第6回 これからの100年を考える 前編 過去から学ぶということ

第6回 これからの100年を考える 前編 過去から学ぶということ

2026年5月30日

 これまで5回にわたり、昭和100年の歩みを批判的に考察してきた。それぞれの時期、テーマごとに、様々な問題点や成功、失敗の事例を取り上げてきた。考察の最後に当たり、そうした個々の分析をも踏まえ、昭和100年という長い時間軸全体から我々が学びとるべき教訓があるのかどうか、あるとすればそれはどのようなものかについて考えてみたい。
 その際、昭和100年の軌跡から直截的にその答えを求める前に、考察・思考の視座を広げるため、少し遠回りにはなるが、そもそも過去の体験や歴史に学ぶということは一体はどういう意味を持つのか、また国家の発展や衰退に一定のパターンを見出すことはできるのかという歴史解釈に関わる一般普遍的な論理や法則というものについて考えてみたい。

1 歴史から学ぶ意義

 かって歴史家のクローチェは「すべての歴史は現代史である」と述べたが、現在抱える一連の諸問題に対する対策や解決策を考える際、 過去の歴史や先人の歩みからヒントを得たり、汲むべき教訓を得ることは多い。
 「歴史は繰り返さないが韻を踏む」(History doesn’t repeat itself, but it often rhymes.)
 これは米国の作家マーク・トウェインの言葉であるが、歴史の過程においてまったく同一の事象が再現されるようなことはないものの、似たような経過を辿ったり類似のパターンを見出すことは可能だという程の意味だ(写真①)。

 「いったい歴史から学びとるべき教訓というものが少しはあるのだろうか。まず指摘しておきたいことは、歴史は我々の未来を予測したり、予言したりすることを我々に教えるものではないということである。そんな教訓は決して歴史から学びとることができないのである。・・・・
 しかしいうまでもなく、歴史の教訓は未来に関して何ものかを我々に教えるのである。歴史の教訓は、現代の文明が過去の諸々の文明と同し道を辿るに決まっているなどということを予言しうるものではないが、確かに言えることは、 もし、現代の事態とよく似ている過去の事態についての知識があれば、そうした知識は未来において起こり得る諸々の可能性について、少なくとも一つの可能性を教えてくれる」(トインビー)
 古代ギリシャの歴史家ツキュディディスは、歴史を決するのは人間の心理的動機であり、この人間性というものは不変なものであると考えた。
 「人間の性情が変わらない限り、個々の事件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも(類似のことが)繰り返されるであろう」(『戦史』巻三・82)
 それゆえ
 「今後展開する歴史も、人間性の導くところ再びかってのごとき、つまりそれと相似た過程を辿るであろうことから、人々が出来事の真相を見極めようとするとき、私の歴史に価値を認めてくれればそれで十分である。この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべく綴られた」 (巻一・22)
と書き残している。この一節からも伺えるように、ツキュディディスは、正確な事実から正しい教訓を後世の者に汲み取ってもらうために大著「戦史」を著したのである(写真②)。

 歴史は繰り返さないが、 歴史を作り上げる人間所作のバターンは反復、繰り返しを重わるのである。過去それぞれの社会構造や環境は当然のことながら現代とは大きく相違する。その意味では歴史とは、決して繰り返すことのない一過性的事象の積み上げではあるが、18世紀ドイツの歴史家ランケが『列強論』で指摘したように
 「ひとつひとつの事柄をありのままに眺めること、特殊な発展それ自体を見てゆくこともすこぶる高い価値を持つことは疑いをいれない。何となれば、特殊は自分自身の中に普遍を持っているからである」(写真③)

 そうであるがゆえに、国家の政策や戦略を考えるにあたって為政者は、こうした歴史の真理を正しく認識し、過去の失敗からは貴重な教訓を、また成功例からはその秘訣を学びとり、過去と同し過ちを繰り返すことのないよう努めねばならないのである。

2 国家盛衰の歴史法則

様々な国家盛衰論

 「歴史の教訓」のなかでも、 古来より多くの史家の耳目を集めてきたのが国家や文明の繁栄と没落に関するものであった。古代ギリシャの歴史家で、「歴史の父」とも呼ばれるヘロドトスは『歴史』を著すに際して
 「人間の住みなす国々について、 その大小にかかわりなく逐一論述しつつ 話を進めていきたいと思う。 というのも、 かって強大であった国々の多くが、今や弱小となり、 私の時代に強大であった国も、かっては弱小であったからである。されば人間の幸運も決して不動安定したものではない」(『歴史』巻一・5)
と述べ、国家興亡の理法に対する自らの関心の高さを示している(写真④)。何が国家に繁栄と凋落をもたらすのか、その真の原因を探求する試みはきわめて重要なテーマだといえよう。

 一般に国家盛衰論といえば、口一マ帝国の崩壊に関するものがその代表に挙げられる。そこでは、“蛮族の侵入とキリスト教”にローマ没落の因を求めるギポンや、気候変動とそれがもたらしたマラリアの発生による農業の衰退を指摘するハンチントン、あるいは『ローマ人盛衰原因論』において、版図の拡大に伴う共和政体の消滅と専制の出現が衰亡を招いたと説くモンテスキューなどこれまで多くの史家・識者により幾多の没落論が提示されてきた。
 それらは、大きく内的原因論と外的原因論に分けることができる。前者は、例えば「西口ーマ帝国を滅ほしたのは蛮族ではない。帝国は内部の病弊によって死んだ」 (フィルディナン・ロー)」との言葉に表されるように、政体や経済活動の変化、腐敗、堕落の進展など没落の原因をローマ帝国内の事情に求める立場である。それに対し後者は「ローマ文明は死すべくして死んだのではない。それは暗殺されたのだ」 (アンドレ・ビガニエル)などとローマ帝国を取り巻く外的環境の変化こそが没落の真の理由だと主張するのである。
 これらは、ローマ帝国の盛衰というひとつの歴史的事実を、国の内外どちらの側面により重点をおいて分析・解釈するかの違いだが、 ローマ帝国に限らず、 古代から現在に至る多 くの国家の栄枯盛衰と、その背景にある戦略環境の変遷に関する多くの史学及び国際政治学などの分析を踏まえ、 国家の躍進から繁栄、 そして衰退へと辿る道程をモデリングするならば, それは概ね次のように要約することができよう。
 即ち、他国にはない利点や長所、 ユニークさの存在一一それは天然資源の豊富さから国民の勤勉性、さらには国際情勢の有利な展開等国内外の種々の要因が考えられるが、その国の経済的発展の原動力となり、やがて当該国家は身につけた経済力を梃子に、軍事、政治的影響力の拡大にも乗り出し、遂には覇権国家(へゲモン)としての地位を築きあげる。この点で、覇権(へゲモニー)の基礎を経済力に求めるウオラスティンやポール・ケネディらの指摘は正鵠を得たものである。
 その後、期間の長短はあれ、覇権国家は繁栄享受の時期(成熟期)を迎えるが、その一方でヘゲモンは三つの拘束要因に遭遇する。一つは挑戦国の模倣・追随による技術的経済的優越の喪失である。二つ目は、他の諸国が集団で覇権国家の膨張活動に挑戦・抵抗し、あるいは反対にフリーライドを決め込むことからもたらされる覇権の維持・拡大コストの増大である。スペインの優れた歩兵戦術がまずスウェーデンに、次いでヨーロッパ全土に広がったため、あるいはまた英国の産業技術がドイツや米国に伝播したことにより、それぞれの優越的地位が動揺を来したのは前者の例であり、オランダの経済的繁栄にかっての同盟国英国や隣国フランスが立ちはだかったり、そのフランスのルイ14世やナポレオンの対外膨張活動が勢力均衡を維持する目的で他の国々から抵抗を受けた史例は後者の典型である。

衰退を招く内在的要因

 他国の「追随」と「挑戦」というこの両ファクターは、いすれも覇権国家のへゲモニーを主に外部から弱める因子といえようが、これらと逆なのが、へゲモニーの発揮を国内から妨げる第三の拘束要因である。それは、かって国家に隆盛をもたらした経済、技術あるいは政治などの各種利点や長所が経年変化によって変質・硬直化し、その結果、国際情勢の変化に十分に対応できなくなることに起因する優越的地位の喪失である。
 例えば、大英帝国衰退の原因についてダーレンドルフは、 自由や自治、自律の精神、政治的継続性や安定性といったこの国を大国に押し上げる原動力となった要因それ自体に求めている。各機関の持つ自主性は、ひとつのまとまった国家目的達成には不利に作用しがちで、またシステムや制度の継続性が強く意識され、伝統が支配する社会では絶え間ない変化を伴う産業経済の適応や調整は困難となる。英国はそのすばらしい美徳によって身動きがとれなくなり、 社会の前進が阻まれたのだと彼は指摘する。
 またキャンベルも、自由貿易を奨励した諸条件が消滅した後も、自由貿易と自由主義世界秩序に執着したことが英国の衰退を決定づけたと述べ、国家権力の増大より自由の保持に関心を持つ市民社会であるがゆえに、ドイツのような国家と産業界との緊密な連携に遅れをとったこと、また社会的継続性、安定性の裏面としての階級社会化が平等主義的で開放・流動的な米国的プルジョワ社会の形成を阻害する因子となったとし、後から登場した米独に英国が対抗できなかった原因を、早期工業化をこの国にもたらした社会関係それ自身に求めている。
 要するに、英国では帝国が安泰で国内の諸制度も安定していたがため、時代の変化に敏感に対応できなくなったのである。東方に近かったがゆえに繁栄をきわめたベネチアの場合も、やがてオスマントルコの脅威に晒され、しかも大西洋から遠いことから外洋進出に遅れをとるなどそのロケーション自体が次第にネックとして作用するようになっていった。大量生産方式というこれまで米国が培ってきたシステムの強さがかえって転換への障害となっている事実を『Made in America』のなかで著者のダートーウゾスらが指摘しているのも同様である。
 このように、かって国家を隆盛に導いた成功要因が経年変化につれ、逆にその衰退の要因として作用するという歴史的必然ないし矛盾の存在を考えると、隆盛の端緒となった要因の数だけ実は没落の原因も存在する、言い換えれば、繁栄のなかに没落の要因が既に潜んでおり、繁栄を謳歌した国から没落に至る因子を完全に消し去ることなど論理的に不可能なことが明らかとなる。ここに、いかなる国といえども永遠の繁栄を享受し得ない歴史の理があるのである。
 この繁栄と衰退の相関関係は、成功要因に長期的かつ過度に依存する国家政策の極端化(extremism)によって助長される。ともすれば国家は自国の繁栄に有利な要因のみに拘泥し、他のことには目配りが疎かになる。そうした姿勢がほかのファクターへの配慮を怠ったり、(成功がもたらす副産物である)自信過剰や傲慢さを生み出すのである。さらに、それまで支配的であった禁欲主義が快楽主義に、またチャレンジ精神が安定志向に取って代わられ、その弊害はますます増幅加速されていく。
 せつかく手に入れた富を国内産業の育成に有効に活用することなく、一過的繁栄に終わった16世紀後半のポルトガルや、海上交易で著しい躍進を遂げながらも、最後まで中世的自治意識を脱却しきれなかったがため重商主義を掲げる絶対国家時代の到来に乗り遅れ、英国の前に敗退を喫したかってのオランダ等いずれもこの例に漏れるものではない。
 多くの点で見解が対立しながらも、マルクスとマックス・ウェーバーが歴史を動かす力の源泉を社会内在的なものに求めている点では共通しているのは、衰退に関わる内在的要因の重要性を示唆するものといえる。

既得権益と社会的硬直性

 ではなぜ、利点が欠点となるような環境の変化に対応して、為政者は迅速な対応策を講じることができないのだろうか。この点については、国家政策の極端化傾向を、利益集団の持つ影響力の大きさという観点から分析したマンカー・オルソンの研究が示唆に富む。
 彼はその著『国家の隆盛と衰退』のなかで、社会の発展に伴い、その推進力となったグループは逐次自らの利益集団を形成していくが、一旦集団が形成されると当初の必要性がな くなってもそれは存続し既成秩序化すること、そして、国が政治、社会的に安定を続けるほど多くの集団が誕生し、これら集団は自己の権益を確保するため、環境変化への適応を目的に国家や社会が進めようとする新技術の導入や資源の再配分に抵抗すること、その結果、社会の硬直性が高まるとともに生産性や経済活動も低下を来すことになる点を指摘し、かかる経済的動脈硬化の出現が、大国が新興国に追い抜かれる原因だと論じている。
 つまり、既得権益に固執する利益集団の存在に起因する社会的硬直性こそが国家衰退の究極の原因だということになる。この社会的硬直性の排除が如何に難しい課題であるかは、古来より多くの賢人が指摘してきた。マキャベリもその困難さを次のように述べている。
 「率先して新秩序を持ち込むことは、このうえなく実行の難しい、成功の覚束無い、取扱いの危険なことである点を十分に考慮しなければならない。というのは、これを持ち込む君主は、前の秩序でよろしくやってきた人々を全て敵に回すことになるからである。
 また新秩序を利用しようという人々は、たんに気乗りのしない消極的な支持者という形でしかついてこないからである。この連中が気乗りしないのは、一方ではなお有利な法律を多少もつ相手側に抱く畏怖心と、他方では、人間の持つ猜疑心、即ちしつかりした経験を積むまでは、新しいものは信じないことにもよる」。

時代への適応力と自己改革の重要性

 こうした内在的要因の蔓延や肥大化防止の成否は、自助努力の如何に大きく左右される。つまり、少しでも長い期間自らの繁栄を持続させられるかどうかは、国内システムの硬直化の度合いに関わっているということだ。それまでの成功を阻むような環境変動が生した場合、いちはやくその動きを察知し、それまでの目標を見直し、既得権益層の抵抗を排除して当該変化に適応しうるよう自らの政治、経済システムを改める自己改革の取り組みが為政者に求められる。
 白亞紀の末期(約6500万年前) 、それまで最強を誇っていた恐龍が気候変動等環境の激変に対応できす僅かの期間に絶滅したのに対し、殺傷カでは恐龍に劣るものの、体温調節力や運動能力で優る哺乳類が生き残れた。それと同様、国家においても環境に対する最適生存条件確保の能力、つまり適応力の高さが生存を左右するキーポイントとなる。
 「生物の構造でも、社会の構造でも、或る点まで適応力と適応の両性質は競合するものである。或る特定の環境に非常によく適合し、従って、この環境が続く限り、たいへんに栄えるような生物有機体もあるし、社会組織もある。総べての環境が安定しているなら、このよく適合したものが、ただ地球を支配し、それで進化過程は停止することになろう。ところが、環境的変化の時期に入ると、生き残るのは、適応力のあるものであって適応したものではない。・・・・・・柔和、即ち適応力こそ最大の進化的ポテンシャル」(ポールディング)なのである。
 英国の歴史家のトインビーも、文明の成長は自然的または社会的な絶えざる新たな挑戦に対して社会が常に成功裡に応戦していく過程であり、その衰退は創造の終止であり、挑戦に対して社会が効果的に応戦できなくなる過程と捉える。そして応戦能力の衰退こそが文明衰退の原因であり、それは (1)創造的少数者の創造力の衰退(2)多数者の側における模倣の取り止め (3)その結果として社会が統一性と連帯性とを喪失することにあると述べている。トインビーのいう「応戦」の力とは、まさに「状況変化に対する適応力」のことを指しているのである(写真⑤)。

 内外情勢に機敏に対処する国家の適応力は、その国の政治行政システムの善し悪しにかかっている。国家政策が挫折した場合、それまでのシステムや制度を改めるべきは当然のことながら、成功を収めた場合にもやはり自己改革が必要となる。というよりも、成功を収めた場合こそ、真の自己改革が必要だと言うべきかもしれない。
 ダーウィンの言葉も紹介しておこう。
 「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化出来る者である」
 繁栄の美酒に酔いしれるがゆえに、その断交は国家政策が挫折した場合以上に難しい課題だが、新たな環境変化に対応し、それまでの利点や長所が繁栄を持続させる足かせとならないよう繁栄の続いている間に措置することは国家の指導者にとって最重要の務めである。衰退が進み改革するだけの国力さえも失われれば、もはや手遅れとなってしまうのである。

3 80年の生成衰退サイクル

 さて、これまで見てきた歴史論的な考察や盛衰のセオリーを踏まえ、昭和100年の歩みを総括することで、これからの新たな100年を生き抜くための教訓や知恵、留意すべき課題などを考えていきたい。
 但し昭和100を「戦前の20年」と「戦後の80年」という単純な形で比較すると、時間の長さにおいて1:4という大きな開きを抱えてしまうことになる。そこで本稿では、同じ時間の長さに揃えて戦前と戦後を考察することにしたい。
 いま戦前期を、明治維新から第二次世界大戦の敗戦までと捉えれば約80年、戦後の日本も、敗戦から現在の2026年を対象期間とすれば同様に約80年となり、時の長さが等しく揃えられる。そこで戦前期を明治維新から太平洋戦争敗戦までの80年、戦後期は敗戦から現在までの約80年と規定する。
 つまり、日本近現代の歩みを80年の周期で捉え、戦前期=近代前期の時代、戦後期=近代後期から現代に至る時代と見る。前期の80年(第1サイクル)は維新から太平洋戦争の敗戦まで、後期(第2サイクル)は敗戦から現在までの80年である。
 こうすることで、近代以降の日本の歩みを二つの発展盛衰のサイクルの連続と捉えることが可能になる。80年の周期を以て国家や社会が生成から隆盛、それに衰退に向かうという捉え方は、ただ便宜的だというだけでなく、近年提唱され関心を集めているフォースターニング理論とも合致するからだ。
 フォースターニング理論とは、米国の歴史学者ウィリアム・ストラウスとニール・ハウによって提唱されたもので、彼らは、社会は線的に発展するものではなく、約80年の周期で四つの時代を(ターニング)を循環すると考えている。つまり、人も時代もみな20年を一区切りとして春夏秋冬の四つの段階を経て移り変わっていくという世界観である。
 この理論を基に、過去5回の考察も踏まえ、国家の生成発展衰退の法理や歴史サイクルの視点から、昭和100年や近現代日本の軌跡を総括したい。

4 近現代日本の二つのサイクル

戦前期日本の盛衰

 明治から敗戦までの戦前期日本にあっては、殖産興業と並んで富国強兵の国家政策が採用された。近代的な軍隊を整備し、当初は西洋列強の圧力に抗し、独立を維持することに主眼を置かれたが、やがて陸軍では鎮台制を師団制に改めるなど国土の防御から対外的な攻勢作戦が可能な軍事体制を整えていった。
 そして日清・日露・第一次世界大戦という大きな対外戦争を通して、国家の近代化や国際社会における我が国の地位の向上を実現していった。国家の発展、隆盛の原動力を主として軍事力に求めたのである。
 大正期に入り、日本は中国大陸での権益を求めるようになるが、軍事力を背景とした威圧的な政策は中国の強い反発と抵抗を生んだ。ナショナリズムの力が強まりつつある世界的な潮流に対して日本は鈍感であったのだ。
 また第一次世界大戦を契機として、世界は国家総力戦の時代に入っていった。戦争は軍隊や軍人だけの戦いから、政治や経済、外交、資源、文化、地政等一国の持つ力の全てを結集せねば勝利を望めない段階へと進んだ。国力と国力が衝突する戦争の時代にあっては、政治と軍事の分離や跛行は許されず、政権を担当する実力ある政治指導者が自国の軍事や経済を統制下に置き、持てる力の全てを発揮できるような国家体制や政治のシステム作りが重要な課題となった。
 しかし、日本の国制には問題があった。明治憲法体制は、表面的には天皇親政を装いながら、その実態において極めて多元的な連合体制を許してしまったのだ。軍部は統帥権独立を根拠に、政治とは離れた自立的な動きを強めていく。内閣の力は弱く、また天皇は立憲君主的な振る舞いに徹したため、政治と軍事の統合は、元老制という憲法規定にもない非公式のシステムによって辛うじて保たれるという際どい状況にあった。
 その一方、大正デモクラシーの下、政党政治が発展を見た。その機会を活かし、政党内閣が主導して軍部を統制し、政軍一体となって総力戦に対応出来る国づくりを目指すべきであった。またそのためには時代の流れに応じ、統帥権独立の原則や明治憲法の規定を改める必要もあった。
 しかし、昭和に入っての不況や軍部のテロによって政党政治は脆くも崩壊。軍部を恐れた政治家は軍部批判を避け、発言を自粛した。軍部、中でも陸軍は皇道派に代わって統制派が実権を掌握し、総力戦を勝ち抜くためとして政治や経済の全てを軍部が統制する軍主導の体制作りを目指すようになる。
 共産主義を最も強く嫌う軍部でありながら、社会主義的な統制経済をモデルに軍部独裁の政治体制構築に傾斜していったのだ。しかも、軍部と内閣の対立だけでなく、陸軍と海軍という軍部内の対立と不協和をも抱えての軍部の暴走であった。
 その結果、国家の戦略策定能力は著しく阻害され、政治と軍事を統合した整合性ある、そして長期的な国策の構築が不可能となった。軍事偏重の経済構造は、我が国の健全な産業や市民の生活水準の向上を阻害した。明治期には国家発展の原動力となった軍事組織であるが、軍事力への過度な依存は昭和に入り日本発展の足かせとなっていったのである。
 強大化した軍部は政党内閣や政治の統制を受けることを峻拒するなど時代が必要とする変革に抗い、また新たな状況への適応を妨げる抵抗集団と化し、日本社会の硬直性を高めた。そして国家政策の軌道修正が敵わぬまま、突出した力を持った軍部が国力を越えた対外戦争を重ねたことで、遂に大日本帝国は崩壊する。

戦後日本の盛衰

 初期の成功要因がやがて衰退没落の要因に転じたのは、戦後の日本も同様である。敗戦で国土が荒廃した日本は、戦後復興のため経済の再建が最重要課題となった。朝鮮特需や米国の援助を活かし、我が国は早期に復興を成し遂げた。
 しかし敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の強い影響力の下、占領下に制定された日本国憲法により軍隊や軍事力の保持を禁じられたことから、戦後の復興を成し遂げた後も、日本は経済だけを基軸にしての偏りある発展に邁進する。安全保障や国際政治といったハイポリティクスへの関与は極力控え、あるいは回避した。軍事や国防政策は日米の同盟関係を維持することによって、つまり米国の力に大きく依存し、対米関係を最優先するスキームの枠内で外交案件を処理する手法が定着していった。
 その結果、経済発展に専念した日本は高度経済成長を実現、さらに二度のオイルショックも乗り越え、経済大国となることに成功はした。しかし、権力主義的な力の行使は回避し、政治・外交面での行動領域を自ら限定、自己規制した経済だけの一本足打法では、経済的に豊かな国にはなれても国際社会における大国となるには大きな限界があった。
 その後、冷戦が終わり、平和な時代が来るかと期待されたが、現実には急速に中国の脅威が高まり、またロシアが第二次世界大戦後に確立された国際法理を無視し公然とウクライナを侵略するなど国際情勢は緊迫の度を増し、国際社会ではいま権力政治の様相が復活しつつある。
 そのような厳しい国際環境の中でも日本は、戦争と軍隊の放棄を謳った平和憲法の理念を掲げている。戦前期と同様、一度も憲法の改正は実現していない。そのため国家の影響力行使の重要な手段である軍事力に正面から向きあわず、軍事を封印、忌避する姿勢は戦後基本的に変わることがなく、平和主義に抵触するという発想から権力政治に身を投じることも避け通している。
 戦前は軍事力で成功したが、軍事力を過信し、最後はその軍事力によって国を滅ぼした。戦後の80年は経済力で成功したが、経済至上主義に偏り、軍事力は米国への依存を重ね、自らの問題として受け止めようとしなかった。戦前とは逆に、今度は軍事を避け続け、軍事や安全保障問題に正面から向き合わず忌避してきたのだ。その様な国家運営が、いま日本の失敗要因になりつつあるのではないか。
 国家が持つ影響力行使のための手段は、大別して政治、経済、軍事の三つしかない。我が国の現状を見れば、経済の衰退は著しいものがある。政治(外交)の力が卓越しているとも言えない。そのうえさらに、政治、経済と並び国家が持つ正当かつ重要な影響力行使手段である軍事を今後も封印し続ければ、厳しい国際環境の中での生き残りが危ぶまれる事態を招来しかねない。
 近代日本の二つのサイクルは、いずれも当初の成功要因がそのまま長期にわたり主要な政策として重用維持され続けたことで、国内外で進んだ環境変化への対応や軌道修正に失敗、あるいは遅れることによって自らの衰退を招き、あるいは招きかねない状況に陥っている。我が国の近代以降の歩みも、まさに国家盛衰の公理が示す通りの経過を辿っているといえる。
 戦前期の日本は、状況に適応した憲法の改定や国家政策の路線修正に失敗し、国の崩壊を招く結果に終わった。翻って戦後の80年を見ると、経済大国を名乗っていた隆盛期に比べれば経済的な力の衰えは否めないが、まだ国家としての衰退を食い止めるだけの時間的余裕は残されている。このまま戦前期と同じように衰退の道を歩むのか、あるいはそれを食い止め、少しでも長い繁栄を維持できるのか、いま我々は、まさにその岐路に立っているのだ。

西川 佳秀 平和政策研究所上席研究員
著者プロフィール
1978年大阪大学法学部卒。防衛庁入庁、防衛研究所研究室長、東洋大学教授等を経て、現在、東洋大学現代社会総合研究所研究員、(一社)平和政策研究所上席研究員。法学博士(大阪大学)、国際関係論修士(英国リーズ大学)。専攻は、国際政治学、戦略論、安全保障政策。主な著書に『ポスト冷戦の国際政治と日本の国家戦略』『ヘゲモニーの国際関係史』『日本の外交政策―現状と課題、展望』『特攻と日本人の戦争』『日本の安全保障政策』他多数。

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