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精神疾患の理解と治療はどこに向かうのか?―DSMとトラウマの行方
精神疾患を扱う専門家の間で広く共有されている診断基準の一つがDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神疾患の分類と診断の手引)です。同一症状に同一の治療を提供しようというねらいですが、個別の患者の事情をくみ取れないなどの懸念もあります。
精神疾患の診断とDSM
精神疾患とは何か?残念ながら、現代の精神医学はその問いに対する完璧な解答を持っていません。未だ精神疾患の病態の完全な科学的解明はできていないのです。そういうと「それでは精神疾患の治療はどうなっているのか?」と不安に思われる人もいるでしょうが、むろん現在の精神医学は診断と治療の体系を持っています。
現代精神医学の診断分類におけるグローバル・スタンダードとなっているのはアメリカ精神医学会が発行しているDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神疾患の分類と診断の手引)です。そして現行のDSM第5版(DSM—5)も上記のことを自覚しており、病因が解明されるまでの診断基準の持つ意義は臨床的有用性にあると緒論で述べています。つまり目の前の患者の治療に役立つ指針を提供することができるならば、診断分類には意味があるというわけです。
DSMは戦後の1952年に初版が発表され、それ以後改訂が重ねられてきましたが、1980年発行の第3版(DSM-Ⅲ)において抜本的な改訂が行われました。そこには精神疾患の診断に対する方針の一大転換がありました。現在の第5版もその基本的な思想を引き継いでいます。
その立場は「カテゴリー診断」、「操作的定義」と呼ばれるものです。それは、患者の状態、特にその精神医学的症状が各疾患カテゴリーの持つべき項目を満たした場合、その状態を「〇〇症/障害」であると見なすということです。通常、現行のDSMでは直近6カ月間の症状の有無によって判断します。この手続きはアルゴリズムに沿って各症状の有無を確認していくことで疾患を判定できるので、診断する人間の主観が入る余地が少ないです。極端な言い方をすれば誰でも判定が可能です。

国際的指標の要請
実はDSM3版は、それまでのアメリカ精神医学界の主流であった精神分析の考え方を否定するものでした。アメリカ精神医学界では精神分析による治療が主流であったために、診断において成育史を始めとする個々の患者の固有のヒストリーが重視されていました。精神分析では神経症等の病因として患者の過去のトラウマを重視したためです。そのため、治療者は、症状そのものよりも、むしろその背後にある、患者の気がつくことのできない無意識の心の傷(トラウマ)や葛藤に注意を向けていたのです。
一方、薬物療法や生化学的研究による生物学的な精神医学が進歩してくると、それらを科学的に活用するためには客観的で国際的に信頼できる指標が必要であるという認識が高まりました。しかし、個別のヒストリー重視の診断では同じ疾患の国際比較の妥当性を確保できませんでした。
そこで、DSM3版は、患者の過去については問わず、各疾患カテゴリーに必要な現在の症状の有無から操作的に診断をするという方針に大きく転換したのです。それは包括的視野からの統一的診断分類の作成の試みでした。これにより地域的、文化的に大きな差のあった精神疾患の診断分類の国際的平準化が推進されました。そして、「神経症」という精神分析を象徴する用語はDSMから消えたのです。
現在、医学的学術論文は精神疾患の対象者を示す時にこのDSMの基準によって記述されており、DSMのグローバル・スタンダードとしての地位は揺るぎないものになっています。

薬物・心理療法での共通言語
また、各国の臨床心理学等の専門家は精神疾患のアセスメントにおいてDSMを共有しています。つまりDSMは広くメンタルヘルスの専門家の共通言語となっているのです。
アメリカ心理学会は、DSMによる個々の疾患別に、どのような心理的介入法がどの程度の科学的な治療成績を示しているのかという一覧表を作成して公開しています。そこには多くの疾患に対して認知行動療法という介入法が有効であることが示されています。
これは認知療法と行動療法を組み合わせた心理療法の技法ですが、いずれも精神分析理論に対するアンチテーゼを提起した部分のある方法です。その結果、例えば、うつ病に対してDSMにしたがって診断を下し、精神科医が薬物(抗うつ薬)を処方し、心理師がうつ病のための認知行動療法を提供するのが最も有効性が高い治療であるとされました。
疾患分類の妥当性の限界
20世紀後半に精神疾患に対する薬物療法や心理療法が大きく進歩したことは確かであり、DSMの持つグローバル・スタンダードとしての地位はその成功の象徴的なものと見ることができるでしょう。しかし、そうした社会的制度として精神医学や臨床心理学の活動が発展したのとは裏腹に、学術的議論の中では精神疾患そのものの病態解明が必ずしも進んでいないと考えられています。
この間の遺伝子研究や脳科学研究の進展は、むしろ精神疾患を単純な還元的因果モデルで説明するのが難しいことを示しており、個人の遺伝子、行動様式、認知、社会環境といった各次元の要因が複雑に相互作用しているという認識をもたらしました。
そのため現行の疾患カテゴリーの妥当性は十分ではないとDSM-5自体が認めているのです。精神疾患における原因論としての精神分析理論は否定されましたが、それに取って代わる包括的な理論が生まれたわけではなく、むしろ包括的な理論など存在しないという意見さえあるのです。
さらに、精神分析理論を排除したはずのDSM3版の中にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)という疾患が入っており、そこにはかつて精神分析の創始者のフロイトが提起した精神疾患におけるトラウマ(心的外傷)の問題がそのまま残されています。しかもDSM3版から半世紀近く経った現在、フロイトが直面した成育史上の家族内でのトラウマというヒストリーは、今日の患者理解においてその重要性を一層増しているのです。 果たしてDSMが再浮上してきたトラウマの問題を今後どう取り扱い、それが精神疾患の理解と治療にどう影響するのか、これからの展開を注視していくべきでしょう。
(『EN-ICHI FORUM』2025年2月号記事に加筆修正して掲載)
参考文献
- アメリカ心理学会(高橋三郎・大野裕監訳)『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』(2014年)。
