一般社団法人平和政策研究所ブログ

「水中文化遺産保護条約」をめぐる最近の動向

岩淵 聡文 イコモス国際水中文化遺産委員会日本代表
岩淵 聡文(いわぶち・あきふみ)イコモス国際水中文化遺産委員会日本代表
東京都生まれ。1983年早稲田大学第一文学部卒。1985年東京大学大学院社会学研究科修士課程修了。1990年オックスフォード大学大学院社会人類学科博士課程修了。哲学博士(オックスフォード大学)。現在、東京海洋大学大学院教授、イコモス国際水中文化遺産委員会日本代表、日本海事史学会副会長、海洋立国懇話会理事、NPO法人アジア水中考古学研究所理事。専門は、社会人類学、東南アジア民族誌、海洋文化学。主な著書に、『アラス峡谷の人々』(英文)、『文化遺産の眠る海』ほか。

水中文化遺産とは?

ユネスコの「水中文化遺産保護条約」は2001年に採択、2009年に20カ国以上の批准国を得て発効した、世界で唯一の海の歴史や文化に関する国際条約である。2018年現在、スペイン、ポルトガル、イタリア、エジプト、南アフリカ、メキシコ、アルゼンチンなど世界約60カ国が批准を終了している。国連の常任理事国ではフランスのみが批准国である一方、英国は批准の国内準備をすすめている。この他、大航海時代の主要国の一つであったオランダも批准の国内手続きに入っている。一般に誤解されている側面もあるが、「水中文化遺産保護条約」は財宝を満載した大航海時代前後の沈没船遺構の保護だけを目途とした国際条約ではない。同条約の定義によれば、水中文化遺産とは「文化的、歴史的、または考古学的な性質を有する人類の存在のすべての痕跡であり、その一部または全部が定期的あるいは恒常的に少なくとも100年間水中にあったもの」である。すなわち、海岸線にある港湾遺跡や貝塚も水中文化遺産であり、2045年以降は第二次世界大戦中に沈没したすべての軍艦や輸送船もこのユネスコの条約の規制下に入る。発効後10年を経過して、未批准国といえども同条約の理念や原理原則を無視できないような国際情勢が現出しつつある。

冷戦が終結していないアジア海域

ところが、「水中文化遺産保護条約」は、東アジアと東南アジアでは極端に不人気である。同域ではカンボジアのみが批准国である。不人気の要因については、まず第一に、同条約が定めるいくつかの規定がアジア各国にとって受け入れ難いという側面がある。例えば、「水中文化遺産保護条約」では、水中文化遺産の原位置保存がその保護の第一の選択肢として推奨されている。すなわち、沈没船遺構が海底で発見された場合でも、それを引き揚げてはならず、その海底の現場で保存をして研究を行わなければならないとされている。しかしながら、水中考古学が発達してきた地中海やカリブ海と比較して海中の透明度がかなり悪いアジアにおいては、原位置保存は往々にして非現実的な選択肢である。もちろん、そのような場合、陸上に適切な水中考古学博物館や研究所などの保存処理施設を整備して引き揚げ作業を実施するということは、「水中文化遺産保護条約」でも認められている。しかし、アジアにおいては、その建設に多額の国家予算を必要とする、こうした研究施設を整備しているのは、中国と韓国のみである。日本ですら、このような研究施設を準備する余力を持ってはいない。

アジア人にとって受け入れ難い同条約中の規定の一つに、「水中文化遺産保護条約」が海没遺骨を水中文化遺産に含めているという事実もある。イスラーム教徒を含むアジア人にとって、遺骨は決して「文化遺産」とはなり得ない。したがって、2045年以降も、日本政府は同条約の原位置保存の原則に反して、海没遺骨の収容作業を継続し続けなければならないのである。しかしながら、同条約のアジアでの不人気のもっとも重要な第二の外的要因は、アジアの海域においては冷戦がまだ終結していないという現実である。「水中文化遺産保護条約」がその条文内で使用している海域区分は、「国連海洋法条約」のそれに依拠している。すなわち、領海、接続水域、排他的経済水域、公海などの下の文化遺産の保護がそれぞれ謳われている。アジアでは、排他的経済水域どころか隣国との間で領海の範囲すらまだ画定していない海域も多く、各国がそれぞれの海域にある水中文化遺産を保護する国内法を整備する段階にはまだ至ってはいない。このため、東アジアと東南アジアの周辺に位置する主要国、すなわち、米国、ロシア、インド、オーストラリアも「水中文化遺産保護条約」を批准してはいない。

日本による早期批准の必要性

しかしながら、海洋政策という脈絡で考えた場合、日本が「水中文化遺産保護条約」を批准しないという選択肢は存在しない。日本は南シナ海問題でも、国際法秩序の遵守を繰り返し主張している。仮に、現在では未批准国の中国が「水中文化遺産保護条約」を批准してきた場合、「水中文化遺産保護条約」だけではなく「国連海洋法条約」すら批准していない米国と共同歩調をとる日本は、アジアの海洋問題できわめて不利な立場に立たされる。2016年にハーグ仲裁裁判所で行われた南シナ海判決では、「中国が南シナ海の海域に対して歴史的に排他的支配権を行使していたという証拠はない」という文章が盛り込まれた。中国はこれを逆に、同海域への中国の歴史文化的関係が立証されれば支配権が行使できると解釈し、莫大な国費を同海域における水中考古学研究に投入してきている。近い将来、中国が「水中文化遺産保護条約」を批准する可能性は低くない。その際、もっとも憂慮すべきことは、同条約のユネスコのアジア太平洋地域センター(カテゴリー2センター)が中国に建設されてしまうという悲劇である。日本は世界でもっとも多額の分担金をユネスコに提供しているが、「世界遺産条約」のユネスコのアジア太平洋地域センターは上海にできた。その際、この誘致に失敗した文化庁の担当官は悔し涙を流したと伝えられている。

次に、日本国政府は「無形文化遺産保護条約」のユネスコのアジア太平洋地域センターの誘致も希望したが、これは日中韓三分裂となった。条約ではないが、ユネスコの記憶遺産の本部は韓国に設立された。中韓よりも広大な排他的経済水域を抱える日本が「水中文化遺産保護条約」を早期に批准せず、そのアジア太平洋地域センターの国内誘致にも失敗すれば、海洋立国日本、文化立国日本の存立基盤すらが揺らいでしまう危険がある。