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シリーズ:人間のライフサイクルと家族④「「高齢期」があるのはヒトだけである」

石﨑 淳一神戸学院大学教授

2026年4月21日

前回は人の二足歩行について触れた。このことは『脳の進化』の第3章で扱われている。そこでエックルスが、アウストラロピテクスにおいてすでに立位に適するように骨の構造が進化していること、そしてヒトの二足歩行における繊細な運動制御の神経機序について説明していることを述べた。また、アウストラロピテクスの足跡が見事に保存された化石記録の分析から、そこに手を繋いで歩く核家族の姿が想像されるというエックルスの第5章の記述についても触れた。ますます二足歩行はヒトにおける最初期の進化的特徴と考えられ、その獲得はヒトがチンパンジーの共通祖先から分化したとされる600~700万年前にまで遡る可能性があるという現在の人類学の知見についても記した。

さて、いよいよ本連載の初めに言及した『脳の進化』第5章の図について見ることにしよう。第5章は大脳辺縁系と生殖、情動系について考察している。第5章5節のヒトの脳の拡大についてはすでに前に述べた。問題の図は6節「ヒト科の人口戦略」の冒頭に登場する(図1)。エックルスによるこの図の説明は、「霊長類の進化的発展の間に、一生の各相と妊娠期間が次第に延長するようすを示す」となっている。つまり、胎児期(妊娠期間)が延びるのに相関して寿命(生涯年齢)と生涯の各相もそれぞれ延びることが示されている。この6節のタイトルから分かるように、第6節でのエックルスの関心は人口戦略にあるので、まずはその点を確認しておきたい。かれはもう一つの図を掲げて、そこで個体の寿命をシーソーの左側に置き、他方、シーソーの右側には出産間隔、胎児期、扶養される期間、性的成熟という4つの変数を載せた模式図を示している。すなわち、この左右のバランスがその種の人口の増減を決定するということである。なお、これらの図は共に人類学者のラブジョイの論文(Lovejoy, 1981)からの引用である。

【図1】霊長類の生涯の各相

出典:エックルス(1990)より引用

エックルスによると、チンパンジーの個体の性的成熟は10年、出産間隔は5年半等となっており、一人の母親が一人の子どもの面倒を見ている。子どもが事故で死んだり、殺されたりすることがあり、かれらの生活史は上記のシーソーの結果から人口学的には種の生存にとって限界ぎりぎりであるという。オランウータンも同様である。これに対して、ヒトでは進化の途上でこの状況が改善されたと考えられる。その要因として、ラブジョイは、二足歩行により食物の長距離運搬が可能になったこと、そして雄が子育てを分担したことが大きく寄与したのだろうと推測した。この後者の両親による子育ては、その結果として核家族が形成されることを意味している。このような養育環境の改善によってヒトの出産間隔は1~2年まで短縮され、家族の中できょうだいが育つようになった。これは一夫一婦制の核家族の成立をヒトの人口戦略の進化の中核におく仮説であり、エックルスはこのことを重視して最後の第10章「人間的な人格」でも取り上げている。

このヒト科の人口戦略をめぐる核家族の形成の議論はとても興味深いテーマであるのだが、ここではその議論には立ち入らない。筆者がまず読者にあらためて注目してほしいことがある。それは、このラブジョイ=エックルスの提示した図に端的に示されたヒトの生涯の特殊性である。筆者にとってまずはこの素朴な事実が衝撃的であったということを本連載の初めに述べた。図1を一見すれば了解されるだろうが、この図において胎児期の伸長と相関して成熟期は確かに伸長している。最も長い胎児期を持つヒトでは成熟期までの期間が最も長い。この成熟期の終わりがその種の個体の寿命を示しており、ここではチンパンジーは40歳である。これに対してヒトの成熟期の終わりは50歳となっている。だが、もちろんヒトの寿命を50歳と見なすのは若過ぎるであろう。ここにおいて推定されるヒトの寿命と実際のヒトの寿命に乖離が生じる。なぜだろうか?それはヒトが他の霊長類(もっと言えば哺乳類)と比較して、質的に異なる生涯の区分(生活史)を持っているためである。ここで私たちはこの図の一番右のヒトの縦帯バーにのみ成熟期の後に薄い網掛けの期間が続いていることを見出すのである。それは「生殖期間後」と表示されている。つまり、ヒトにおけるこのグラフの成熟期の終わり(50歳の区切り)は他の霊長類のように寿命を表すものではないのである。

この「成熟期」から「生殖期間後」への区切りを端的に示すのがヒトの女性における閉経という現象である。このグラフの50歳の区切りは典型的には閉経年齢を意味するものと見ることができる。ヒトは哺乳類の中でも例外的に長命であるが、それは単に個体の寿命(成熟期)が延びたということではなく、繁殖に関わらなくなってからもなお長く生きるという重大な生活史上の変化によってそうなっているのである。この点でヒトは他の生物と著しくことなる生涯を形成している。このヒトの生活史の特殊性について、人類学者の山極(2008)は次のように言う。「閉経は人間だけに見られる不思議な現象である。…類人猿の寿命は約50年で、繁殖能力もその直前まで旺盛である。ところが、現代人の女性は40代で繁殖能力が急速に衰え、50歳前後で停止するにもかかわらず、その後70歳、80歳を超えて生き続ける」。そして、寿命の長いゾウの場合でも、やはり最後まで繁殖能力があり60歳代でも子どもを産むことを指摘して、「人間は寿命を延ばしたのに、繁殖を早く停止するように生活史を調節しているように見える」と述べている。そこで、進化論的にはそのような生活史戦略が種の生存にどのように利点となるのかということが議論の対象となる。

よく知られているのは、人類学者のホークスが提起した「祖母仮説」である(Hawkes, 1998)。ホークスは、「祖母の役割、閉経、そしてヒトの生活史の進化」という論文の中で タンザニアの狩猟採集民族の調査データをもとに、母親が授乳や次の子の育児で忙しい時に閉経後の高齢の女性(祖母)が、根菜などの採集を通じて食料供給の主役になっていることを示し、祖母が熱心に働くことで、孫の生存率が上がると主張した。このように「長生きして孫を助ける遺伝子」を持つ女性の存在が、自分の血を引く子孫を多く残すのに寄与し、ヒトはその結果として閉経後も長く生きる特異な進化を遂げたと推論したのである。このことについて山極は、「母親が成長の遅い幼児を何人も抱えることができたのは、閉経した年配の女性の援助があったためだと思われる…。(中略)人間の母親は近親者に子育てを任せられる手段があるために、成長の遅い子どもを立て続けに産む不思議な生活史戦略を進化させることができたのである」と述べている。

筆者は心理学者なので、私たちが当たり前のことと見なしている人間の心理的なライフサイクルの基盤にどのような生物学的な条件があるかということに注目している。図2はE. H. エリクソンによるヒトのライフサイクルを示したものである(エリクソン&エリクソン,2001)。エリクソンは心理学におけるライフサイクルという用語の提唱者であり、パーソナリティの生涯発達モデルを提示した。かれのサイクルという言葉には世代の継承性と循環性の意図が込められている。図2では人間の一生における8段階の心理社会的な発達課題が示されているが、この区分は私たちの素朴な人生観と概ね一致するものであろう。その中の青年期から前成人期、そして成人期までは繁殖に与かる時期であるからラブジョイの図のヒトの「成熟期」に相当すると見ることができる。そして、「生殖期間後」はエリクソンの8段階目の「高齢期」に相当するであろう。ここで私たちは生物学的なヒトの生涯の進化と心理学的な生涯発達の視点から、次のように暫定的に言うことができると思われる。

【図2】ライフサイクルの8段階の図式

出典:エリクソン他(2001)より引用

すなわち、「生殖期間後」を高齢期と捉える立場からは、「高齢期を持つのは人間だけである。」

これに更に付け加えるならば、「人間だけが祖父母を持つ。言い換えると、人間だけが孫を持つ」

これは人間における中核的な生物学的かつ心理学的な条件であるように思われる。

参考文献

  • Eccles, J. C.(1989).Evolution of the Brain: Creation of the Self. Routledge. エックルス, J, C. 伊藤正男(訳)(1990).脳の進化 東京大学出版会
  • Erikson, E, H. (1997). The Life Cycle Completed: A Review. W.W. Norton. エリクソン, E. H. 他(著)村瀬孝雄他(訳)(2001)ライフサイクル、その完結 みすず書房
  • Hawkes, K. et al. (1998) Grandmothering, menopause, and the evolution of human life histories. PNAS 95: 1336-1339.
  • 山極寿一(2008).人類進化論-霊長類学からの展開 裳華房
  • Lovejoy, C. O. (1981). The origin of man. Science 211: 341-350.

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