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若者の人格形成に何が必要か―感情交流と「心打たれ本気になる体験」―

現代では表面的な安定や効率が優先され、ネガティブな感情を「ないこと」にし(解離)、傷つきを回避することが主流となっている。若者の何かに心打たれ追求する体験を後押しし、傷つきに負けない心を育てることが重要となっている。
- 「道徳過剰社会」の到来
- SOSを出せない現代
- 働き方改革との関係
- 親、教員から感情交流する必要
- 感情とシステム
- 心理学の世界の動向
- ヌミノースの体験
- ひたすら求めぬく体験
- 若者を支える
- 大人の「魂のミッション」
- 心震える人生
「道徳過剰社会」の到来
私は中学・高校のスクールカウンセラーを25年ほどやっているが、現代の若者は、自分の気持ち、特にネガティブな感情を保有して表現することが非常に難しくなっている。
特にコロナ禍以降、イライラするとか、自分なんか生きていても意味がない、死にたくなってしまう、そういう感情を表現できない若者が増えている。
その原因は、現代日本社会が、「人に迷惑をかけてはいけない」という規範が過剰な、道徳過剰社会になっていることにある。若者たちは、自分が落ち込んでいるとか、イライラしているとか、死にたくなってしまうなどといった否定的なことを口にするのは、相手に迷惑をかける「よくないこと」「ルール違反」だとする感覚を持っている。相手が学校の先生であってもそうだし、親でも友人でもそうだ。
自分の中には、本当はいろんな気持ちがある。特に中学生や高校生は、悩んで当たり前の時期である。その時期に、ネガティブな感情を持たないほうが良くて、切り離して「ないこと」にしてしまう。そして、上面だけ笑顔で、お互いに「いいね」と承認し合って過ごしていく。そういう文化、規範、ルールが暗黙の裡に色濃くなってしまっている。これは、日本の未来にとって、致命的なことだと思う。
コロナ禍の前から、できればあまり人に迷惑をかけたくないという文化は強かった。けれども、コロナ禍に入ってから、SNS 中心の交流が進み、この文化が促進されている。
SNS の中で、少し人と絡んでしまうと、あまりいいことが起きない。人からつらいことを言われてすごく傷つく。少し本音を出すと否定されてしまう。そのようなことが繰り返され、感情を共有することは面倒を引き起こすことで、傷つかないためにも避けたほうがいいと思われるようになってしまった。そのような文化が、現実の人間関係においても促進されている。
ネガティブな感情を切り離し、「ないこと」にする状態は、スプリッティングや解離と呼ばれる。子供だけでなく、現代の大人にもそういうところがある。面倒くさいこと、コスパの悪いことには誰もがかかわりたくない社会になっている。
この国は、解離を強要される「道徳過剰社会」になってしまっているのだ。
SOS を出せない現代
確かに、ネガティブな感情を出さないことは、人と衝突しない方法ではある。お互いに傷つかずに済むし、人に迷惑をかけないというルールを守って、心地よく日々を過ごすことができる。当たり障りのない交流だけで済ますためには、自分の気持ちなんか「ないこと」にして生きていくことが、一番都合がいい。
しかし、そういう中で、何が起こってくるか。本当はいろいろな感情があるにもかかわらず、それらを「ないこと」にすることを強要されても、生きているのだから、時々自分の中にものすごく否定的な気持ちが沸き上がってくるようになる。思春期、青年期を過ごしているのだから当たり前だが、そういう気持ちを制御できず、どのように対処したらよいかわからなくなってしまう。
以前は、「つらい」「死にたい」など、自分のネガティブな気持ちを表現することはできた。しかし、今は「つらい」「死にたい」などと口にすること自体、「人に迷惑をかける良くないこと」だとみなす風潮が出来上がってしまっている。
それが原因か、今、理由なき自殺、つまりSOSを出さずに死んでいく子供たちが増えている。しかも、成績がよく、友達関係も良好で、異性にも人気がある、何の問題もないように見える子供たちが突然死を希求する。
昔は、自殺にも兆候があり、対応できることが多かった。平成になった頃、千葉県のある学校から生徒が失踪し、富士の樹海近くの新幹線の駅で保護されたことがあった。その生徒は、失踪前に保健室で担任の先生に、「富士の樹海ってどこですか」と場所と行き方を聞いてきた。担任の先生はそれを教えた後授業に向かったが、なんだか胸騒ぎがする。保健室に戻ってみれば、案の定生徒がいない。自宅を訪問した際、勘が働いて郵便受けに手を突っ込んでみたら、遺書がおいてあった。大騒ぎになり捜索活動が行われたが、先生と富士の樹海の話をしたことから、警察が無事に駅の改札口で保護した。
このように、兆候があるタイプの子なら、大騒ぎはするが、学校や大人が対処しやすい。私は死にたいんだ、気にかけてくれ、とSOS を出してくれるからである。しかし、今はSOS を出すことはよくないこととみなす風潮が強い。だから子供たちがなかなかSOS を出してくれない。それでは大人は何もできない。SOS を出してくれなければ、教師もカウンセラーも無力だ。これは「教育の敗北」といっても過言ではない。
子供たちが感情を出さないのは、大人に聞く余裕がないという以上に、子供たち自身が感情を出してはいけないという道徳・規範を内面化し、自制してしまうからである。この「感情を出すことをよしとしない文化」は、ものすごく大きな致命的ダメージで、この文化が促進されていくと日本を滅ぼしてしまうと思う。
働き方改革との関係
子供・若者が感情を出せなくなっていることは、私たち大人、とくに教育関係者に課されたものすごく大きな挑戦であろう。
現在、学校の教員は、働き方改革ということで、できるだけ早く帰ろうという文化になっている。以前は、中学校の先生なら夜10 時くらいまで学校にいることが当たり前だった。子供たちのために振り回されながらも、大人たちも遅くまで残って語り合い、議論して、つらい気持ちもぶつけあったりしていた。そういうことが教員同士でも当たり前の時代があった。今は、教員も18 時までに帰らなければならない。時間までにやらなければならない仕事もたくさんある。
すると、職員室の中で先生同士も話をしない。子供同士は内面を共有しないけれども、教員同士も内面を共有しない。ただひたすらパソコンに向かっている。このあり方は、感情を共有しない子供たちの文化そのものである。
確かに、働き方改革は必要だろう。従来は、教育愛の美名のもと、無限に働くことが美徳とされてきた。その慣行を是正するのはいい。しかし、現行の働き方改革は、つまるところコストパフォーマンス(コスパ)のよい働き方をしようということである。先生たちがコスパよく過ごそうとすれば、学校全体をコスパや効率が覆うようになる。
コスパ優先の社会の中では、死にたいとかつらいとか、どろどろした面倒くさい感情は全部「ないこと」にしたほうが効率がいい。時間効率を追いかけていくことが、かえって教育現場から余裕を失わせている。
教育や子供を育てるときには、特に感情面において、「ムダなこと」を大事にしなければならない。「ムダなこと」の代表は雑談である。雑談の中でこそ、大事なことをぽろっとこぼすものである。コスパを優先すれば、学校の中で雑談の時間はどんどん減ってしまう。そうすると、先生も気持ちを出さないし、子供たちもますます出さなくなる。効率を優先すると気持ちは育たない。
結局それでどうなるのか。感情を「ないこと」にできない人が追い詰められ、どこにもやり場がなくなって、いきなり死ぬという方法しか考えつかなくなる。これは本当に大きな問題だと思う。
親、教員から感情交流する必要
対策はただ一つで、感情の交流・共有をどうやって復活させるかということである。傾聴は重要な要素だが、ただスキルとして子供の話を聞けるようになろうと声を張り上げるだけでは不十分である。子供からしてみれば、突然「さあ、話を聞いてあげるから、気持ちを言いなさい」と言われても、話せるものではない。
そもそも「感情交流・共有が普段から行われている文化」の下でなければ、気持ちを出すことは難しい。だから、まず教師や親など、大人同士の間で感情交流を復活させていく必要がある。
ある地方でセミナーをしたとき、45 歳のベテランの先生が参加された。その先生は、SOS シールというものを作り、教員の間で、毎日一個SOS を出し合うことを奨励したという。しかし、若い先生たちはそれを使わなかった。子供たちと同じで、SOS を出して相談することをよしとしないのである。挙句、管理職からもそんな無駄なことをするな、と言われてしまった。
でも、私はこの先生の目のつけどころはよいと思う。お互いに困ったことを出し合い、助け合う。そして、ムダなことをして交流を支え合う。そういう文化を早く復活させる必要がある。今から20 年進んでしまったら、このような取り組みをしてくれている世代が引退してしまい、取り返しがつかなくなる。
感情とシステム
ここまでは教員の話だったが、カウンセラーの世界でも同様の難しさがある。カウンセラーの世界では、公認心理師という国家資格ができて以降、養成がシステマティックになって、学生たちがムダなことをしなくなってしまった。システム以上のことを課そうとすると、ハラスメントだといわれるような雰囲気がある。
昔の学生たちは、最低限の時間数をこなすのではなく、もっとムダなことをたくさんやり、どろどろとしたぶつかり合いや感情交流をしていた。そうやって成長していったのである。例えば、先輩のカウンセリングに同席する陪席という学習方法があるが、今はそれを希望する学生がぐっと減っている。陪席はやらなくても卒業できる。ただ、先輩のカウンセリングを見られるなどということは、学生の特権である。昔は、募集があればすぐ満員になったが、今はなかなかならない。
カウンセラーや教員は、感情というものを大事にしなければならない。そういう職業でさえ、システム優先の風潮が強くなってしまっている。システム優先とは、感情を捨てるということである。なぜなら、ムダなこととは感情的なことだからである。感情共有が、一番効率が悪い。効率やシステム優先の社会になると真っ先に捨てられるのが感情なのである。
心理学の世界の動向
心理学の世界でも同様である。心理学には、ユング心理学や人間性心理学、実存心理学といった「システムに乗りにくい心理学」と、認知行動療法やブリーフセラピーなどの「システムに乗りやすい心理学」がある。
「システムに乗りにくい心理学」は、どろどろした感情を正面から扱う。「システムに乗りにくい心理学」に基づいてカウンセラーを養成する場合、ものすごく時間がかかる。グループでお互いに自分の悩みを語りあって聞いていくということを何十時間もやっていく。このようなどろどろした感情を扱う心理学が軒並み廃れ、「システムに乗りやすい」認知行動療法やブリーフセラピーが大いに優勢になっている。
もちろん、認知行動療法やブリーフセラピーが無駄だというわけではない。それらの技法は有益だ。
ここで言いたいのは、心理学の学派間で起こっていることも、学校で子供たちや先生たちに起こっていることも、カウンセラーたちの間で起こっていることも、全部同じ方向だということである。
システムが中心、効率が中心になっている。その中で、排除されているものはどろどろした感情とその共有、実存といったものである。システムや効率、人に迷惑をかけないことを優先する「道徳過剰社会」になり、迷惑をかけてお互い様、感情の共有、実存、どろどろしたものやムダを大事にすることが見捨てられている。どうにかして、どろどろした感情やムダを大事にする社会への揺り戻しが来てほしいが、今のところ、希望がない。
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出所:筆者作成
ヌミノースの体験
人がどろどろしたものに向き合えなくなったのは、やはり傷つきたくないからであろう。そして、他人の傷にもあまり付き合いたくない。そういう心理は、大人もそうだが、特に若い人たちに多い。傷ついてもいいから何かを手に入れたいという情熱が失われたもので、今主流になっているのは「傷つきを避ける文化」である。「傷つき」を避けるために「情熱を持つこと」を諦める文化である。これは、ものすごく大きなものが失われつつある。
傷ついたり、承認されなかったりしても、何かを求めぬいていくという強い気持ちを持つためには、二つの体験が重要である。その一つが、ヌミノース(Numinous)の体験である。ヌミノースとは、ユングがルードルフ・オットーという人物が唱えた神学的概念であるヌミノーゼ(Numinose)を、心理学的に取り入れたものである。「圧倒的なものに出会い、理性を超えて感動したり魅了されたりするときに感じる感情」のことをいう。
自分のことを振り返っても、圧倒的なものとの出会いが自分の精神性をはぐくむために重要だった。中学3 年生のときに太宰治の『人間失格』を読んだが、私にはこの小説が、純粋に生きた人間が「人間失格」にならざるをえない、世の中を糾弾する小説に読めた。その中には主人公が「僕は人間失格だ」と言うくだりがあり、人間失格だと言われたのは自分だと思った。そして、世間だと思った。この世間が「人間失格」で、世間の一部を構成している自分自身も、人間失格だと糾弾されたように思えた。
自分が人間失格だと思った瞬間、じゃあ、何を求めていけばいいのか、分からなくなった。それまでは、世間の一員として、田舎の優等生として、親や先生、友人などから承認を得てうまくやっていた。そういう自分がガラガラと崩れていった。
そのとき、突如、私の脳天に、強烈な光、真実の光みたいなものが、見えない世界からぱっと差し込んできて、私の心を捉えた。「すべてを投げうって、真実の世界を目指していきなさい」という強烈なメッセージというか、指令のようなものが私の心を強烈に捉えた。この体験が私の人格形成に決定的に重要な影響をもたらした。その後の人生のすべてを方向づけた。
このような体験が私を変えたわけだが、何に圧倒されるかは、人によって違うだろう。例えば、ある演奏家のコンサートを気に入って「なんだ、これは!」と打ち震え、音楽に目覚めてもいい。これもヌミノースの体験、「大いなるものにとらえられ、畏れおののく体験」である。
音楽だけでなく、芸術作品や大自然、格闘家の真剣な闘いぶりや料理人の料理と向き合う姿勢でもいい。あるいは、父親母親が何かに人生を投げうっている姿を見て、「すげえな、俺も同じように、何か、一つのことに人生をかける。いいことを教わったよ」と思えたなら、それは最高である。
絶対的なものに魅了され、心打たれる体験。これは実存的な体験であり、全ての人の人格形成にとってもっとも大事な体験である。
ひたすら求めぬく体験
圧倒的なものに魅了されたら、それをひたすら求めぬくことが重要である。10 年かかっても20 年かかっても、どんなに傷ついても、失敗して嘲笑われてもかまわない。「何が何でも、とにかく自分を魅了したものを手に入れる」という強い意志を持つことが大切なのだ。こうした姿勢を持つことを妨げるのが、承認欲求である。
現代で支配的なのは、傷つきを回避することだが、それは言い換えれば、失敗したくない承認を失いたくない、ということである。失敗したくない、承認を失いたくない、という気持ちがあると、何かを少しやってみただけで飽きたと言ってやめてしまう。これは本当に飽きたという部分もあるかもしれないが、少しやってみて限界が見えてしまったからである。物書きでも音楽でも、最初は少しやれば上達する。しかし、ある程度やると限界にぶち当たる。人に負け、傷つくこともある。
傷ついてもいい、人からの承認を失ってもいい、なりふり構わず求めぬくんだという取り組みができるかどうか。それができるがどうかで、人生の価値は変わってくる。
『夜と霧』の著者として知られる精神科医ヴィクトール・フランクルは、人生には「その時」の「自分」にしか実現できないことがあり、それを「人生から求められている」と言った。傷ついたりくじけそうになったりしても、自分の心をとらえた何かを求め続けることができるか。そのことによって人生は意味あるものになる。フランクルの言葉でいえば、「人間はそれを人生から問われている」のである。
若者を支える
人間の人格形成には、身近なものでいいから、心を震わせる体験をして、本気でそれを求めていく決意を固めることが決定的に大事である。
大人にお願いしたいことは、子供や若者が無我夢中になれるものを見つけられるように、彼らをできるだけたくさんの「本物」に触れさせてほしいということである。価値を追求するためには、まず真に価値あるもの、本当の本物に触れる必要がある。だから、若者を真善美に触れさせ、胸を震わせる体験をさせてほしい。そして、必死で何かを求めながらも、くじけそうになっている若者がいたら、支えてあげてほしい。
何かに取りつかれ魅了され、ひたすら求めていく。この二つの原初体験があって、求めていくうちに、「魂のミッション」というべき、「自分はこのために生きていくのだ」と思える何かが見つかる。何かに心震えて求め続けていく体験ができれば、若者は簡単に死にたいなどとは思わないのではないか。
大人の「魂のミッション」
本物の価値あるものに出会って心を震わせ、何が何でも求めぬくこと。人と心を深く通わせ、感情交流をすること。この二つを日本人の中に、何とか復活させたい。
そのためには、まずは大人自身がモデルを見せることが大事である。先生自身や親自身が、本気で何かを求めたり、誰かと心を開いて話し合ったりしている。その様子を見て、子供たちが「いいな」と思えるようにすることが第一歩である。
若いうちに何かに心震わせて追い求める体験ができたらもちろんいいが、私は60 歳を超えてからでもいいと思う。何かに取りつかれて必死に取り組むには、仕事を引退し、家族を養う責任を果たした後の「60 歳から」が人生後半の最大のチャンスだ。大人にこそ、本気で何かに取りつかれ、「魂のミッション」を果たすために無我夢中になって生きてほしい。
フランクルは、浅い人間同士が出会っても、真の出会いにはならないと述べている。真善美やロゴスを求め、傷ついてもかまわない。挫折したとしても、本気で何かを求める体験をしている人は、「深い孤独」を知っている。この「深い孤独」を知っている人同士が出会ってこそ、本当の出会いであり、深い感情交流が生まれてくる。
心震える人生
漫画でもアニメでもなんでもいい。心が震える体験をしてほしい。ジャズのサックス奏者を題材にしたアニメ映画を見たが、あれを見て心を打たれ、音楽をやりたくなる若者は多かっただろう。たかがコミックとバカにしたものではない。
子供時代に十分な承認を受けることができず、今も承認を求めてしまったり、傷つきを恐れてしまう人もいるかもしれない。そういう人には、傷ついた心をいやす再養育体験が必要だ。
しかしいつまでも「自分は愛されなかった人間だ」という思いを抱え、過去に縛られ続けていると、人生が、とても不自由になってしまう。傷を癒すと同時に、そのつらい体験を手放し、「心震える何かとの出会い」を求めてみてはどうだろうか。
人間、心を震わせて生きてこそ、価値ある人生である。そのような意味では、カウンセラーや教師はラッキーな仕事である。人が困難を乗り越え、成長していく姿を目の当たりにし、心を震わせる体験がたくさんあるからだ。
(初出は『EN-ICHI FORUM』2025年2月号)
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