではドイツが唯一の分断国家であったが、東アジアではいくつもの冷戦フロンティアが出現し、国や人々を次々に分断してしまった。サンフランシスコ平和条約は、こうしたフロンティアにおける問題の多くを引き起こす決定的役割を演じてしまう。同条約は最終的な権利移譲のあり方やその明確な範囲について定めておらず、それが原因で同地域に様々な未解決問題の種を蒔く結果となってしまった」と述べている(1)。
 1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ平和条約の意義は、対日戦争の終結が宣言されたこと、そして日本の主権回復が認められたことにある。その見返りとして、日本は極東国際軍事裁判所ならびに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の諸判決を受け入れた。
 サンフランシスコ平和条約は、日本の個別的および集団的自衛権を認め、二国間または多国間協定に基づき、日本領土内に外国軍を駐留させる可能性についても明記した。同日、日米安全保障条約も調印され、日本に米軍を駐留させ米軍基地を置くことも定められた(米国政府は当初から日本政府に要求していた)。
 同条約に基づき、日本は韓国の独立を容認し、韓国、台湾、澎湖諸島、南沙・西沙諸島に対するすべての権利、権原、請求権を放棄し、琉球諸島その他の太平洋上の島々の米国による信託統治に合意した。

条約草案をめぐる攻防

 しかし、同条約の準備と調印に至る過程は、かつては反ヒトラーで同盟を組んだ列強による妥協なき激しい対立を招き、集団行動の価値と利益を犠牲にして自己中心的な国益が優先されることとなった。
 サンフランシスコ平和条約は、米国が起草し英国が承認したものだが、それを議論・修正することはまったく不可能な状況であった。「米国は草案を通すため、主に親米の参加国を選んで署名式に参加させた。その結果、日本と交戦していない国々による『機械的過半数』が出現した。南米21カ国、ヨーロッパ7カ国、アフリカ7カ国がサンフランシスコに招かれたのに対し、日本による侵略と戦い、日本占領統治の辛酸を舐めた国々は会議への参加が認められなかった。中国、ベトナム、北朝鮮、モンゴルは招待されなかった。」(2)
 ソ連外交はこのような動きに対して積極的に抵抗を試みた。例えば、ソ連の外務大臣だったアンドレイ・ヴィシンスキーがジョセフ・スターリンに宛てた1951年8月12日付メモでこの事実が強調されている。一部を抜粋する。「日本との平和条約について、ソ連政府は米英政府に対し、以下のような見解であることを通知する。議案に定められた通りに代表団が声明を出し介入するだけでなく、すべての代表団に日本との平和条約に関する提案または草案を提出する機会を与えるべきである。当然の如く我々代表団は、中華人民共和国代表団を招く必要性を主張する。中国代表団なしには日本との平和条約は締結できない。」
 また、このメモは以下の点も強調している。「同条約は、カイロ宣言、ポツダム宣言、ヤルタ協定に基づき領土問題の決着を図るべきものである。すなわち、(a)台湾および澎湖諸島は中国に返還され、(b)南サハリン(南樺太)およびその周辺の島はソ連に返還され、クリル諸島(千島列島)はソ連に移譲される。」(3)
 ソ連側は、同条約の修正および変更を提案した。
 ソ連側が提案した変更点は以下の通りである:
・南サハリンおよびクリル諸島に対するソ連の領有権を無条件に認める。
・日本は満州、台湾その他の島々に対する中国の領有権を認める。
・琉球諸島、小笠原諸島その他の島々に対する日本の領有権を認める。
・連合国軍は条約調印後90日以内に日本から撤退する。
・賠償金問題を公正に解決し、日本の軍国主義復活を確実に阻止する。
 一定の項目について、ソ連の条約修正案を支持する会議参加国があったにもかかわらず、それを議論することさえ拒否されてしまう。かつての同盟諸国とは見解に深刻な隔たりがあるとして、ソ連代表団は最終的に条約署名を拒否し、議場を後にする。
 ソ連代表団長アンドレイ・グロムイコは声明を発表し、条約署名を拒否した理由について詳しく述べている。後に、ニキータ・フルシチョフは引退後に書いた回想録で、条約への署名をソ連が拒否したのは大きな誤りで、スターリンに責任があると述べている(4)。

ソ連外交の評価

 サンフランシスコ平和条約の草案作成と署名に関して、ソ連外交を公平かつ客観的に評価するには、地域的・国際的な文脈が不可欠である。平和条約締結を後押ししたのは朝鮮戦争(1950-1953年)である。朝鮮戦争によって米国と日本は戦後の両国関係を見直さざるをえなくなった。米国は日本に極東政策の本流を行かせ、この地域の事実上の盟主に据えることがきわめて重要であった。
 米国は当初から、つまり朝鮮戦争の勃発とサンフランシスコ平和条約の準備プロセスが開始される以前から、日本に駐留する米軍を増強する方針であった。米日両政府は、朝鮮戦争前から、米海軍の日本駐留をサンフランシスコ平和条約の重要部分と位置付けていた。ある意味で朝鮮戦争が隠れ蓑となり、両政府のかかる事前決定は隠蔽されてしまったのである(5)。
 ロシアにとって、朝鮮戦争で得た教訓は特に重要だ。ソ連は当時、影響圏を拡大しようと焦り、西側諸国との関係を極限まで悪化させてソ連の国際的評価を危うくしてしまう。それによって、国連体制が崩壊し冷戦が熱戦に変わる寸前まで行ったのである。イデオロギーに基づく地政学的利益を優先したソ連は、妥協と集団行動の論理を放棄してしまった。
 そもそも、米ソ双方には駆け引きで使われる「独自の論理」がある。公平な立場で言うならば、国連安保理が国民党を追放して中国共産党を迎え入れることに反対したとき、ソ連は理事会出席をボイコットしたが(これによって国連軍を韓国に送る米国決議案を承認する正式な機会を与えてしまった)、サンフランシスコ平和会議の時には柔軟に外交交渉を進めようとしていた。この事実は、ソ連外交がすべての問題について「頑なに妥協しない態度」をとるという西側の歴史文献に広がる神話の誤りを示している。
 このように、前述のスターリンに宛てたメモでヴィシンスキーは、ソ連代表団はまず露日平和条約の草案を提出して会議で検討すべきだと提案したのである。万一会議がそれを拒否した場合、「ソ連代表団は会議を三カ月間休会にすることを提案し、その間に、ソ連、米国、中国、英国の代表者(対日戦争に積極的に参加したすべての国も召集)による「外相会議」を組織してあらゆる条約草案を検討し、日本との平和条約の新たな草案を準備すべきである。そしてその草案は、カイロ宣言とポツダム宣言、ヤルタ協定が定めた原則を完全に遵守したものでなければならない」と提案した。
 また三カ月が経過した後に新たな会議を開催し、外相会議が作成した日本との平和条約草案を検討することが提案された。さらに、新草案は対日戦争に参加し日本の侵略行為で被害を被ったすべての国々を代表したものでなければならない(6)。これは現代的な視点から見ても完全に合理的かつ正当な外交の進め方であり、二極対立的な特徴は感じられない。

クリル諸島(千島列島)の領有権

 ロシアにとってサンフランシスコ平和条約が残した大きな問題点は、同条約が戦後の国境線を引いたものの、クリル諸島の領有権と日本が放棄した領土の地理的境界線が明確にされなかったことにある。「米国は当初、会議でヤルタ協定を確認し、クリル諸島すべてのソ連への移譲を認める予定だった。その後、米国は立場を変え、日本によるクリル諸島の領有権放棄を確定させたが、どの国に領有権が帰属するかについては曖昧さを残したままであった。」(7)
 米国上院は同条約について議論し決議を採択したが、以下のような留保条項が付けられた。「同条約のいかなる文言も、1941年12月7日時点で日本が保有していた領土について、日本の権利、権原、権益をソ連に有利な形で縮小または侵害するものではなく、またはソ連にいかなる権利、権原、権益を付与するものでもない…また、同条約には、ヤルタ協定に含まれる日本に関する条文を、米国がソ連に有利な形で承認したことを示唆する文言はない。」(8)
 同条約の米国側草案者が、日本が放棄したクリル諸島すべての島名を挙げなかったのは偶然ではない。日本にクリル諸島の一部の領有権を主張する機会を意図的に与えたのである。実際、後に日本はその通り主張し、今日にいたるまで日本側の議論の根拠となっている。日本の外務省のウェブサイトで、サンフランシスコ平和条約に関する日本政府の公式見解を知ることができる。「平成22年2月付北方領土に関する質疑応答」と題した文書で以下の主張がなされている。
 1.日本はサンフランシスコ平和条約において千島列島の領有権を完全に放棄したが、そもそも南千島は千島列島には含まれておらず、日本は「北方領土」すなわち南千島に対する領有権を放棄していない。南千島は、第二次大戦後にソ連により占拠されてしまった。
 2.ソ連は、サンフランシスコ平和条約への署名を拒否したので、日本が領有権を放棄した領土に対する領有権を同条約に基づき主張することはできない。(9)
 日本はまた、南千島の領有権に関し、1956年10月19日のソ日共同宣言を引用して「戦争状態を終結させ、両国の外交領事関係を回復させるため」ソ連は歯舞島と色丹島を日本に返還すると約束したと主張する。しかしながら、ソ連側はこれを一定の条件に基づくものとしていた(その条件が満たされることはなかった)。具体的には、ソ日共同宣言では「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」としている(10)。またソ連は、日本に米軍基地があることも不満であった。
 朝鮮戦争の休戦条約調印から二年後の1955年にソ日交渉が始まるが、日本は、両国関係の正常化に興味のない米国から強い外交圧力を受けることになる。米国政府は、(四島返還がソ連にとって受け入れ難いことだと知りながら)四島返還を求めるよう日本政府に迫り、そうしなければ日本への沖縄返還を取り消すと脅した(11)。
 ソ日共同宣言には、日本の長年の念願だった国連加盟をソ連が支持すると書かれている。また日本には、国連安全保障理事会の常任理事国入りという一貫した戦略的目標がある。第二次大戦終結から数十年が経過した現在の地政学的現実においては、常任理事国入りという目標はより達成可能に見える。国連創設60周年記念総会において、国連憲章第53条、第77条、第107条にある「敵国」という表現を削除する決議も採択なされている(12)。
 国連憲章に関するこのような変化は、形式上は日本の常任理事国入りに道を開くことになる。しかし、近隣諸国や国連安保理の主要国である中国などと和解や協調ができないまま、日本はこの機会を手にすることができるであろうか?

仕掛けられた「罠」

 第二次世界大戦後、ヨーロッパは(ドイツがナチの過ちに対する責任を潔く認めたことを含め)歴史解釈に曖昧さを残さなかったため、和解と平和を経験することとなった。一方、北東アジア諸国は、今もなお日本が悲劇的過去に対する歴史的責任を認めるのを待ち侘びている。しかしここにも、サンフランシスコ平和条約により仕掛けられた「罠」が潜む。ピーター・ロウによると、ダレス米国務長官は、日本が将来の同盟国となることを見据え、日本政府と対立関係にならないよう戦争責任条項を盛り込むことに断固として反対した。
 さらに、ダレス長官は「1919年にパリ講和会議に出席した際、ベルサイユ条約をめぐり激論が交わされる様子を見て、戦争責任条項が有益な結果をもたらすものではないと確信していた。」戦争責任条項を含めるよう主張した英国の閣僚もいたが、「その時もダレスによって説き伏せられた。」(13)
 露日だけでなく、日中、日韓関係も、いまだにサンフランシスコ平和条約の起草者が数十年前に仕掛けた冷戦の罠の中にある。2012年8月には、日中双方が領有権を主張する釣魚島(尖閣諸島)に日本人グループが上陸して日の丸の旗を立て、中国を大きく動揺させた。また思い出されるのが、韓国の李明博大統領による示威的な独島(竹島)訪問だ(2012年8月)。日韓関係はこれを境に大きく冷え込んだ。
 影響力のある韓国の専門家は、これらの問題の根はサンフランシスコ平和条約にあると述べている。それによれば、同条約は1947年以降、草案が何度か書き直されているが、釣魚島(尖閣諸島)と独島(竹島)に関する記述の有無は一貫せず、同島の領有権についての決定は草案によって異なる。草案の最終版には、釣魚島の領有権が中国、台湾、日本のいずれかに帰属するとの記述はない。また、独島(竹島)について述べた条項は、日本に帰属するとも韓国に帰属するとも解釈可能なものだった(14)。
 中国とロシアは日本との領土問題をかかえているが、両国とも2010年9月27日-29日に北京で開催されたサミット期間中、島の領有権問題をめぐる双方の立場を支持した。65回目の終戦記念日である2010年9月27日にロシア・中国が共同声明を出したが、そこで両国は、自分たちが侵略に耐え、ファシズムと軍国主義に対抗したと言及した。
 しかし、領土問題においてロシアと中国が足並みを揃えているとはいえ、両国の問題は別々に取り扱わなければならない。戦略的パートナーとしての両国は、大戦の結果に対して共通の認識を持ち、東アジアにおいては共に冷戦時代の遺物を克服しようとしている。しかし現在の露中関係は、19世紀的な過度な相互依存関係でも、導く側と従う側という関係でもない。
 したがって、ロシアは第三国の領土問題でいずれかの側につくことはなく、当事者同士が対話によって解決すべきだと主張している。ロシア外務大臣セルゲイ・ラブロフは2013年11月、東京での「2+2」会合後に記者会見し、この見解を繰り返し述べた。「我々は原則として、ある国に対抗して他の国と友好関係を築くことはしない。いずれか一カ国だけが不満を感じたり、安全を脅かされたと感じるべきではない。これはロシアの外交政策上の優先事項の一つである。」(15)

恒常的国際フォーラムの設置を

 過去の歴史を適切かつバランスよく評価することなしに、国際政治における最も喫緊な課題を解決することなどできない。それゆえロシアは、アジア太平洋地域における多国間・非ブロック安全保障アーキテクチャーの構築について、対話を始める必要性を繰り返し強調してきたのである。この枠組みは、安全保障の不可分性の原則に基づき、すべての国の国益を考慮したものである。
 二極対立の時代に東西分割の象徴だったベルリンの壁が崩壊したのは、随分昔のことである。しかし、東アジアの根本的分断はいまだ手付かずのままであり、この地域の冷戦構造は依然継続している。今日、領土問題もさることながら、米軍は「サンフランシスコ体制」を根拠として駐留を続けている(16)。
 それゆえ、オバマ政権の「アジア回帰」政策は、東アジアとアジア太平洋諸国から疑問が投げかけられている。それは、アジア太平洋の強国である米国の地位に対する疑問ではなく(その点は誰も疑わない)、「回帰」が道徳的にも政治的にも時代遅れな冷戦時代の同盟関係に依存しているためである。
 戦後、東アジアの領土問題と国境問題を解決するにあたり、連合国は領土紛争に関する歴史的事実や当事者の利益より、自国の地政学的利益、戦略的利益を優先した。それ以来、歴史家や専門家は数十年にわたり、積極的かつ説得力ある説明によって連合国の言う「紛争相手国」の見解の正当性を擁護してきた。
 領土問題は終わりが見えない。長年続く論争が、対立的手法によって具体的な決着をみるとは考えにくい。東アジアと太平洋における大戦の結果を、明白かつ誰もが納得する形で解釈し妥協点を探るべき時が来ているのかもしれない。中国、日本、北朝鮮、韓国、米国、ロシアなどの歴史家、政治学者、国際法の専門家の共同努力と協力を通じて正確な理解が進めば、それは東アジアの国々と国民に和解と平和をもたらし、良好な隣国関係を発展させるとともに様々な分野での地域協力を促進する礎となるであろう。
 その第一歩として、ロシアと中国の学者や専門家がイニシアチブを取り、東アジアと太平洋における大戦関連の歴史的出来事とその結果について、合同で議論し調査する恒常的な国際フォーラムを設置することも考えられる。それによって包括的な学術的議論が始まり、近年の重大な軍事的事件や戦後の歴史には様々な解釈があり、賛否が分かれやすい問題であることが示されるであろう。参加対象者は、戦争史学者、国際関係の専門家、国連制度の専門家、外交団の代表、著名人、NGO指導者、退役軍人、歴史的事件に携わった外交経験者等が含まれるであろう。

日露関係の「引き分け」

 日本の安倍晋三首相は今年、ロシアを訪問してウラジミール・プーチン大統領と会談を重ねた。それによって露日関係の立て直しが可能となり、平和条約の締結、貿易協力の推進や長期化した領土問題の解決など、主要問題に関する交渉を再開できるかもしれない。クリル諸島をめぐって困難を極めた論争は、戦後数十年間にわたり露日関係に深刻な影響を与えてきた。両国は、戦略的パートナーシップの確立を現在の主要な目標とすべきである。しかし、平和条約はいまだ締結されておらず、両国間の貿易発展の障害となっている。
 とりわけ、条約が結ばれていないために、日本企業によるシベリアやロシア極東の開発が遅れている。ロシア側も日本側も、開発が進めば利益を得られると見込んでいるが、あくまでも領土問題の解決を前提条件とするなら、露日関係の膠着状態は今後も続くであろう。
 吉報としては、両国の現職首脳が平和協定の締結に努力することで合意している。しかし、それは両国の威信に関わる領土問題について、更なる議論が巻き起こることを意味する。日本が固有の領土とする南クリル諸島四島を取り戻すことは、国家の名誉の問題である。一方、ロシアも第二次大戦で勝ち取った領土を返還すれば体面を失ってしまう。戦争で獲得した領土を返還した前例がないこと考えれば、尚更だ。
 妥協点を見出すことが、唯一可能な解決策である。プーチン大統領は安倍首相との会談で、それを柔道用語の「引き分け」と表現した。プーチン大統領のこのアプローチは適切なものであろう。確かに、妥協によって領土問題は穏やかになり、支配層も一般国民もそれを神聖で国家の威信をかけた重要問題とは見なさなくなるであろう。
 日本とロシアの二国間関係に実体が伴ってくれば、領土をめぐる論争は徐々に収まるであろう。これまでにもそのような効果を狙った多くの提案があった。そのうちの一つが、ボリス・エリツィン大統領が橋本龍太郎首相との歴史的なノーネクタイ会談で提案した内容である。共同努力によって係争地域の経済を発展させ、そこを自由貿易圏とすること、そして日本人が親族の墓参りをすることができるように、自由なアクセスを認める地域を設定することなどが提案された。他にも現実的な選択肢が検討されている。
 与党が衆参両院で過半数を占め、安倍首相が内閣を率いる中、法案成立には自信を持って取り組める状況である。衆議院で野党があらゆる動議を否決することを恐れる必要はない。外交交渉における日本の立場はより強固になり、安定したパートナーとの協力はロシア側にも利益となる。

(本稿は、「国際指導者会議(ILC)」(2016年11月16日IPP共催)における講演をまとめたものである。)

 

<参考文献>

1.Kimie Hara, “The san Francisco Peace Treaty and frontier Problems in the regional order in east Asia: a sixty Year Perspective,” The Asia-Pacific Journal, Vol. 10, issue 17, no. l, April 23, 2012 // http://www.japanfocus.org/-kimie-hara/3739#sthash.P7JXl5qr.dpuf

2.Koshkin A.A. “Gromyko govorit ‘nyet’: k istoriyi zaklyucheniya poslevoennogo mirnogo dogovora s Yaponiyei,” Vestnik MGIMO-Universiteta. 2011. no. 4 (19), p. 131.

3.http://www.alexanderyakovlev.org/fond/issues-doc/72121

4.Ivanov A.V. “Yubilei odnoi oshibki,” Vestnik MGIMO-Universiteta. 2011. no. 4 (19), p. 136.

5.San Francisco: 50 Years On – Part One. Suntory and Toyota international Centers for economics and related disciplines. London school of economics and Political science // discussion Paper no. 01/is/425. September 2001.

6.http://www.alexanderyakovlev.org/fond/issues-doc/72121

7.http://rgavmf.ru/lib/cherniavskiy_sf_dogovor_1951.pdf

8.Mezhdunarodnoye pravo v izbrannykh dokumentakh. Tom III. M.: Mezhdunarodnye otnosheniya, 1957, pp. 317,  333.

9.Cited from: Ivanov A.V. op. cit., p. 138.

10.Cited from: http://vff-s.narod.ru/kur/his/k_is01.html

11.http://www.japanfocus.org/-kimie-hara/3739#sthash.P7JXl5qr.dpuf

12.Itogovyi dokument Vsemirnogo sammita 2005 g. Prinyat rezolyutsiyei 60/1 general’noi assambleyi ot 16 sentyabrya 2005 g. // http://www.un.org/ru/documents/ decl_conv/declarations/outcome2005_ch5.shtml#t10

13.San Francisco: 50 Years On – Part One.

14.Lee Seokwoo. “The 1951 san Francisco Peace Treaty with Japan and the Territorial disputes in east Asia,” Pacific Rim law and Policy Journal. Vol. 11. No. 1, 2002, p. 63. 

15.Nezavisimaya gazeta, November 8, 2013.

16.Kimie Hara. Op. cit.

 

【資 料】北方領土の位置

出典:内閣府 http://www8.cao.go.jp/hoppo/sugata/01.html 

出典:内閣府 http://www8.cao.go.jp/hoppo/sugata/01.html 

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