はじめに
筆者は長年にわたり海洋環境の研究に携わり、プランクトン生態学や海洋環境毒性学の観点からプラスチック問題を注視してきた。もともとプラスチックそのものの専門家ではないが、海洋生物に対するプラスチックの影響については約20年前から授業・研究で扱ってきた。授業で海を語る際の基本的なスタンスは一貫して、「海は地球上の生命発生の起源であり、人類にとって母なる存在である」というものだ。
現在、海面水温の上昇、海洋酸性化、溶存酸素濃度の低下、海洋熱波の拡大が顕著になっており、海を人類の共有財産とする「コモンズ思想」の意義がかつてなく高まっている。海は誰のものでもない(無主地=Terra Nullius)という認識のもと、その果たす役割を改めて問い直すことが求められる。
海を含む地球生態系が人類にもたらす恩恵を体系的に整理したものが「生態系サービス」である。「ミレニアム生態系評価」では、これを次の4つのカテゴリーに分類している。
1.供給サービス:食料・淡水・燃料・医薬品など、人間生活に必要な物資の供給。将来的に価値をもちうる潜在的資源も含まれる。
2.調整サービス:気候・大気・海洋の化学組成の調整、有害物質の無毒化、自然災害の緩和など、環境を制御する機能。人工的に代替しようにも膨大なコストを要する。海の場合、干潟の水質浄化機能やマングローブ林による洪水制御などもこれに含まれる。
3.文化的サービス:精神的充足、健康回復、レクリエーション(ブルーツーリズムなど)の場を提供する機能。生態系の多様さが豊かな文化の基盤となっている。
4.基盤サービス:栄養塩の物質循環、植物プランクトンなどの藻類による一次生産、土壌形成など、上記3つのサービスを根底で支える機能。
筆者はなかでも調整サービスの重要性を強調してきた。経済的な資源価値だけでなく、こうした根源的な価値こそが海洋保全の根拠となるべきだという考えからである。大学退職後は、この思いを子どもたちや一般市民に広く伝えるべく、2023年に設立間もない日本海洋教育学会に入会し、現在は編集委員として活動している。我が国の義務教育課程における体系的な海洋教育の必要性については2020年のIPP政策オピニオン「海洋国家日本と海洋教育—初等教育では何を優先的に教えるべきか—」でも論じたが(広海2020)、その延長として今夏には子ども向け海洋啓発書『海の不思議』(仮題、技術評論社)の出版も予定している。海の価値を次世代に伝えることは、プラスチック汚染の根絶に向けた社会的基盤の形成にも資すると確信している。
こうした背景のもと、本稿では急増するプラスチック汚染問題の概要を述べたうえで、国際プラスチック条約策定の進捗と難航の現状を整理し、より実効性のある条約の策定の実現に向けて科学研究がどこまで影響を与えられるかについて考察する。
1.プラスチック汚染問題とは?
(1)急増する生産量の増大と廃棄物問題
世界のプラスチック生産量は1950年の約200万トンから2015年には約4億トンへと急増し、2019年には4億6000万トンに達した(図1)。図中の凡例の一番下から低密度ポリエチレン、高密度ポリエチレン、PPはポリプロピレン、その上がポリスチレン、PVCはポリ塩化ビニル、PETはポリエチレンテレフタレート、これらがいわゆるビッグシックスと呼ばれるもので代表的なプラスチックである。一番上にあるものは添加剤である。今後もこの増加は続き、2040年には7億トンを超え、2060年には12〜13億トンに達するとの予測がある。プラスチックの生産量増大に比例してプラスチックごみも増加することは自明である。これに対して廃棄物対策・管理を徹底すれば問題は解決できるという議論もあるが、世界規模で十分な廃棄物処理が実現されていない、という現実を無視してはならない。この点については2章(2)で詳しく触れる。
(2)海洋から地球規模へ——大気循環と気候変動
プラスチック汚染はかつて「海洋の問題」として認識されていた。陸上で生産・使用されたプラスチックが海洋へと一方的に流入するというイメージだ。しかし近年の研究によって、プラスチックの動態はそれよりはるかに複雑であることが明らかになっている。海からの飛沫に乗ったプラスチック粒子は大気中へと放出され、陸域・海洋・大気の間を循環することが確認されている(図2)。この図で黄色の線はプラスチックの発生源・形成を、黒色の線は陸からのプラスチック大気輸送を、そして白色の線は海からのプラスチックの大気輸送という流れを示している。具体的な事例を一つあげると、北極圏やアルプスの雪中からマイクロプラスチックが検出されている(Bergmann et al., 2019)。シーフードを通じた人体への還流に加えて大気を経由した経口暴露という経路も重要視されるようになっている。さらに、プラスチックが紫外線などによって劣化する過程でメタン・エタンなどの温室効果ガスが発生して地球温暖化を促進するとともに、微細プラスチック粒子が雲を形成する氷晶核となりうるとの研究もあり、将来的に人為的気候変動をもたらす可能性さえ指摘されている。プラスチック問題は今や、政治的境界に制約されることのない地球全体の懸念事項へと変貌している。
(3)海洋炭素循環と生物ポンプへの障害
海は地球上最大の炭素貯蔵庫であり、大気中に存在するCO₂の約50倍もの炭素(炭素換算)をストックしている。この貯蔵機能は「生物ポンプ」「溶解度ポンプ(化学ポンプ)」「アルカリ度ポンプ」という3つのメカニズムによって支えられている。
生物ポンプの重要性を考えるうえで、1980年代にアメリカのジョン・マーチン(モス・ランディング海洋研究所所長)が提唱した「鉄仮説」が示唆に富む。世界の海域の一部には、栄養塩(硝酸塩・リン酸塩など)は豊富なのに植物プランクトンが少ないという「HNLC海域(高栄養塩・低クロロフィル海域)」が存在する。南極海、アラスカ沿岸域、ペルー沖などがその代表例だ。マーチンはその原因を鉄分の不足に求め、「鉄をまけば植物プランクトンが増える」という鉄仮説を唱えた。マーチン自身は早世したが、その後継者たちが実際に南極海などで鉄散布実験を行い、仮説を実証した。
しかし生物ポンプの機能性において重要なのは、増殖した植物プランクトンがいかに中・深層へと沈降するかである。光合成によってCO₂をとり込んだ植物プランクトンが浅い海で枯死・分解すれば、CO₂はすぐに大気へ戻ってしまう。植物プランクトンの中・深層への沈降を担う主役はカイアシ類などの動物プランクトンであり、彼らが植物プランクトンを摂食して糞粒(フィーカルペレット)を排出し、それが中・深層へと速やかに沈降することで生物ポンプが機能したといえる。体長約3mmのカイアシ類は1日に20〜30個の糞粒を排出し、その沈降速度は毎日80〜150mに及ぶ。
マイクロプラスチックが生物ポンプに深刻な影響を与える可能性が示唆されている。Cole et al.(2016)の実験では、20.6μmのポリスチレン製マイクロプラスチック1,000個/mLを天然の餌(単細胞藻類)と混合してカイアシ類(Calanus helgolandicus)に摂食させたところ、糞粒の排泄量が有意に減少し(p<0.001)、沈降速度が2.25倍遅くなり、糞粒が砕けやすくなったことが報告されている。マイクロプラスチックによる生物ポンプへの障害は、海洋の炭素吸収能力に影響を与えうる重要な問題として今後のさらなる評価が求められる。
(4)プラスチック添加剤の毒性
プラスチックには生産過程で様々な添加剤が使用される。可塑剤(フタル酸エステル類など)、酸化防止剤(ノニルフェノール・ビスフェノールAなど)、紫外線吸収剤、難燃剤などがその代表であり、これら化学物質はプラスチック粒子と不可分に結びついている(表1)。国連環境計画(UNEP)の2023年の報告書によれば、プラスチックに含まれる化学物質3,200種以上について発がん性・生殖能力の低下・神経系の損傷などの有害特性が懸念される。酸化防止剤として使用されるノニルフェノールやビスフェノールAは女性ホルモン(エストロゲン)様の内分泌かく乱作用を持つ。可塑剤として塩化ビニル製品に広く使用されるジ(2-エチルヘキシル)フタレート(DEHP)は抗アンドロゲン作用を持ち、精子数の減少など生殖機能への影響が報告されており、欧州ではREACH規制によりDEHPを含む4種類のフタル酸エステルが厳しく規制されている。添加剤の毒性と健康リスクについては、4章で詳しく論じる。
2.「国際プラスチック条約」締結までの進捗状況
(1)交渉の経緯と主要争点
国際プラスチック条約(Global Plastics Treaty)は、2040年までにプラスチック汚染を根絶することを目的として、国連主導で策定が進められている法的拘束力のある国際条約となることが期待される。プラスチックの生産から廃棄に至る全ライフサイクルを規制し、循環型経済(サーキュラーエコノミー)への移行を促すことをめざしている。条約の成立には全会一致が原則とされているため、1カ国でも反対があれば合意は成立しない。
2022年の国連環境総会(UNEA)での決議採択以降、政府間交渉委員会(INC)において交渉が続けられてきた。INC-1(2022年11月、ウルグアイ)から始まり、INC-4(2024年4月、カナダ)、INC-5(2024年12月、韓国・釜山)を経て、INC-5.2(2025年8月、スイス)まで会合が重ねられてきたが、いまだ合意には至っていない。条約の内容での主要な争点は次の3点である。
第1に、プラスチックの生産量削減(第6条)である。新たな生産そのものを制限しようとするこの条項に対し、石油産出国や産業界が強く反対している。第2に、有害化学物質を含む製品の規制(第3条)である。プラスチックと一体化した添加剤の規制をめぐり、産油国などは「この問題は他の化学物質条約で対応すべき」と主張して対立が続いている。どの化学物質を有害とし規制対象とするかについても意見が割れている。そして第3に、途上国への資金援助・技術支援(第11条)であり、その枠組みについても合意が得られていない。
積極的な削減規制を求める欧州諸国・島嶼国・アフリカ諸国と、廃棄物管理の強化のみに注力すべきとする石油産出国・インド・ロシア・中国の対立は根深い。トランプ政権下のアメリカも経済優先の立場から規制に反対しており、2025年のINC5.2では交渉委員会で出された議長案は生産削減・有害化学物質の排除を盛り込んだものであるが、EUなどの猛反発もあって合意に至らなかった。日本は、できるだけ多くの国の参加を得られる条約をまとめたうえで条約制定後に内容を段階的に強化するという路線を採り、産油国などとの非公式協議を重ねている。
(2)科学による打開策——排出インベントリの構築
こうした交渉の膠着を科学の側から打開しようとする動きがある。Cottom et al.(2024)はNature誌に、排出メカニズムの数値モデルと測定可能な活動データを組み合わせた地球規模のプラスチック汚染排出インベントリ手法を発表し、各国・地域の排出量を定量的に可視化した(表2)。排出量上位国はインド(世界全体の約20%)、ナイジェリア、インドネシア、中国、ロシアとされている。この研究の立場は、生産量の削減よりもまず排出を「未然に防ぐこと」を条約の優先事項とすべきというものである。各国の排出実態を国際的に可視化するインベントリ体制を条約に組み込むことは、産油国を含むより多くの国々が参加しやすい現実的な合意形成の道筋となりうる。
3.論文レビュー「プラスチックごみと人の健康リスク」
筆者は2022年1月、技術顧問を務める三洋テクノマリン㈱から「海洋生物へのプラスチックの影響について文献レビューをしてほしい」との依頼を受けた。その作業の中で目に留まったのが、マイクロ・ナノプラスチックの哺乳動物体内における動態を整理した図(Lusher et al., 2017)である。そこには、ナノプラスチックが血液脳関門や胎盤関門をも越えて全身に到達しうるという知見が示されていた(図3)。これが契機となり、「プラスチックは人の健康リスク問題でもある」という認識のもと、2023年の定年退職後に人の健康リスクに関する論文レビューへと取り組むこととなった。その成果は日本冷凍空調学会誌「冷凍」に掲載されており(第1報:2024年4月、第2報:2025年7月)、現在第3報を準備中である。
(1)哺乳動物体内におけるマイクロ・ナノプラスチックの動態
Lusher et al.(2017)によれば、図3に示すように150μm以上の粒子は器官に吸収されないが、それより小さい粒子はリンパ管を経て静脈・循環器系に移行し、0.1μm未満のナノプラスチックは細胞膜を通過して血液脳関門や胎盤関門をも越えて全身の器官に到達しうると考えられている。いったん体内の循環系に入ったプラスチックは体外への排泄も困難であり、体内蓄積のリスクがある。人体の血液・胎盤・肺・大腸・動脈プラーク・脳など様々な部位からマイクロ・ナノプラスチックが検出されたとする論文が2021〜2023年にかけて相次いで発表され、社会的に大きな関心を呼んだ。
体内に侵入したマイクロ・ナノプラスチックが引き起こしうる毒性メカニズムとして、酸化ストレスと炎症反応が主要な経路として想定されている。人体の免疫系は自然免疫と獲得免疫の二重構造をなしており、異物(プラスチックを含む)が体内に侵入すると、まず自然免疫系のマクロファージ(貪食細胞)が活性化して炎症性サイトカイン(インターロイキン、TNF-αなど)を分泌する。この炎症反応が持続すると、抗酸化酵素が失活して活性酸素レベルが上昇し(酸化ストレス)、タンパク質変性・DNA損傷・脂質過酸化が引き起こされる。こうした一連のプロセスを経て、最終的に動脈硬化や心血管疾患(CVD)のリスクが高まるという経路が考えられている。Zhu et al.(2023)は過去10年間に発表された46報のin vivo・in vitro研究をレビューし、マイクロ・ナノプラスチックを「新たな心血管リスク因子」として位置づけている。心血管疾患は世界の死亡原因のトップ(日本では第2位)であり、その原因解明は公衆衛生上きわめて重要な意義を持つ。
(2)心血管疾患(CVD)との関連——科学論文Marfella et al.(2024)より
この分野で最も注目を集めた研究の一つが、イタリアのMarfella et al.(2024)による観察研究である。この研究は、これまでプラスチックと人の血管性病変や心血管疾患との間に関連性を示す臨床上のエビデンスが依然としてないことを受けて行われたものである。彼らは頸動脈狭窄症のため頸動脈内膜切除術を受けた患者257名を、頸動脈プラーク中にナノプラスチックが検出された群(150名)と検出されなかった群(107名)に分けて約3年間追跡した。両群の年齢・性別・BMI・血圧・既往歴・服用薬剤などのベースライン特性に大きな差はなかった。約34ヶ月間追跡した結果、後の時点で、プラスチック検出群では非検出群に比べて心筋梗塞・脳卒中・死亡の複合エンドポイントの発生率が統計的に有意に高かった(150名中30名(20.0%)対107名中8名(7.5%)、ハザード比4.53、95%CI 2.00–10.27、P<0.001)。また、炎症マーカー4種(インターロイキン-1β、TNF-α、インターロイキン-6、インターロイキン-18)はいずれもプラスチック検出群で有意に高値を示し、プラーク中のコラーゲン量やリンパ球・マクロファージの浸潤を示すマーカー(CD3、CD68)についてもプラスチック検出群で高い傾向が認められた。本論文はソーシャルメディアで6,000回以上シェアされ、学術誌上での引用数も急増するなど、大きな社会的インパクトを与えた。ただし、プラスチックと疾病との間の因果関係については分からない、PM2.5が原因物質であるかもしれない、と曖昧さが残された。
(3)可塑剤(DEHP)のCVDリスク
1章で述べた添加剤の健康リスクについても、この文脈で重要な知見が蓄積されている。Trasande et al.(2022)はアメリカ人を対象とした縦断的コホート研究において、DEHPの主要代謝産物への暴露量とCVDによる死亡リスクの定量的な関連を示した。DEHPは体内で加水分解されてモノ(2-エチルヘキシル)フタレート(MEHP)などに変換されたのち、細胞核内の受容体と反応して酸化ストレスを引き起こし、最終的にCVDに至るという経路が示されている。米国政府の調査に基づく推計では、フタル酸エステル由来のCVD超過死亡に伴う経済的損失は年間390〜470億ドル(約6〜7兆円)に及ぶとされている。また、フタル酸エステルへの暴露に起因するCVD死亡率と損失生存年数(YLL:早死によって失われた生存年数)の地球規模での推計を行った国際的研究(Hyman et a l2025)によれば、中東・南アジア・東アジア・太平洋地域での疾病負担が特に大きいことが示されている。
4.これまでの科学はプラスチック汚染根絶に向けた国際条約の政策に影響を与えられるか?
(1)健康リスク研究の方法論的限界
前章で紹介したMarfella et al.(2024)の論文は、当初「プラスチックが心血管疾患リスクを高める証拠が臨床的に示された」として条約交渉に影響を与えうると期待された。しかしこの論文を批判的に精査すると、いくつかの重大な問題点が浮かび上がる。
最大の問題は分析手法にある。本研究では熱分解ガスクロマトグラフィー(Py-GC/MS)によってプラスチックの定量が行われているが、この手法ではトリグリセリドのような脂肪を熱分解した際にポリエチレンと同一の分解産物が生成されるため、結果が過大評価されている可能性がある。実際、プラーク中でポリエチレンのみが突出して多く検出(プラーク1mg当たりポリエチレン平均21.7μg、ポリ塩化ビニル平均5.2μg)された点について、著者自身も論文内で不思議に思うと記している。脳組織から大量のポリエチレンを検出したNihart et al.(2025)についても同様の問題が指摘されており、その量はペットボトルのキャップ約4.5個分に相当するとされるが、脂肪の多い脳組織ではサンプルの前処理が不十分であれば、プラスチックでない物質による干渉が生じやすく、過大評価の可能性が高い。
さらに根本的な問題として、観察研究ではあくまで「相関」しか示せず、「因果関係」の証明には至っていない。著者ら自身もこの点を論文のディスカッションで認めており、交絡因子としてPM2.5などの大気汚染物質の影響を排除できていないことも指摘している。Xu et al.(2025)はNature誌に「マイクロプラスチックが本当に人体に有害かどうかを示すには、より厳格な科学研究が必要だ」と批判的な論評を掲載している。現時点では「マイクロプラスチックが有害」と断定できる科学的根拠は整っていない。
(2)PM2.5との関連——新たな研究の方向性
一方で、分析精度の向上は問題に新たな視点をもたらしている。Hu et al.(2026)が開発した200nmまでの粒子を識別できる高精度分析手法(EDXを備えたコンピュータ制御走査型電子顕微鏡システム)により、中国の大都市(広州・西安)の大気中から従来報告の数十〜数百倍に相当するマイクロ・ナノプラスチック(ここでは前者をMPs、後者をNPsと表記)が検出された(広州で約1.8×10⁵ MPs/m³、5.0×10⁴ NPs/m³)。この結果が示唆するのは、都市大気汚染の指標として広く用いられるPM2.5の中に、プラスチック粒子が相当量含まれている可能性である。PM2.5の長期暴露とCVDによる死亡率の増加については既に堅固な疫学的証拠が積み重なっており、米国心臓協会はPM2.5濃度が10μg/m³低下すると平均寿命が有意に延びるとのデータを政策声明に盛り込んでいる。東京都内でのディーゼル燃料使用規制後に心血管系疾患による死亡率が低下したとの報告(Yorifuji et al 2016)も存在する。もしマイクロ・ナノプラスチックがPM2.5の主要な構成成分であることが確認されれば、プラスチック削減と公衆衛生改善の関連性を示す強力なエビデンスとなりうる。大気環境モニタリングにおけるプラスチック成分の定量評価は今後の重要な研究課題である。
(3)添加剤規制に向けた科学研究の貢献と総括
添加剤の中でもとりわけ可塑剤(フタル酸エステル類など)の健康リスク研究については、3章で述べたとおり因果関係の証明がより進んでいる。フタル酸エステル類とCVD死亡リスクの定量的関連、および経済的損失の推計は、「有害化学物質の規制は別の条約で扱え」という主張に対して科学的根拠から反論する材料を提供するものとして、第3条の交渉において説得力をもつと考えられる。
以上を総合すると、科学研究が国際プラスチック条約の策定に影響を与えられるかという問いに対しては、「現状では限定的であるが、研究の方向性次第では可能」というのが率直な答えである。マイクロ・ナノプラスチック粒子の健康影響研究は分析手法の標準化(国際標準マニュアルの策定・前処理方法の統一化)と因果関係の証明という方法論上の課題を解決することが先決であり、添加剤の健康リスク研究と排出インベントリの精緻化がより直接的な政策的インパクトをもちうる。
おわりに
国際プラスチック条約の策定に向けた交渉が膠着する中、一つの現実的なシナリオとして、生産削減(第6条)については当面一定の妥協をしつつ、有害添加剤の代替化推進(第3条)と排出管理の徹底を先行させ、条約制定後に規制内容を段階的に強化していくという段階的アプローチが考えられる。バイオプラスチックや生分解性プラスチックへの転換研究も世界的に加速しており、科学技術の進展が条約内容の強化を後押しする好循環を生み出すことが期待される。
奥(2020)の言葉は示唆に富んでいる。すなわち、「科学と技術、大学と企業は地球環境への謙虚さを同時に改革する行動力を欠いてはならない。(中略)地球環境への取り組みとは、未来を見て過去の負債を継承する仕事、責任を取る経済が発動して環境問題が緩和するまで当事者が負い続ける“次世代への負債”だ」。国際プラスチック条約の策定には、厳格で客観性のある信頼できる科学研究が求められる。日本もまた、途上国への技術支援や環境教育・啓発活動を通じて、プラスチック汚染根絶に向けた国際的取り組みに積極的に貢献すべきである。筆者は、日本海洋教育学会での活動や海洋啓発書の出版を通じて、海の価値を広く社会に伝えながら、こうした課題に引き続き取り組んでいきたい。
(本稿は、2026年3月25日に開催した「ICUS懇談会」における発表を整理してまとめたものである。)
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