混迷深まる中東情勢とイスラエル(下)―ネタニヤフ氏の政治と戦争―

混迷深まる中東情勢とイスラエル(下)―ネタニヤフ氏の政治と戦争―

2026年5月30日
はじめに

 前回は、3次にわたるネタニヤフ政権のパレスチナ政策や外交政策の軌跡を眺めてきた。今回は、パレスチナ問題で強硬な政策を繰り返し、またイランとの対決姿勢を強めるネタニヤフ氏の政治家としての思想や信条、政治スタイルの特徴を分析、またそれがどのような環境の下で形成されてきたのかについて考えてみたい。

1.ネタニヤフのキャリア形成過程 

エリート軍人から米国留学

 パレスチナ問題に対し譲歩の姿勢を見せることなく強硬一本やりで通すネタニヤフという人物は、どのようなキャリアを積み重ねてきたのだろうか。まず彼の来歴を見てみたい(図表1参照)。ベンヤミン・ネタニヤフは1949年、父親ベン・ツィオン・ネタニヤフと母親ジラ・ネタニヤフ夫妻の次男としてテルアビブで生まれた。

 父親ベン・ツィオン・ネタニヤフはポーランド生まれの右派ユダヤ史学者で、コーネル大学の教授であった。シオニズム運動にも参画した経験を持つ(図表2参照)。父親の仕事の関係でネタニヤフは少年期、家族とともに米国に移り住み、ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で育った。そのため英語に非常に堪能である。

 高校ではディベートクラブに所属、高校卒業後は帰国してイスラエル国防軍に入隊し、エリートの精鋭部隊であるサイェレット・マトカルに所属、第3次、第4次の中東戦争に参加している。1973年に大尉で除隊したあと米国に戻り、マサチューセッツ工科大学やハーバード大学で工学や政治学を学んだ。大学を卒業するとボストン・コンサルティング・グループに勤務し、経営コンサルタントとして働いた後、再びイスラエルに帰国し、政治の世界へと身を移していく。

政界入り:イスラエル史上最年少の首相

 帰国後、ネタニヤフは外交官として1984年から1988年までイスラエルの国連大使を務め、「反テロ」キャンペーンを展開した。1988年に右派政党リクードから総選挙に出馬、国会議員に初当選を果たし、イツハーク・シャミル政権の外務副大臣に就任する。
 彼が政治家として最初に国際社会で注目を集めたのは、1991年10月、パレスチナ問題協議のため米国が呼びかけソ連やイスラエルも参加したマドリードでの中東平和会議だった。国会議員3年目のネタ二ヤフはイスラエル代表団の報道官としてこの会議に参加。堪能な英語力とジョークも交える巧みな弁論術で高い評価を得て頭角を現した。
 転機となったのは、翌1992年の総選挙である。カリスマ的な人気を誇ったイツハク・ラビンが率いる労働党の前に、シャミル首相の率いるリクードは大敗して野党に転落。シャミルは党首を辞任して政界を引退した。この機を捉えネタニヤフは同年のリクード党首選に出馬し、当選2回の議員でありながら、ベニー・ベギンらを破りリクードの党首になった。
 次いで96年、イスラエル初の首相公選で現職のペレスを破り、史上最年少の46歳、イスラエル建国後生まれとして初の首相に就任。現在、初代ベングリオン首相の13年を抜き首相として通産17年目を迎えている。国民からは『ビビ』の愛称で親しまれ、週末にはエルサレムの自宅近くの喫茶店で寛ぐこともあるという。
 ネタニヤフは、自身を「ミスターセキュリティ」と名乗っている。彼はイスラエル及びユダヤ人の生存や安全な生活を確保することが政治家にとって最も重要な使命であり、その実現のためにはガザの非武装化やハマスの殲滅、さらにヨルダン川西岸の入植地を拡大しパレスチナ人を排除する必要もあると考えている。ネタニヤフがそのような政治姿勢やパレスチナ人に対する敵対的な感情を固めていく経緯の中で、二人の家族の存在が大きく影響していた。一人は父親のベン・ツィオン・ネタニヤフ、もう一人は兄のヨナタン・ネタニヤフである。

2.ネタニヤフの思想的ルーツを探る

歴史学者の父から受けた影響

 彼の父親でコーネル大学の教授も務めたベン・ツィオン・ネタニヤフは中世スペインのユダヤ人史、特に異端尋問と迫害を研究する歴史学者であった。またシオニズム運動の右派指導者ゼエヴ・ジャボチンスキーの秘書を務めたこともあり、自身もシオニズム思想に傾斜した人物だった。1930年代には英国委任統治下のパレスチナで活動したが、過激な反英路線のため排除され、後に米国に亡命している。
 自らの歴史研究から得たベン・ツィオンの政治信条は、
 (1)ユダヤ人は常に外部社会から嫉妬と憎悪の対象とされてきた。また迫害は人間社会の構造的要素であり、「平和」や「共存」というものは一時の幻想に過ぎない。
 (2)それゆえ道徳よりも生存が優先されねばならず、国家は「倫理的理想」ではなく「民族の防衛機構」たるべきである。
 (3)敵が譲歩するのは妥協ではなく、力を恐れる時だけである(抑止の重要性)。
 つまりベン・ツィオン・ネタニヤフの思想は、「ユダヤ民族は永遠に包囲され、自己防衛こそが唯一の倫理である」という「防衛的シオニズム」(Defensive Zionism)」の信念の上に築かれている。その子ベンヤミン・ネタニヤフは、家庭内では父から常に「ユダヤ民族は孤立している。他の民族は我々を理解しない。だからこそ、われわれは自分の力で生き延びねばならない」との教えを受けて育ったと語っている。

兄からの影響:エンテべの英雄ヨナタンの弟

 もう一人、強い影響を受けたのが兄ヨナタン・ネタニヤフの生き様であった。ヨナタン・ネタニヤフ(通称ヨニ)は1946年生まれのイスラエル軍将校で、特殊部隊サイェレット・マトカルの指揮官であった(図表3参照)。

 ネタニヤフが米国の大学にいた1976年6月27日、エールフランス139便がPLO(パレスチナ解放機構)の一派「ブラック・セプテンバー(黒い9月)」にハイジャックされる事件が起きた。同機はアフリカ・ウガンダのエンテベ空港に着陸、ユダヤ人を含む多数の乗客が監禁された(エンテベ空港ハイジャック事件)。その後、他国の人質は解放されたが、103人のユダヤ人の拘束は続いた。
 この事態に対し、イスラエル国防軍はサイェレット・マトカルをウガンダに送り込み、7月3日から4日にかけて人質を助け出すための奇襲攻撃を実施した。エンテベ空港奇襲作戦(オペレーション・サンダーボルトあるいはオペレーション・エンテベ)と呼ばれる。特殊部隊サイェレット・マトカルが機内に強行突入し、ハイジャック犯7人を射殺、誤射でユダヤ人3人が死亡したが、他の多くの人質の救出に成功する(図表4参照)。

 兄のヨナタン・ネタニヤフは30歳の若さで中佐としてこの奇襲作戦でサイェレット・マトカルを指揮し、多くの人質を救い出したが、自身はウガンダ軍の攻撃を受け死亡。ヨナタン・ネタニヤフは同作戦に参加したイスラエル軍人のうち唯一人の死者であった。
 人質の解放に成功したエンテベ空港での作戦は、現代の特殊作戦史における代表的な事例となった。そして特殊部隊の指揮官であり、作戦の犠牲者となったネタニヤフ中佐は国民的英雄とされ、彼の名は作戦名や記念行事に残されることになった。また救出に関わった隊員たちや生存した人質の証言、作戦を題材にした書籍や映画も多数制作され、人質救出作戦の模範・教訓として世界に広く知られるようになった。
 エンテベ空港奇襲作戦は「絶望的な状況でもユダヤ民族が再び自らの手で同胞を救出する」という、ホロコースト後におけるユダヤ人の民族的誇りを取り戻す出来事として位置づけられ、ヨナタンの死は単に一軍人の英雄的犠牲行為というに留まらず、その殉職は宗教的・道徳的象徴をも帯び、「民族の神話」として現在まで生きている。テルアビブには「ヨナタン・ネタニヤフ広場」があり、国防軍の式典でも彼の名前が度々引用されている。
 こうした背景から、弟のベンヤミン・ネタニヤフには「民族的英雄ヨナタンの弟」というイメージが生まれた。彼自身も、兄が所属していたのと同じサイェレット・マトカルに勤務していた時期があり、実戦経験も持っている。兄と同じように「自分がユダヤ人を守るのだ」という強い意識を持つようになったネタニヤフは兄ヨナタンの死後、その遺志を継ぐ形で政治の世界で力を伸ばしていったのである。
 「兄は人質を救うために命を捧げた。私はイスラエル国民を守るために政治の最前線に立つ」
という自己語りが彼の演説の中でしばしば繰り返されてきたが、これはそのまま彼の政治哲学の基礎ともなった。

3.ネタニヤフの政治信条

二国家共存の否定

 ネタニヤフの政治意識は「父の歴史哲学+兄の殉職経験」によって形成されたといわれる。特に幼少期から父親の思想に感化されたネタニヤフは「イスラエルは中東唯一の民主主義国家として常に敵に囲まれて」おり、それゆれ「イスラエルの安全保障(包囲の打破)こそが最優先の政治目標」と考えるようになる。
 イスラエルの置かれた環境や政治課題をかように認識するようになった帰結として、「イスラエルはパレスチナと妥協することは出来ない」という「二国家共存」を否定的に捉える立場に行き着く。そもそもネタニヤフにとっては、パレスチナ自治政府の主流をなすPLO(パレスチナ解放機構)のファタハは兄の命を奪った仇のような存在である。エンテベ空港ハイジャック事件を引き起こした過激な秘密テロ組織ブラックセプテンバーを結成したのがファタハだったからだ。
 ネタニヤフ自身は否定しているが、彼の思考の背景には「パレスチナ人を殺害してもユダヤ国家を拡大するとの歪んだ信念があ」り、その一端はパレスチナ人を排除しての「ガザ再建開発計画」からも伺えるとの識者の指摘さえある。

ネタニヤフと大イスラエル主義

 イスラエルは、度々周囲のアラブ諸国から攻撃を受けた。またパレスチナの過激派勢力によるテロやハイジャック事件などで多くのユダヤ人が犠牲になった。かように周囲を敵に包囲されているイスラエルにおいては、ユダヤ民族の生存とイスラエル国家の存続を確保するという安全保障を最優先にした政治でなければならないという論理からは、パレスチナ人との共存の否定やその排除を目指すだけでなく、アラブ諸国の包囲を打ち破るための強力な軍事力を保持することが不可欠との認識も生まれる。首相に就任する3年前の1993年に出した著書『永続する平和:イスラエルとその国際社会における位置』の中でネタニヤフは、中東で持続し得る唯一の平和は和解ではなく、力による平和であると主張している。「攻撃こそが最大の防御」という発想であり、それは、「大イスラエル主義」と深く結び付くことになる。
 大イスラエル主義とは、現在のイスラエルの領土を超え、聖書や歴史に基づくとされる広大な範囲(約束の地)にわたってユダヤ人の主権を確立しようとする歴史的・宗教的背景を持つ思想である。ネタニヤフ首相は、2025年8月のインタビューなどで大イスラエル主義に基づく領土拡大構想への絶対的な支持を表明し、国際社会や近隣諸国から強い反発を招いた。
 旧約聖書(創世記など)に記された「約束の地」については、西はエジプトのナイル川から東はイラクのユーフラテス川までを含む広大な地域を指すとの解釈もあるが、現実的な政治文脈における大イスラエル主義とは、パレスチナ自治政府が将来の国家樹立を目指すヨルダン川西岸地区、ガザ地区、東エルサレム、さらにゴラン高原などをイスラエルの一部として恒久的に統治・併合する構想と理解されている。
 もともと大イスラエル主義は、ユダヤ人の国家建設運動であるシオニズムの一環として発展した。特に1920年代には、ネタニヤフの父が仕えたジャボチンスキーによって組織化された非主流派の修正シオニズムがこの考え方を重要視している。
 大イスラエル主義を支持し、ガザからのパレスチナ人排除と西岸の入植地拡大を通してユダヤ国家の領域拡大をめざすネタニヤフは、「強さが尊敬を生み、尊敬が平和をもたらす」という徹底した力の信奉者でもある。そして偉大なイスラエルの構築をめざす発想は、パレスチナ人や周辺アラブ諸国との共存を否定する意識と一体化する。

強硬なテロ対策論者

 ネタニヤフはパレスチナの独立に反対し、二国家共存に否定的だが、さらに民衆の支持を背景に自治政府内部で強い力を持つようになったハマスをテロリスト集団と捉え、その根絶を目指すようになる。
 兄ヨナタンの死も影響し、ネタニヤフはテロリストを憎む意識が非常に強く、兄の死後、彼は対テロリズムの研究機関Jonathan Institute(ヨナタン研究所)を開設(1979年)、ワシントンD.Cやニューヨーク、エルサレムに事務所を設け反テロ思想の国際シンポジウムなどを主宰し、「テロに対しては譲歩ではなく決意で臨むべきだ」という主張を展開した。
 そしてテロ対策を自らのライフワークとし、テロ対策に関する著作も著している。1997年に出版された『テロリズムとはこう戦え』は、国際テロリズムの現場で戦った経験を踏まえた実践的な対策が示されている。
 「テロリストに話し合いは通じない」、「交渉は無駄」、「断固として戦い抜いてこそ市民の安全は守られる」とするのがネタニヤフの対テロ作戦の基本的な考え方だが、この本の中で彼はさらに詳しく「テロ国家に核技術を提供する国に対し制裁を加える」「テロリストの囚人を釈放しない」「テロリズムと戦う特殊部隊を養成する」などテロ行為に備える10か条を挙げている。
 「テロリズムには決して屈せず、断固として立ち向かえ」というネタニヤフの教えは、イスラエルの対テロ政策とも共通している。歴代のイスラエル政府はテロリストの要求を認めず、人質が取られても解放のための交渉に応じず、積極的に軍事力を行使してテロリストを追い詰めてきた。この強い姿勢は、米国をはじめ他国にも「テロと戦うことは可能だ」という意識を広げたと言われている。

ハマス殲滅を唱えるハマス支援者?

 かようにテロとの闘いを生涯の目標に据え、自らを“イスラエルの守護神”とみなすなど国防やテロ対策を重視し、「強い指導者」を演出してきたネタニヤフであるが、その反面、意外にもハマスを「温存」させた張本人との批判も浴びている。イスラエルの主要紙「ハアレツ」は、ネタニヤフは23年10月にハマスによる奇襲攻撃を受ける以前は、ハマスと奇妙な「同盟関係」にあったと報じている。
 ネタニヤフは、ファタハとハマスの対立を利用してパレスチナ自治政府の分断弱体化を図ろうと画策、ガザを支配するハマスの伸長を見過ごし、ヨルダン川西岸を支配するパレスチナ自治政府との対立を後押ししてきたというのだ。双方の分断が続けば、思惑通りパレスチナ国家の樹立が遠のくためだ。それゆえ敢えてハマスの存在を容認し、ハマス幹部への攻撃を回避した。政権発足の際の演説では「治安の回復」を掲げながら、ハマスには一言も触れていなかった。
 2023年10月にイスラエルがハマスの越境攻撃を許した背景には、少なくとも二つの「失敗」があったといわれる。一つは、ネタニヤフ首相がこれまでハマス幹部を暗殺する機会を何度も見送ってきたことだ。イスラエルの治安当局は、攻撃を首謀したとされる当時のハマス最高幹部、ヤヒヤ・シンワル氏らを以前から「排除すべきだ」と主張していた。
 だがネタニヤフ首相は殺害の決行を決断しなかった。18年11月にハマスとの衝突が起きた際、当時の国防相は「48時間以内にシンワルを殺害すべきだ。さもなくば国防相を辞任する」と迫ったが、ネタニヤフ首相は応じなかった。ネタニヤフ首相は「静けさには静けさを(quiet for quiet)」と呼ばれる方針を続け、ハマスがイスラエルを攻撃しないなら、こちらもハマスを攻撃しない、という姿勢を保った。
 いま一つの失敗は、ハマスが大規模な武装蜂起に出ることはないと思い込んでいたことだ。ハマスによる越境奇襲攻撃が起きた直後の2023年10月末、ネタニヤフ首相はSNSに「(諜報機関の報告で)ハマスは抑止されていると信じていた」と書き込みをしている。しかし、この弁明が国民から強い批判を浴びた。その後、彼はシンワル氏の殺害を命じている。
 こうした経緯から、ネタニヤフには「ハマスを育てた男」との批判もある。ネタニヤフは強硬な対テロ論者であると同時に強かな政治家でもあり、パレスチナ自治政府の足並みを乱すハマスを半ば黙認し、その存在を巧みに利用してきた面も持ち合わせていたのだ。
 さらに2023年10月7日のハマスによる奇襲攻撃を事前に把握していながら、政治目的のために「敢えて黙認した」とする説まで呈されている。イスラエルの軍情報部アマンや国内治安機関シンベト、さらに監視兵による現場警告やエジプト情報機関からの警告など各方面からハマスによる奇襲攻撃の事前警告がなされていたこと、それにも拘らず事件発生後の軍や警察の初動対応が信じられない程に遅かったこと、さらにハマスの奇襲攻撃で大きな犠牲が生じた結果、ハマス殲滅という政権存続の大義名分を得るとともに、ネタニヤフ首相が進めていた司法改革への批判が消え、自らの政権崩壊を回避することが出来たことなどが黙認説の根拠に挙げられる。
 しかし、莫大な被害の黙認は自殺行為であり、ネタニヤフ首相にとっては致命傷となる。実際ネタニヤフはこの事件を防げなかったことで国民的信頼を大きく失い、責任追及は不可避となっている。そもそも1200人が殺害され250人を超える人々が拉致、人質にされるという膨大な被害の規模は「口実作り」の域を遙かに超えており、ネタニヤフがハマスの行動を意図的に黙認する動機とはなり難い。
 悲劇的な事件を生んだのは、イスラエルの軍・情報機関相互の複雑な多層構造やハマスに対する抑止は効いており、大規模な戦争は起こらないというネタニヤフ首相の戦略的な思い込みが原因であった。結果的に、ネタニヤフ首相は10月7日の奇襲攻撃を政権の維持延命に「利用した」格好にはなったが、それを「意図的に招いた」と見做すのはあまりにも穿った捉え方であり無理筋だ。とはいえ、この悲惨な事件を回避できなかった重い政治責任からネタニヤフが逃れることは出来ないのである。

4.弟の名声を政治資源に活かすネタニヤフ

 父親の思想や兄の生き様から強い影響を受けたネタニヤフは、イスラエルが包囲圧迫され続けているとの現状認識の下、それを打ち破るべく大イスラエル主義やパレスチナ住民との二国家共存を否定、さらにテロを徹底的に取り締まるといった政治信条を形成していった。
 しかし、ネタニヤフはたんに肉親の教えの忠実な擁護者というだけではない。彼が肉親、特に兄の神話を貴重な政治資源として自身のアピールや宣伝にフルに利用してきた面も否定できない。ネタニヤフには、現代イスラエルにおける「ヨニの弟」というイメージが付きまとってきた。最近の若年層にとってエンテベ作戦は遠い歴史教科書の一章でしかなく、「ヨナタンの弟」というフレーズを知らない人も増えている。
 だが、年長世代では依然としてこうしたイメージが強い。1970〜80年代を体験した世代にとって「ヨニ=イスラエル精神の象徴」であり、ネタニヤフはその“英雄の弟”としての道徳的正統性を帯びている。特にリクードの支持層や保守派では、ネタニヤフの強硬姿勢を「兄の遺志を継ぐ者の責務」とみなす傾向が強い。
 兄の死を契機に、ネタニヤフには「英雄の弟」という高い評価がついた。ネタニヤフはそれを自らの政治活動で活かしてきた。例えば2014年のガザ戦争中の演説において、ネタニヤフは「我々は再び“エンテベの精神”で戦っている」と述べたが、選挙や政治的な危機の際、彼はしばしば兄の名を引用している。
 “英雄ヨニの弟”という物語は、ネタニヤフが進める強硬なパレスチナ政策を正当化する根拠に利用され、時に道徳的免罪符としても用いられてきた。そうすることによってネタニヤフは、自国の安全保障に不安を抱き「強いリーダー」を待望するイスラエル国民の期待に応え、かつ自らの政権を誕生させることに成功したといえる。肉親の思想や行動に感化され、その教えに忠実に従うだけでなく、それらを貴重な資源として巧みに政治活動に用いた政治家ネタニヤフの一面である。

5.ネタニヤフVSシャロン

 イスラエル右派の中心的治指導者として、ネタニヤフと並んでシャロンの名を挙げることが出来る(図表5参照)。アリエル・シャロンは軍人出身で、第3次中東戦争と第4次中東戦争で活躍し、国民的人気が高かった。それを活かしリクードから出馬して国会議員に当選、以後、ベギン政権の国防相やリクードの党首などを経て2001年から2006年にかけてイスラエルの首相を務めた人物。リクード党首時代の2000年9月、エルサレムにあるイスラーム教の聖域である神殿の丘に立ち入りパレスチナ側の激しい反発を招き、第2次インティファーダを呼び起こしたことでも有名だ。この事件はオスロ合意で形成されたパレスチナ和平の流れを打ち消し、対立を激化させる引き金ともなった。

 二人はともに対パレスチナ強硬派で大イスラエル主義者であるが、ライバルから敵対する関係になっていった。そこでシャロンとの政治姿勢や治績を比較することによって、政治家ネタニヤフの特徴を浮かび上がらせてみたい。
 右派同士の二人の関係が悪化し、ライバルから敵対、対立する契機となったのはシャロン首相によるガザの放棄であった。
 同じ右派であるネタニヤフがリクード内で台頭すると、それに対抗するためシャロンはロードマップによる和平推進に立場を変え、イスラエル首相として初めてパレスチナ国家の存在を容認、さらにシャロン首相は2004年2月にガザ地区からの撤退計画を発表し、同年8月から9月にかけて計画を実行に移した。その結果、ガザからイスラエル軍が全面撤退したうえで全ユダヤ人入植者約8000人も退去し、入植地は放棄されることになった。
 かねてよりパレスチナに融和的だった労働党はこの計画を支持した。パレスチナ人による一向に終わりを見せないインティファーダや自爆テロ攻撃によって厭戦気分が高まっていたイスラエル国内の世論も総じてシャロンの計画に好意的だった。シャロンとは首相就任以前から親密な間柄であったブッシュ米大統領も歓迎の意を示し、2004年4月に行われた首脳会談では、イスラエルへの全面的な支持が確認された。
 かように国内外からの支持獲得に成功したシャロンだったが、自身が党首をつとめる右派政党リクードの反応は違っていた。旧約聖書に基づく領土拡張を党是とするリクードにとって、シャロンの行動は裏切り以外の何物でもなかった。シャロンは撤退計画を党員投票にかけ、党内の信任を得た上で国会での採決に持ち込む構えだったが、その目論見は砕かれた。特にシャロンのライバルであるネタニヤフ元首相はシャロンの多数派工作を公然と拒否する態度に出た。
 それでも05年8月7日、撤退計画が最終的に閣議決定された。閣議では17人の閣僚が賛成したが、ネタニヤフを含む5人が反対に回った。ネタニヤフは閣議後、財務相を辞任しシャロン政権の倒閣に乗り出すことになる。一方、計画の実行に漕ぎ着けたうえでシャロンはリクードを去り、中道の新党カディマを結成する。
 シャロン首相が自らの政党リクードを割ってでもガザからの撤退を断行した理由、それは、「ガザは保持してもイスラエル国家にとって害になるだけ」と判断したからだ。シャロンにとってガザは「保持すれば必ずユダヤ国家の人口的・統治的破綻を招く土地」でしかなく、放棄すべきものと映ったのだ。
 具体的にシャロンの判断を見ていこう。まずシャロンがガザ放棄を決断した最大の理由は、人口構造が致命的に不利であったことによる。ガザの面積は小さく、人口密度は極端に高い(「土地1に対して人口10」)。ほぼ全員がパレスチナ人でユダヤ人入植者は約8,000人と少数派だ。そのうえガザには難民キャンプが集中しており、失業率も高く、イスラエルへの敵意は非常に強い。
 そのような入植地を守るためには数千人のイスラエル軍兵士や装甲部隊が常時警戒する必要があり、軍事・治安コストが非常に割高になるとシャロンは判断した。「8000人の入植者のために150万人(当時のガザの推定人口)の敵対住民」と事を構えることの非合理さを問題視したのだ。シャロンの言葉を借りれば「ガザは敵を増やす工場であり、国家の資産にはならない」ということになる。
 これに対しヨルダン川西岸は面積が広い。パレスチナ人は多いが分散しており、ユダヤ人入植地の広域展開が可能だ。また西岸は高地で、エルサレム周辺の戦略縦深の確保にも好都合である。さらに水資源(山岳帯地下水)の存在や、聖書の舞台であり歴史的民族的な象徴性もある。それゆえシャロンは西岸は確保したが、大イスラエル主義を一部放棄してでも国家国益を守り抜くためにガザを捨てたのだ。
 一方、ネタニヤフは終始ガザの放棄に強く反対したが、その後、自らが政権を担当するようになっても、大イスラエル主義者でありながら、混乱を恐れガザへの入植を再開させようとはせず、シャロンの政策を追従するだけに終わっている。ネタニヤフが政権の維持と安定的な運営を図るためガザの再占領を回避した結果、ハマスの強固な支配を許し、周期的に大規模な紛争を繰り返す事態を容認することになった。
 ネタニヤフから見れば、パレスチナ国家の存在を認め、さらにガザを放棄するシャロンは右派の理念を裏切り、リクードの支持基盤を壊した指導者となるが、シャロンから見れば、ネタニヤフは自らの政権維持を優先し、決断を避ける指導者と映る。二人の右派指導者を比べると、「決断力の政治家シャロン」に対し、ネタニヤフは原理原則を頑なに掲げながらも時々の状況に巧みに対応する「柔軟な政治家」と捉えることが出来よう。

6.連立政権とネタニヤフ:イスラエル政治の多党化構造

 ネタニヤフ政権は極右勢力との連立政権である。だからと言ってネタニヤフ自身が極右の思想に共鳴しているというわけでは必ずしもない。極右との連立は多党化というイスラエルの政治的な事情によるところが大きい。
 イスラエルの政治はもともと「多党制」で、ひとつの政党が議会(クネセット120議席)で単独過半数(61議席)を占めることは難しいのが実情だ。ネタニヤフのリクード党(右派・世俗保守)はこれまで選挙ごとに概ね25〜30%台の得票を確保してきたが、過半数を得るには他の政党の協力を仰ぎ、連立を組む必要がある。つまりネタニヤフの支持基盤が狭いというよりも、政治が細分化しているため他党に協力を仰ぎ連立を苦むことでしか政権を安定させられないのだ。
 また「安全保障」への希求や「敵対勢力への不信感」がイスラエルで高まるなか、冷戦終焉当時とは違い、穏健左派の“対話路線”が国民の支持を失い、社会の多数派が保守・右傾化している。そのため連立を組む相手は、保守的な超正統派宗教政党(シャス党、統一トーラー・ユダヤ連合など)や極右民族主義政党(宗教シオニズム党、ユダヤの力(オツマイェフディット)党など)に絞られてしまうのだ。
 2022年の総選挙でも、ネタニヤフは極右のユダヤの力党と宗教シオニズム党と手を組み連立政権を樹立した。総選挙直後の議席数を見てみると、親ネタニヤフ勢力=連立与党は64議席。反ネタニヤフ勢力+アラブ系政党=野党は56議席。連立与党と野党の差はわずか8議席に過ぎない。この勢力図では、極右政党が離脱すれば連立政権は崩壊し、ネタニヤフ首相は失脚してしまう。
 こういった事情から、ネタニヤフ首相は連立を組む極右政党に配慮する必要がある。ネタニヤフ政権に参画している二つの極右政党は、ハマスとの戦闘継続を強硬に求めている。両党はガザ占領を訴え、トランプ米大統領ら仲介者が目標とする「イスラエル軍のガザ撤退」に抵抗してきた。また連立政権を組んでいる顔ぶれには、ユダヤ教の戒律を重んじる「ユダヤ教超正統派」政党(シャス党と統一トーラー・ユダヤ連合)もあり、ネタニヤフ首相はこちらへの対応にも配慮せねばならない苦しい立場にある。
 しかし、ネタニヤフ自身は極右の政治家ではなければ、宗教保守でもない。連立の維持に腐心しつつも、実際の政策決定にあたって彼は現実的な判断と対応を見せている。老獪な政治家ネタニヤフは「連立政党の支持を得なければ政権を取れない」ことを自覚しつつも、右派や宗教保守政党の意向にすべて従うわけではなく、国際世論の反響や米国の意向も踏まえつつ、現実主義者の立場から常に政策のバランスを取ろうとしている。連立を組む相手の政党に不満は生じるが、それでも連立からの離脱は阻止できる、そのギリギリの線を探りつつ政治を動かしているのだ。

7.政治家ネタニヤフの実像

 これまでの分析を纏めるならば、ネタニヤフは二国家共存の否定論者であり、大イスラエル主義の信奉者でもある。ただ実際の政策遂行にあたっては、国内外の様々な動きを踏まえその時々の状況に即して柔軟な対応を見せることも多く、単なる理念先行型の政治家ではない。また極右や宗教保守の支持と力を政局運営に利用するが、連立相手の主張に常に同調したり、それに引き摺られるわけではない。
 さらに国際社会から強い批判を浴びてもハマスに対する攻撃の手を緩めず、また西岸入植地の拡大を続ける一方で、アブラハム合意の枠組みに基づきアラブ諸国との関係改善や和平にも取り組むとともに、孤立化を避けるため米国との良好な関係の維持に腐心するなどタカ派ではあってもバランス感覚には優れている。
 特にイスラエルを支持するトランプ政権の存在が、ネタニヤフの長期政権を支える大きな力となっている。イスラエルが自国の安全保障を確保するためには、米国の力が必要不可欠だが、ネタニヤフ首相はただ米国に追随したり、支援や協力を米国に求めるだけでない。ネタニヤフ首相はその巧みな弁論術を活かしトランプ大統領に働きかけ、両国の利害の一致をアピールすることで、イスラエルのめざす政策実現のために米国の力を取り込み、利用することにも成功している。イスラエル最大の敵であるイランの脅威を取り除くため、ネタニヤフ首相はトランプ大統領を説得し、二度にわたり両国連携の下、イランへの大規模な軍事攻撃を実現させたのである。
 通算して歴代最長の政権を維持し、パレスチナ政策に対する強圧的な姿勢や相次ぎ戦争を重ねるなどネタニヤフ首相には独裁者のイメージが付きまとう。しかし独裁者という程の強権的な政治支配を行っているわけではない。先述したように、彼は安定した政権運営を可能とするため、政治的な妥協を重ね様々な立場や勢力と巧みな協力関係を築く柔軟で現実主義的な政治家なのである。

8.ネタニヤフの戦争

 もっとも政治手法に見せる柔軟性の裏面として、表向きの政治的主張と実際の思惑との乖離を指摘する声もある。先に触れたように、対峙するハマスを実は密かに利用してきたとの批判もその一つだが、ネタニヤフ首相は支持率向上や政権延命のために戦争をも利用しているのではないかとの疑義も呈されている。国益よりも自らの政権の存続を優先させ、不必要に危機を煽り戦争を仕掛け、戦いを継続させているのではないかとの疑いだ。
 2025年3月18日、イスラエル軍はガザ地区を攻撃したが、当日はネタニヤフ首相の贈賄疑惑の査問会が開かれる日でもあった。ネタニヤフ首相は査問会の開催をうやむやにし、自身の疑惑に世論の関心が集まらぬようにするため、わざとその日に大規模攻撃を仕掛けたといわれている。
 またネタニヤフ首相はハマスとの停戦交渉が纏まりかけると、その都度話し合いの流れを壊してきた。25年9月に入り「人質全員の解放とイスラエル軍のガザ撤退」を柱とする米国の提案に基づき和平合意が近づいた時、ネタニヤフ首相は突如イスラエル軍に交渉仲介役のカタール攻撃を命じた。
 そのため交渉の先行きは全く不透明になってしまった。首相のこうした言動の背景には「戦争継続こそが政権存続のカギ」(ベイルート筋)という思惑があるからだといわれる。ネタニヤフ首相は個人的な事情で軍を動かしていると、彼に白い目を向ける国民もいる。
 戦争の継続だけでなく、軍事的な勝利を得ることも支持率の向上や政権の維持にプラスに働くことを彼は意識している。2023年10月のハマスによる奇襲攻撃を許したことで、ネタニヤフ首相はその責任を厳しく問われ、政権支持率も急落した。以後、長期にわたるハマスとの戦闘でイスラエル軍は前線部隊の兵員が不足し、国民も長引く戦争に嫌気がさし兵役拒否も相次いだ。ところが2025年6月、イランに対する攻撃に踏み切り宿敵イランを弱体化させたことで、支持率が回復することになった。
 戦争が長引けば非常事態ということで政権の延命を図ることができ、さらに有利な戦況を作り出せば、自身の政権支持率を上向かせることにも繋がる。ネタニヤフ首相は今年2月、イランの政情不安定を突いて再度イランに攻撃を仕掛け、核・ミサイル開発能力を潰すだけでなく、イランの体制そのものの崩壊をも狙った。
 本格的な戦争が始まれば非常事態として政権運営のフリーハンドが手に入る。しかもイランの脅威を完全に取り除くことに成功すれば支持率はさらに高まり、今秋に予定されている総選挙での勝利は確実で、政権のさらなる延長に道が開けるばかりか訴追される危険からも免れる。二度目のイラン攻撃を決断した際、そのような計算がネタニヤフ首相の脳裏を横切った可能性はゼロと言い切れないのではないか。
 その後、4月8日になって米・イスラエルとイランの停戦合意が成立した。だがネタニヤフ首相は、高濃縮ウランをイランから撤去し、同国の核濃縮能力を解体することが「最重要の目標だ」と述べ、仮に停戦合意が破綻した場合にはイラン攻撃の再開も辞さない構えを示している。一方、ガザ紛争の和平合意は成立したが、ハマスの完全武装解除が実現しない場合、同様の思惑から、第二段階への移行が進まないことを口実に、ネタニヤフ首相がハマスへの本格的な攻撃を再開させるケースも考えられる。
 現在、イランがホルムズ海峡を事実上閉鎖したことで、石油の供給がストップしただけでなく、ペルシャ湾の安全航行確保の在り方を巡り米欧が激しく対立することにもなった。ネタニヤフ首相が米国を誘って始めたイラン戦争は当時国や中東地域への影響に留まらず、世界全体の経済を混乱に追い込む事態となった。“ネタニヤフの戦争”が国際政治や世界経済に与えた打撃の大きさは、ネタニヤフ自身のみならずイスラエルに対する国際的な評価に跳ね返ることにもなろう。

9.長期政権が招いた汚職 慢心の弊害

 ネタニヤフ首相には、腐敗汚職の影が強まっている。長期政権による驕りである。ネタニヤフの慢心が強まったのは2015年の選挙で圧勝した時だった。予想外の大勝を収めたために、自分のことを「選ばれし者」と信じるようになった。しかし“好事魔多し”の格言通り、前々から噂のあった背任罪や贈収賄、詐欺罪での刑事捜査がこの頃から本格化する。そして、ネタニヤフ自身が任命した司法長官が2019年に3つの事件で彼を起訴した。ネタニヤフは、在任中に刑事起訴された初のイスラエル首相となったのだ。
 24年12月10日、この日はイスラエルにとって注目すべき日となった。首相在任期間の最長記録を誇るネタニヤフが、刑事裁判の被告として証言台に立つ初の現職首相となったからだ。ネタニヤフはこの日を、ガザでハマスとの戦争を続け、またシリアへの攻撃を行うなかで迎えた。
 ネタニヤフに対する汚職事件の取り調べ映像や彼をよく知る人物たちへのインタビュー、パレスチナ自治区ガザの戦闘を題材にしたドキュメンタリー映画「ネタニヤフ調書 汚職と戦争」が日本でも公開され、話題になったのは記憶に新しい。映画の中での、取り調べに対するネタニヤフの傲慢な姿勢が印象的である(図表6参照)。

 ネタニヤフ首相の弁護人を務めるアミット・ハダッド氏は弁論の中で、同首相に対する汚職裁判は偏向していると批判。ネタニヤフ首相は政治的な魔女狩りの犠牲者だと述べた。
 その一方、ネタニヤフはガザでのハマスとの戦闘を長引かせ、自らの裁判日程を遅らせようとしたほか、25年12月にはヘルツォグ大統領に恩赦を請求した。訴追が自身の統治能力を妨げており、恩赦がイスラエルにとって利益になると彼は主張している。
 ネタニヤフ首相は所属する与党リクードが発表した動画の中で「国の利益を願う全ての人が、この措置を支持してくれることを期待している」と語った。繰り返し選挙に勝利してきたことで国民の信任を得ているとも強調した。イスラエルでは通常、有罪が確定した後にのみ恩赦が認められる。しかしネタニヤフの弁護団は、公共の利益が危機に瀕している場合、大統領は国民の分断を修復し、国家の結束を強化するために例外的な措置として恩赦を求めることが出来ると主張している。
 トランプ米大統領は、「戦時下で決断力のある首相として、イスラエルを平和の時代へと導いているネタニヤフ氏に完全な恩赦を与えるよう要求する」とヘルツォグ大統領にネタニヤフ首相の恩赦を求める書簡を送っている。
 今年4月、イランとの紛争で発令された緊急事態制限が解除されたことを受け、一時中断していたネタニヤフ首相の裁判が再開された。またヘルツォグ大統領は弁護団と検察を自宅に招き、同首相の恩赦について話し合う予定だと発表した。今後の裁判の行方が注目される。

10.イスラエルの今後

 最後に、イスラエルの今後、ポストネタニヤフについても触れておきたい。次の首相選挙は2026年10月までに行われる予定だが、対イラン情勢やガザでの戦闘が完全に終結を見ないなど不安定な状態が続いている場合には、ネタニヤフ首相のさらなる再選も十分に考えられる。汚職裁判の行方も影響するが、判決まであと数年かかる可能性もある。
 イスラエルの「基本法(憲法に相当)」では、一般閣僚の場合には起訴されただけで辞任が求められるが、首相については起訴されても続投が可能で、有罪判決が確定し、かつ「道徳的瑕疵」が認定された場合にのみ失職すると定められている。つまり、「起訴されても」首相は「有罪判決が確定するまで」辞任義務がないのだ。
 2023年10月のハマスによる大規模テロ攻撃を受けてネタニヤフ首相の支持率は大きく低下したが、その後イランへの大規模攻撃やハマスやヒズボラを弱体化させた成果が評価され、支持率は回復。さらにトランプ大統領の仲介による停戦で、生き残った人質と遺体が返還された。その後も停戦は辛うじて維持されており、次回の選挙ではリクードの優勢が伝えられた。そのためかネタニヤフ自身も昨年10月19日、イスラエルの放送に出演し、「再任の意思があるか」との質問に「そうだ」と答え、また「勝利すると予想するか」という追加質問にも同意し、出馬の意欲を仄めかし再選への自信を示している。
 ただ、昨年の「12日戦争」とは違い、今年2月に始まったイランとの戦争は長期化し停戦のめどは立たず、そのうえイランの反撃を受けイスラエルにも大きな被害が出ている。そのため攻撃開始当時に比べ、ネタニヤフ政権に対するイスラエル国民の支持率は低下気味だ。
 仮にネタニヤフ首相が再度再選された場合には、パレスチナ問題の平和的解決は今後も期待薄となろう。イスラエルのラビン首相が1995年11月4日、テルアビブで暗殺された事件から既に30年が経過した。パレスチナ自治区ガザの衝突を機に中東の混迷が深まるなか、「いまもラビンが生きていれば」と残念がるイスラエル国民は多い。だが労働党は力を無くし、支持率も大きく低下している。そのため次期首相選挙でも右派の候補者同士が選挙戦を戦う構図になる可能性が高く、仮に再選を果たせずネタニヤフ政権が終わった場合も、彼の政治路線や対決姿勢の強い政策は今後も大きく変わることはないと思われる。
 現在、ネタニヤフを除く右派の首相後継の最有力候補として元国防軍参謀総長のベニー・ガンツの名が挙がる。「イスラエル回復党」に所属する彼は中道に近く、ハマスを批判しつつも二国家共存解決に柔軟な姿勢を見せている。イスラエルは国民皆兵のため、戦闘が続けば国民の多くはこれからも兵士として前線に送られるため、市民レベルでは厭戦ムードが今よりも高まるであろうから、仮にネタニヤフが敗北しガンツ政権になった場合、より穏健な路線に軌道修正される可能性はある。だがガンツにはネタニヤフほどのカリスマ性や求心力はなく、右派を一つに取り纏められず、分裂する可能性もある。そうなれば政策の合意形成が難しくなりネタニヤフ政権ほど一貫した路線は取りにくくなることも予想される。
 そうしたなか、ネタニヤフの政敵であるイスラエル右派のベネット元首相と最大野党イェシュ・アティッド党首で中道のラピド前首相が4月26日、ネタニヤフ首相の続投阻止を狙い、新党を結成し総選挙に出馬する意向を表明した。新党の名前は「ベヤハド(共に)」で、ベネットが党首を務め、ハマスによるイスラエル奇襲の責任を追及する調査委員会の設置を公約に掲げている。戦争の長期化やネタニヤフ政権がイラン、ヒズボラの軍事能力を未だ完全に無力化できていないことへの市民の批判から新党への支持が高まれば、ネタニヤフ首相の求心力が低下する可能性もある。またネタニヤフ首相は今年4月、前立腺がんが見つかったことを明らかにした。治療は成功したとしているが、23年7月に心臓にペースメーカーを装着しており、健康問題も懸念材料だ。

11.イスラエル建国の理想は何処に

 イスラエルが建国した際、テルアビブでダヴィド・ベン・グリオンらによって「国家設立宣言」が読み上げられた。1948年5月14日のことである。その核心部分には次のように書かれている
 「イスラエル国は、自由、正義および平和の原理に基づく国家として建設される。この国は、宗教、民族、性別にかかわらず、すべての住民に完全な社会的および政治的平等を保証する。また、信仰、良心、言語、教育および文化の自由を確保する。イスラエル国は、国連憲章の原則に忠実であり、アラブの隣人に平和と善隣の関係を求める。この国は、近隣諸国と協力して、全中東の発展と繁栄のために努力するであろう」
 つまり、イスラエルは当初から「ユダヤ国家」であると同時に、民主的で多民族・多宗教の国家として構想されていた。当時、イスラエルの人口の約20%はアラブ系であり、その人々にも平等な権利を与えることが宣言されたのだ。
 しかし、アインシュタインはイスラエル建国を支持しつつも強い警戒心をもっていた。彼の書簡や声明(1948年〜1955年)には、
 「アラブ人に対するイスラエルの自由の保証が、イスラエルの道徳的基準を試す試金石になる」「ユダヤ国家が軍事主義やナショナリズムに堕すことを恐れる」「われわれが迫害の被害者であったからといって、他者を迫害する権利はない」といった趣旨が繰り返し出てくる。そしてアインシュタインの危惧したように、建国当初の理念や理想はその後の80年近くで後退していった。
 1948年の第1次中東戦争勃発以後、イスラエルとパレスチナの関係は「対等な共存」から「民族的分離・対立」へと転じ、以降の歴史では、理想よりも「生存と安全保障」が国家政策の最上位目標になった。また宗教的ナショナリズム(メシア主義)も台頭した。1970年代以降、「神がこの土地をイスラエル民族に約束した」という宗教的シオニズムが力を持ち、西岸入植を「宗教的義務」と考える流れが政治に影響を与えた。これがリクード党や宗教右派に吸収され、現在の大イスラエル主義につながった。
 さらに 1990年代のオスロ合意の挫折(ラビン首相暗殺、第2次インティファーダ)によって、「和平は幻想だった」という感情がイスラエル社会に広がり、平和運動・左派(労働党など)が急速に衰退。この結果、「安全保障のための強硬策」が多数派の主張となる。周辺アラブ諸国との関係改善が進み、またシリア・イラク等外敵の脅威は減少したが、逆にガザを支配するハマスの脅威が拡大したことで、「パレスチナ人・アラブ系市民」に対し“内なる敵”という視線が向けられ、民族主義的排他感情が高まることにもなった。
 イスラエルは民主主義国であり、アラブ系市民も形式上の市民権を持つが、土地所有や行政参加で格差が残る。また2018年に制定された「ユダヤ国家法(Nation-State Law)」は「ユダヤ民族の自己決定の権利はユダヤ人にのみ属する」と明記し、建国宣言の「平等の原則」と明確に衝突。イスラエル最高裁はこれを合法としたが、リベラル派・人権団体からは「建国理念への裏切り」と批判が出るなど建国宣言の理念が問い直されている。
 いま多くの市民は「二国家解決」への信頼を失っている。1990年代オスロ合意期には約60%が「二国家解決」に賛成だったが、ガザ撤退(2005)→ハマス掌握(2007)→度重なる紛争を経て、パレスチナ側に和平の意思が無い”という認識が広まり、2020年代には「二国家解決を現実的と思う」イスラエル人は 30%前後にまで減少している。ハマスによる大規模なテロの発生で、二国家共存への支持と理解はさらに落ち込んでしまったのだ。
 テルアビブ大学が今年3月にイスラエルで実施した世論調査によると、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治政府との交渉を支持すると答えたのは26%、交渉を通じて今後数年以内に和平が実現するという回答は僅か13%であった。メディアはともすればネタニヤフ首相のパレスチナ問題での強硬な政治姿勢を批判するが、冷戦後のイスラエル社会そのものの強硬さがネタニヤフ政治の背景にあることを見落としてはならない。
 またイスラエルでは、ハマスの脅威と関連して、その背後にいるイランに対する敵対感情や脅威認識も高まっている。イランはイスラエルの存在を認めず、イスラエルを念頭に核兵器や弾道ミサイルの開発を進めるだけでなく、ハマスやヒズボラなど反イスラエル武装闘争を続ける「抵抗の枢軸」をイスラエルの周囲に配置、組織化し、支援を続けている。
 今年の4月28日、イスラエル軍はレバノン南部カンタラで親イラン勢力ヒズボラが築いた地下トンネルを発見、爆破したと発表した。軍の発表によると、トンネルはイスラエルとの国境から約10キロの位置に築かれ、2本のトンネルの総延長は約2キロにも及び、イランの資金援助を受け10年かけて建設されたもの。地下からは対戦車砲や爆発物を搭載した無人機など多数の武器が見つかり、イスラエルを攻撃するために築かれた施設であることは明らかだ。
 ガザでは武装解除に応じようとしないハマス、また国境で隣接するレバノンからはヒズボラによる攻撃の脅威にイスラエルの市民は日々晒されている。イスラエルにとってイランは外なる敵であると同時に内なる敵でもあるのだ。最近の世論調査を見ても、多くの犠牲を出しながらも、イランとの停戦には6割の国民が反対している。
 こうしたイランの脅威の増大が、建国の理想にイスラエルが回帰することを難しくさせる大きな原因ともなっている。イスラエルやネタニヤフ首相の姿勢だけを取り上げ、批判するのではなく、この地域の大きな不安定要因となっているイランの脅威の除去など中東地域全体の安定確保に向けた取り組みが、パレスチナ問題の解決においても必要であろう。

最後に

 旧約聖書創世記に拠れば、最初の予言者アブラハムは正妻であるサラとの間に子が無く、エジプト人侍女ハガルにイシュマルを生ませた。そのためハガルとサラが対立。やがてサラとの間にもイサクが生まれる。ある時、イシュマルがイサクをからかっているのを見たサラは憤り、アブラハムに懇願しハガルとイシュマルを荒野に追放させる。二人は神の加護で一命をとりとめるが、このイシュマルがアラブ人の祖に、イサクがユダヤ人の祖になる。
 旧約聖書におけるアブラハムの息子イサクとイシュマエルの対立が暗示するように、ユダヤ人とアラブ人は対立する宿命にあるようにも感じられる。また旧約聖書(創世記・サムエル記など)では、イスラエルとその周辺民族の抗争が繰り返し描かれており、多くの政治指導者がそこから「歴史的正当性」や「宿命的対立」の物語を導き出してきた。
 しかし一方で、同じ旧約聖書の中には「寄留者をも愛せよ(レビ記19:34)」「平和を追い求めよ(詩篇34:15)」といった、人間としての共存と慈しみを説く節も存在する。またオスマン帝国の時代、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒が互いに協調して暮らしていた史実もある。
 イスラエル社会の中にも、「ユダヤ人とアラブ人の共生こそイスラエルの道徳的使命」と信じて活動する人々が今も少なからずいる。ガリラヤ地方やエルサレム周辺では、ユダヤ系・アラブ系が共同教育を行う学校(Hand in Hand Network)も継続している。対話と和解を目指す市民団体が主催し、イスラエルとパレスチナ双方の参加者が集い、パレスチナ紛争でなくなった犠牲者を追悼する合同の追悼式典も毎年行われており、今年で21回目を迎えた(図表7参照)。

 「宿命」論に囚われず、自らの意思と選択としての平和の努力も確かに並存している。そのような取り組みに注目し、中東和平の実現に一縷の希望を抱き続けたい。

(2026年5月30日、平和政策研究所上席研究員 西川佳秀)

国際情勢マンスリーレポート
ネタニヤフ首相は父の思想と兄の生き様によって、自身の政治意識を形成したといわれる。パレスチナ政策に対する強圧的な姿勢や相次ぎ戦争を重ねるなど、独裁者のイメージが付きまとうが、実際は政治的な妥協を重ね、様々な勢力と巧みな協力関係を築く柔軟で現実主義的な政治家である。汚職裁判と戦争の行方が注目されるが、多くの犠牲を出しながらも、6割のイスラエル国民はイランとの停戦に反対している。

関連記事

  • 2026年4月30日 平和外交・安全保障

    混迷深まる中東情勢とイスラエル(上)―拡大する戦火・遠のく中東和平―

  • 2020年5月26日 平和外交・安全保障

    決め手を欠くトランプ政権の対イラン政策 ―「最大限の圧力」の限界―