混迷深まる中東情勢とイスラエル(上)—拡大する戦火・遠のく中東和平—

混迷深まる中東情勢とイスラエル(上)—拡大する戦火・遠のく中東和平—

はじめに

 2023年10月、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマスがイスラエルに大規模な奇襲攻撃を仕掛け、多数の死者が出たほか、250人以上の人質をとった。これに対しイスラエルのネタニヤフ政権はハマスに対する報復と人質救出を目的にガザ地区への攻撃を実施、以後、激しい戦闘が2年余り続いた。
 停戦が実現した現在もなお戦闘は断続的に続いている。その間、ガザ地区に暮らす多数のパレスチナ人が戦闘に巻き込まれ、また食料・医薬品などの補給が途絶したことで飢餓や衛生状況が悪化するなど人道的な危機が生じている。
 ハマスによる奇襲攻撃は世界に大きな衝撃を与えたが、ネタニヤフ政権はガザ地区へのハマス攻撃だけでなく、イランの支援を受ける過激組織攻撃のためレバノンやイエメンにも戦闘を拡大させた。さらに2025年には米軍と共にイランの核関連施設を攻撃、今年2月にもイランの体制転換をめざし、より規模の大きな攻撃に踏み切った。
 イスラエルの攻撃を受けたイランは、イスラエルへの報復攻撃を実施、26年の戦争ではホルムズ海峡を事実上封鎖し、タンカーなどの航行を妨げたほか湾岸諸国の石油施設等にも攻撃を加えた。そのため石油の供給途絶懸念から石油価格は高騰し、世界経済に大きな打撃を与えた。このイラン戦争は国際秩序や国際政治にも大きな影響を及ぼし、さらにガザの和平計画や復興事業も頓挫する事態に陥った。
 このような中東の騒乱に深く関わっているのがイスラエルのネタニヤフ首相である。パレスチナ国家の樹立に否定的であり、またハマスに対し終始強硬な姿勢を崩さず、力によって問題を解決しようとする彼の政治姿勢には国際社会から強い批判が呈されているが、一方でネタニヤフ氏は長期にわたりイスラエルの政権を担当してきた実績の持ち主でもある。
 それゆえ中東情勢の分析に際して、また今後のパレスチナ・ガザ問題の展開やイスラエルと周辺諸国の動向を予測するうえでも、ネタニヤフ氏の思想や政治的な信条、また彼が抱く将来ビジョンを知ることは大きな意味があると思われる。そこでいまも首相としてイスラエルを率いている指導者ネタニヤフ氏に焦点を当てつつ、混迷が続く中東問題を考えてみたい。
 まず前半は、イスラエル建国以後のイスラエルと周辺アラブ諸国の紛争の歴史やパレスチナ問題の解決に向けた様々な取り組みの経緯を概観した後、ネタニヤフ政権がそれらにどのように関わってきたかを眺める。

1.パレスチナ問題の経緯

イスラエル建国と中東戦争

 第2次世界大戦後、英国はパレスチナ問題を国連に委ねると宣言し、この問題は英国の手を離れ国連に移った。1947年11月、国連総会はパレスチナにアラブ、ユダヤ双方の国家を樹立し、エルサレムとその周辺を国際管理下に置くというパレスチナ分割決議を採択した(以下の経緯は図表1参照)。英国の影響力の低下を狙い、ソ連も賛成に回った。しかし、内容がユダヤ側に有利だとしてアラブ側が拒否し、採択直後からアラブ住民とユダヤ住民の間に小競り合いが続発し、パレスチナは内戦状態に陥った。


 1948年5月14日、26年にわたる英国の委任統治が終了し英軍は撤兵、イスラエル共和国の独立が宣言された。しかし翌15日、シリア、レバノン、エジプト、ヨルダン、イラクの各国軍がパレスチナに侵攻、第1次中東戦争が勃発した。独立の直後に侵攻されたためイスラエルは崩壊の危機に陥ったが、休戦期間中に米国の支援を仰ぎ戦局を逆転させ、戦争はイスラエルの勝利で終わった。その結果、イスラエルはパレスチナ分割決議で認められたよりも20%以上広い領土を獲得し、パレスチナの8割近くを支配下に置いた。他方イスラエルに土地を奪われた90万人を越えるパレスチナアラブ人は難民としてアラブ諸国に流れ込んだ。
 その後も紛争は絶えず、これまで四度にわたりアラブ・イスラエルの間で中東戦争が繰り広げられてきたが、なかでも第3次中東戦争(1967年)でイスラエルはその支配地域を大きく拡大させ、スエズ運河に至るシナイ半島全域やガザ地区を占拠したほか、ヨルダン領であった東エルサレムを含むヨルダン川西岸全域、さらにシリア領であったゴラン高原の占領に成功する。またこの戦争で新たに41万人のパレスチナ難民が発生、その総数は150万人に達した。
 パレスチナ国家の建設と郷土帰還の訴えが強まるなか、パレスチナ解放機構(PLO)の議長に就任(69年)したヤセル・アラファトは、イスラエルに対するテロ活動を活発化させていった。第4次中東戦争(ヨムキプール戦争:1973年)では、アラブ産油国が石油戦略を発動し、西側陣営に乱れが生じた。戦局は、当初奇襲を仕掛けたアラブ陣営がイスラエルを苦境に追い込んだが、イスラエル軍の反攻を受け形勢は逆転し、挽回することは出来なかった。相次ぐ中東戦争は冷戦と連動し、米国がイスラエルを支援し、ソ連がアラブを支援する構図が出来上がっていった。
 その後、第4次中東戦争で敗北を喫し、ソ連に不信感を抱いたエジプトのサダト大統領は、西側諸国寄りに外交方針を転じるとともに、単独イスラエルに乗り込んで関係改善に乗り出した。この動きを米国のカ−タ−大統領が仲介し、エジプト・イスラエルの平和条約締結とパレスチナ自治機関の設立等を定めたキャンプデ−ビッド合意が成立(1978年)。パレスチナ自治は挫折したが、エジプトとイスラエルの間で平和条約が締結された(1979年)。
 この結果、南(エジプト)からの脅威が解消され、それまでの2正面作戦の恐怖から解放されたイスラエルは、北〜東に位置するアラブ諸国に対し攻勢的な姿勢を強めていく(サダト大統領は1981年に暗殺される)。
 80年代後半になると、パレスチナ問題解決のめどが立たないことから、パレスチナ住民やアラブ諸国ではPLO の武装闘争路線への反発が強まった。また1987年にはイスラエル軍トラックの起こした交通事故を機にパレスチナ住民による大規模な民衆暴動が発生(第1次インティファーダ)し、PLO の指導力は大きく低下した。そのためアラファトは、テロの放棄とイスラエルの生存権承認へと方針を大転換させた(1988)年 。しかしイラクのクウェート侵略で生じた湾岸危機の際、PLOがイラクを支援したため、アラファトはアラブ世界から完全に孤立した。やがて冷戦が終わり、中東問題は米ソ対立と連動しなくなった。

冷戦の終焉とオスロ合意の成立

 テロやハイジャックを繰り返してきたPLOの穏健化と冷戦終焉という環境変化によって、パレスチナ和平交渉は大きく前進を見た。まず湾岸戦争後の1991年7月末、米ソ両首脳は中東和平会議を共同主催することで合意。さらに米国が建国以来一貫してパレスチナ人との直接対話を拒絶していたイスラエルの翻意に成功した結果、91年10月30日、スペインのマドリードで中東和平会議が開催された。この全体会議に続き、同年12月以降ワシントンに舞台を移し、イスラエルと周辺アラブ諸国(パレスチナ、シリア、レバノン、ヨルダン)との個別二国間交渉が開始された。
 しかし、イスラエルのシャミル政権(与党保守連合リクードが主導する右派政権)は安全保障上の要請から占領地の返還を拒絶、逆に入植地建設を促進して事実上の占領地併合を強行する姿勢を崩さなかった。また(88年にイスラエルの生存権を認め、テロの放棄宣言を行っているにも拘らず)PLOをテロ組織と決めつけ話合いの当事者から排除した。そのため交渉は忽ち停滞に陥り、事態の打開に向けてノルウェーの社会学者ラーセンやホルスト外相らが密かにイスラエルとPLO の仲介工作に乗り出した。
 92年6月、イスラエルの総選挙でシャミル政権が敗北、代わって和平交渉推進をうたうラビン率いる労働党主体の連立政権が誕生した。15年ぶりに第一党に返り咲いた労働党は、第3次中東戦争以来、イスラエルの安全保障上さほど重要でない占領地はパレスチナ側に返還してもよいとの立場に立っていた。このラビン政権の登場で、イスラエルとPLO の話合いに弾みがついた。
 ノルウェー政府仲介の下、イスラエル・PLOの間で密かに直接交渉が行われた。その結果、イスラエルがPLO をパレスチナ人の代表と認め、それと引換にPLOが暫定自治の段階的実施により入植地問題やエルサレムの扱いを先送りすることで妥協が成立、また相互の平和共存も承認された。93年9月13日、ラビンイスラエル首相とアラファトPLO 議長はワシントンでクリントン大統領司会の下で歴史的な握手を行い、「パレスチナ暫定自治協定共同宣言」(暫定自治合意)に調印した。
 オスロでの事前交渉を踏まえて「オスロ合意」とも呼ばれるこの自治合意の要点は、イスラエル・PLOの相互承認を前提に、ガザ地区・ヨルダン川西岸からイスラエル軍の撤退と同地におけるパレスチナ人の暫定自治を承認するもので、イスラエル軍撤兵後、まずガザとエリコで先行自治を開始(第1段階)し、第2段階で自治の範囲をエリコ以外の西岸全体に拡大する。そして5年間の暫定自治実施後、交渉によって西岸、ガザ地区の最終的な地位を定めるという内容。この功績により94年12月には、ラビン首相とペレス外相、アラファト議長にノ−ベル平和賞が贈られた。

2.第1期ネタニヤフ政権(96年6月〜99年7月)

ラビン首相暗殺とネタニヤフ政権の誕生

 暫定自治合意の成立後も、パレスチナでは暴力行為が絶えなかった。しかも和平交渉の推進者であったラビン首相がイスラル過激派の青年によって暗殺された(1995年11月)。ユダヤ教過激派や入植者は、神から与えられた“約束の地”をラビンが手放すことに怒りを覚えたためである。後継首相には外相で穏健派のペレスが就任したが、96年5月の総選挙では中東和平プロセスの見直しを主張する最大右派政党リク−ドのネタニヤフに破れる。
 新たに発足したネタニヤフ政権は、イスラエルの安全保障を強調し、パレスチナ独立国家の樹立に反対、自治協定で合意されているヘブロンからのイスラエル軍撤退を実行しないばかりか、逆に労働党政権が凍結していた入植地の拡大・建設を推し進めた。

ヘブロン・ワイリバー合意の破綻

 さらに96年10月、イスラム教の聖地に隣接する場所の地下に「嘆きの壁」に通じる観光用トンネルを貫通させた。パレスチナ側との紛糾を考慮して労働党政権が中断させていた工事を強行させたのである。パレスチナ住民は聖地冒涜として反発、自治交渉に対するネタニヤフ政権のタカ派姿勢への不満が一挙に爆発した。パレスチナ住民、自治警察とイスラエル軍が衝突、死者70人以上、負傷者千人以上を出し、94年の暫定自治開始以来最悪の事態となった。
 事態沈静化のためクリントン大統領が仲介に入り、97年1月、ネタニヤフ、アラファトの首脳会議で西岸ヘブロンからのイスラエル軍撤兵合意(ヘブロン合意)が成立したが、その後、アラファトがエルサレムをパレスチナ国家とイスラエルの共同首都とすることを提案、これにネタニヤフ政権が反発し、パレスチナ住民の多い東エルサレムにユダヤ人大規模住宅の建設を強行(97年3月)、さらに7月にはパレスチナ自治政府との和平交渉を凍結した。
 98年10月、クリントン大統領はメリーランド州ワイ・プランテーションにネタニヤフ、アラファトを招き3首脳会談を行い、自治政府によるテロ対策強化と引換に、西岸占領地からのイスラエル軍の追加撤兵と自治政府への権限移譲地域を13%拡大させるワイリバー合意が締結された(10月23日) 。しかし同合意についてネタニヤフ政権は閣内の意思統一が図れず、またパレスチナ側のテロ取締りが不十分であることを理由に撤兵を中断、和平交渉も事実上の停止状態となった。
 1999年5月4日、オスロ合意に基づくパレスチナ暫定自治期間が終了したが、事態のエスカレ−トを避けるため、アラファトはイスラエルからのパレスチナ独立宣言を行わなかった。同月17日、イスラエル首相の公選で、故ラビンの後継者といわれる和平推進派のバラク労働党党首がネタニヤフを破り当選、以後暫くネタニヤフは政界の一線から遠ざかる。

シャロン政権とハマスの台頭:自爆テロと軍事侵攻の連鎖

 2001年2月の首相選挙では、和平交渉推進を唱えるバラクを抑え、「和平と治安の両立」を訴えた右派リク−ド党首のシャロンが勝利した。神殿の丘訪問などでリクード党員の支持を集めたシャロンと復権を目指すネタニヤフとの関係は悪化する。
 シャロン政権が発足すると、過激派のイスラム原理主義組織ハマスが自爆テロを繰り返した。ハマスは「イスラム抵抗運動」を意味するアラビア語の略で、87年12月にイスラエル占領下のガザで第1次インティファーダが始まった直後に発足した。イスラエルとの二国家共存も拒否するハマスは、90年代半ばからの自爆テロで数百人のイスラエル人を殺害、さらにガザからイスラエルへのロケット弾攻撃を繰り返した。
 イスラエルはハマスのテロ取締りに消極的なアラファト及びパレスチナ自治政府を非難するとともに、米国の「対テロ戦争」の論理を援用、対テロ自衛戦争としてイスラエル軍を自治区へ侵攻させ、西岸6都市を占領する。またパレスチナ自治政府をテロ組織と認定し、アラファト議長との関係を断絶し、02年3月にはレバノン侵攻(82年)以来の大規模な軍事侵攻作戦を自治区に敢行し、ヨルダン川西岸ラマラにある自治政府議長府を攻撃し、アラファトを監禁状態に追い込んだ(防衛の盾作戦)。
 さらにシャロン政権は、テロからイスラエル市民を守る名目で西岸地国に分離壁の建設に着手する(02年6月〜)。壁は第3次中東戦争以前の境界線から大きく西方にはみ出たもので、その前兆は700㎞にも及ぶ。イスラエルの支配拡大と入植地の固定化をめざすものと批判されている。国際司法裁判所も、壁の建設は国際法に反するとし、その撤去と住民への損害賠償をイスラエル政府に求める勧告的意見を出した(04年7月)が、壁の建設は現在も続けられている。
 その一方、シャロン首相は04年2月、ガザからの全面撤退を掲げた一方的ガザ地区撤退計画を発表するが、この計画を巡りシャロンとネタニヤフの対立が再燃する。シャロンは撤退計画を巡るリクードの党員投票で敗れるが、労働党の支持を得て国会で撤退計画を成立させ実行に移した。しかしこれを機にシャロンやオルメルトらがリクードを集団離党し、新たにカディーマを結党する。シャロンらが去った後の05年12月、ネタニヤフはリクード党首復帰を果たした。

パレスチナの分裂:ファタハとハマスの対立

 一方、自治区では自治政府を構成するファタハと過激派組織ハマスの対立が強まっていった。一時はハマスとファタハは連立政権を築くなど連携を模索したが、06年1月のパレスチナ自治評議会選挙でハマスがファタハに圧勝、ハニヤが首相に就任しハマス単独政権が発足、穏健なアッバスとの対立が表面化する。パレスチナ運動の担い手が、中東和平を通してパレスチナ国家を樹立し、イスラエルとの二国家共存を進めるファタハから、武力によりイスラエルを打倒しパレスチナにイスラム国家を樹立する一国家構想を推進するイスラム原理主義組織ハマスへとシフトし始めたのだ。
 イスラエルの生存権を認めないハマスの強硬路線を変化させるべく、アッバスは住民投票の実施を決意し、ハマスも折れて一旦政策合意が成立しかけたが、これを不満とするハマス内部の過激派がイスラエル兵士を誘拐した。イスラエルが人質奪還のためにガザに軍隊を進めると、レバノンに拠点を置くヒズボラもイスラエル兵士を誘拐したため、イスラエル軍はレバノンに侵攻する。
 その後、イスラエル軍が占領地から撤退し、07年3月にはハマスとファタハの連立政権が生まれるが、6月にハマスがガザを武力制圧すると、自治政府のアッバス議長はハニヤを解任、ハマスはガザ地区からファタハを追放し、ヨルダン川西岸を支配するファタハと分裂状態に陥った。07年11月、ブッシュ政権はアナポリスで中東和平国際会議を開催、イスラエルとパレスチナの間で和平条約締結のための交渉開始で合意が成立するが、ガザを支配するハマスがエルサレムに向けてロケット弾攻撃を実施、イスラエルが報復として08年年末にガザを空爆しため交渉は中断。翌09年1月、イスラエルは地上部隊を侵攻させ大規模な攻撃に踏み切った。

3.第2期ネタニヤフ政権(09年3月〜21年6月)

入植地の拡大

 そうしたなか09年2月の総選挙ではカディマが第一党となるが、リクードも議席を増やした。リクード党首ネタニヤフは極右政党「イスラエル我が家」やエルサレムについての協議を否定するユダヤ教超正統派政党「シャス」と3党連立を組み、さらに左派の労働党も加え09年3月末に二度目の首相に就任、以後12年間にわたる長期政権を築いた。政権発足を前にネタニヤフ氏は「パレスチナ自治政府との交渉を継続する」と強調し、国際社会の懸念解消に努めた。
 しかし彼はパレスチナ和平実現への基本的枠組みである「パレスチナ国家の樹立」に反対で、米国のブッシュ前政権が示した「イスラエル・パレスチナの2国家共存」案も拒否。パレスチナ独立に向けて解決しなければならないエルサレムの地位や国境線の画定、占領地ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地の扱いなど「最終的地位交渉」と呼ばれる協議の進展に抵抗する姿勢を崩さなかった。
 また入植地建設問題についても、政権発足当初は「新たな入植地を建設する意思はない」とし、人口の「自然増」を理由に既存入植地での新規建設だけは進める意向を示した。だが後に、既存入植地に留まらずヨルダン川西岸・東エルサレムの新規入植地拡大も容認・促進するようになり、建設計画の承認が相次いだ。
 そのためオバマ大統領との関係が悪化した。オバマ政権は2003年の合意に基づき占領地での入植活動凍結をイスラエルに要求することで、パレスチナ側を08年末以来中断している和平交渉の席に着かせる仲介戦略を採っていた。しかしネタニヤフ首相が入植地拡大姿勢を崩さず、米国の仲介が暗礁に乗り上げてしまったからだ。
 一般に占領地への入植は国際法上違法行為とみなされるが、イスラエルは1967年の第3次中東戦争以降、占領軍の必要に応じて土地の接収を認めるハーグ条約第52条を根拠に、占領した土地にユダヤ人入植地を建設し続けている。ガザ地区については1996年にイスラエル軍が撤退し入植地も全て撤去されたが、ヨルダン川西岸地区には政府公認の入植地が約120(それとは別に、パレスチナ人の私有地に建設された無許可入植地が約100箇所)、東エルサレムにも10以上の入植地が建設されるなど拡大を続けた。
 現在、占領地には200以上の入植地が存在し、その人口は約50万人、イスラエル総人口(約790万人)の6%程度を占める。冷戦が終焉する1990年前後にソ連からのユダヤ人移民が増加したことに加え、右派のリク−ド政権がヨルダン川西岸をイスラエル領とみなす大イスラエル主義を採り入植地を大幅に拡大させたからだ。ネタニヤフ政権は歴代政権の中で最も入植地の拡大に積極的で、人口の増加等を理由に毎年平均2千戸程度を建設している。
 イスラエルが入植地の拡大を続けるのは、人口増や安全保障上の必要に加え、パレスチナ自治政府との領土交渉での取引材料にする狙いもある。ユダヤ人入植者は他所への移住を厭い、またイスラエル軍の保護を受けられなくなることを恐れ、和平の進展に強く反対している。仮にパレスチナ国家が樹立されても、入植地が各地に散在し地理的に領土が分断された状態では国家の体をなさなくなる。
 ネタニヤフ政権は西岸での移動制限や検問、土地利用規制、住民登録・許認可の厳格化などを続けており、ヒューマンライツウオッチなど国際人権団体はこうした一連の政策がパレスチナ人の生活や自治を著しく制約していると強く批判している。そのうえイスラエル政府はテロ対策を名目に、2002年から入植地の周囲に長大な分離壁を築いている。壁の存在は事実上のパレスチナ分断策に他ならず、将来のパレスチナ国家成立をさらに難しくさせている。

相次ぐガザ攻撃

 さらに、ガザに向かう支援船団をイスラエル軍が襲撃・拿捕するなどネタニヤフ政権はガザ地区に対し厳しい封鎖政策を続けたほか、2012年と2014年には大規模な軍事作戦に踏み切った。2012年11月にはハマスの軍事指導者を標的にした空襲で作戦を開始、約1週間の短期戦だったが、イスラエルの激しい空爆とハマス側のロケット弾の応酬で200人近い死者と数千人規模の負傷者が出た。2014年7月にはハマスとの対立が再び激化し、イスラエル軍は地上侵攻を伴う大規模作戦を実施、停戦実現まで50日間におよぶ戦闘でパレスチナ側に2千人以上の死者と1万人を超える負傷者を生んだ。
 さらに2018年にはガザ地区のパレスチナ住民が毎週大規模な抗議運動を展開。これに対しイスラエル軍が境界のフェンス付近でデモを抑えるため射撃などの武力行使に出たことから、200人近いパレスチナ住民が殺害され6千人以上が負傷した。かように、第2期ネタニヤフ政権のパレスチナ政策は、西岸での入植地拡大とガザ地区でのハマスとの武力闘争に終始した。その結果、二国家実現に向けた政策は大きく後退した。

“イスラエルvsアラブ”構図の切り崩し 

 対外政策に目を転じると、ネタニヤフ首相は西側、特に米国との関係を巧みに利用しながら中東におけるイスラエルの影響力拡大に務めた。第2期政権の前半は、入植地問題やイラン核合意を巡りオバマ政権との軋轢が続いたが、続く第1期トランプ政権とは良好な関係を築いた。トランプ政権はエルサレムをイスラエルの首都と認め(2017年)、米大使館をエルサレムに移転(2018年)、2019年にはゴラン高原におけるイスラエルの主権を承認した。
 さらに2020年になるとトランプ政権の仲介で、イスラエルとアラブ諸国(アラブ首長国連邦、バーレーン、後にスーダンやモロッコ)との関係正常化が実現(アブラハム合意)。
 それまでのパレスチナ問題の前提であったイスラエル対アラブという構図を切り崩したことで、ネタニヤフ政権にとって大きな外交的勝利となった。またネタニヤフ政権はイランの核開発計画を断固阻止する姿勢を鮮明化させ、オバマ政権当時の2015年に成立した核合意(JCPOA)を強く批判、トランプ政権と協調してイラン包囲網の形成を支持すると同時に、イランが支援するシリアやレバノンの武装勢力に対する軍事行動も強めた。
 かように第2期ネタニヤフ政権はオバマ政権とは不協和が続いたが、次期トランプ政権との連携の下、イスラエルの安全保障環境を自らに有利な方向へと導くことに成功した。その反面、入植地拡大やガザの実効支配体制強化の政策は二国家解決の可能性を大きく狭めた。また国際世論や人権団体からの批判が強まり、イスラエルの国際的な孤立を深める結果ともなった。
 この間、ネタニヤフ首相は、知人から総額70万シェケル(約3000万円)に上るシャンパンや葉巻を受け取ったほか、イスラエル最大手の通信会社への便宜供与と引き換えに同社傘下のニュースサイトで好意的な報道をさせたなどとして、2019年11月に収賄、背任、詐欺の罪で起訴された。しかしネタニヤフ首相は容疑を否認し、首相の辞任も拒否した。公判は現在も続いている。政治的権力を維持するため、ネタニヤフ首相は極右派や宗教派閥への働きかけを開始し、後に超国家主義者のベザレル・スモトリッチとイタマール・ベン・グヴィルを閣僚に任命している。

中東における紛争基軸の変化

 戦後の中東紛争は、新たに建国したイスラエルとそれを認めない周辺アラブ諸国の抗争であった。しかし四度にわたり中東戦争が繰り返される中、イスラエルの軍事的優位が揺るがぬ現実を前に、アラブの側にイスラエルとの共存を受容する機運が生まれた。そしてキャンプデービッド合意の成立が契機となり、以後、アブラハム合意の成立などイスラエルと周辺アラブ諸国の関係は改善へと向かう。
 その一方、1978年のホメイニ革命以後、イスラム教シーア派による宗教支配が強まったイランは、その存在を認めないイスラエルとの対立姿勢を強めていった。イランが核開発に拘るのはイスラエルの核兵器に対抗するためであり、弾道ミサイルの整備もイスラエル攻撃が念頭にあるといわれている。さらにイランはハマス(ガザ)、ヒズボラ(ヨルダン)、フーシ派(南イエメン)、親イラン民兵組織(イラク)などの反イスラエル武装勢力を支援・組織化し、イスラエルへの攻撃を促している。
 そのためイスラエルは自国の安全保障を確保する必要から、イランが進める核開発や軍事力強化の動きを警戒するとともに、「抵抗の枢軸」と呼ばれるこれら武装勢力の全方位的な脅威にも備えねばならなくなった。つまり中東の紛争基軸は、アラブ諸国とイスラエルの対立からイラン+「抵抗の枢軸」とイスラエルの争いへと変化していったのである。
 パレスチナ自治政府の指導力や政治統制力が弱く、しかもガザ地区がイスラエルの存在を否定しテロやロケット弾攻撃などを繰り返すハマスの支配下にある現状に鑑みれば、二国家共存に消極的だとしてイスラエルだけを一方的に批判する姿勢には問題がある。またイスラエルに対するハマスの抵抗運動を理解する際、それがパレスチナ住民の民意と必ずしも一致してはいない実態も承知しておく必要がある。メディアは度重なるイスラエルの軍事攻撃や強権的な姿勢ばかりを指摘し、非難するが、ハマスの背後には、イスラエルの存続そのものを認めず、しかも核の平和利用を名目に核兵器開発の野望を隠し持ち、さらに中国やロシアとの関係を強めている教強的宗教権国家のイランが控えているのだ。イランはイスラエルだけでなく、湾岸アラブ諸国にとっても重大な脅威となっており、こうした中東地域の現実も正しく把握せねばならない。

4.第3期ネタニヤフ政権(22年12月〜)

司法改革

 2021年、ネタニヤフ氏はナフタリ・ベネットが率いる連立政権に敗れ、野党に転落する。だが翌22年12月に再び首相に復帰。同年11月に実施された総選挙では、ネタニヤフ氏が率いる右派陣営が120議席のクネセット(議会)の過半数を超える64議席を確保した(図表2参照)。このうちリクードは32議席だったが、極右政党連合「敬虔なシオニズム党」が14議席を獲得するなど連立を組む政党が議席を伸ばし、さらに超正統派とも組むことで、ネタニヤフ氏は公判を抱えたまま第3期政権を発足させ、現在まで政権を担当している(図表3参照)。

 ネタニヤフ連立政権が内政面で最も力を入れたのが、司法制度改革だ。2023年1月、ネタニヤフ首相は最高裁判所の権限を制限する司法改革案を推進し、最高裁判所が有罪判決を出しても、議会がそれをひっくり返すことができる法律を成立させようとした。だがこの改革は、ネタニヤフ氏自身が「有罪判決を逃れるための改革」と見られ、イスラエル全土で10カ月近くにわたる大規模な市民の抗議活動を引き起こした。イスラエルが民主主義の国ではなくなるのではないかと、イスラエル国内だけでなく欧米諸国からも批判が相次いだ。イスラエル史上最大規模のデモやストライキが発生するなど内政の混乱を最大の好機と見たのがハマスであった。

ハマスの奇襲攻撃とネタニヤフ政権による力の政策

 2023年10月7日、ハマスはガザ地区との境界線を破壊してイスラエル領内に侵入、音楽祭に参加中の観衆や集団農園(キブツ)を襲撃し1200人以上のユダヤ人らを射殺、255人を人質に取った。この凄惨な大量虐殺事件が、現在のパレスチナ・中東情勢を強く規定することになった。イスラエル国内のムードは一変、国民の世論はハマスに対する報復に集中し、ネタニヤフ政権への批判から目を逸らす結果ともなった。ネタニヤフ首相は事態を「国家存亡の危機」と捉え、野党も加わる「戦時内閣」を発足させた。そして強硬路線を打ち出し、即時の軍事作戦開始を決定。イスラエル軍がガザ北部への地上侵攻に出た。
 国際社会は当初、イスラエルに同情と連帯を表明した。だがネタニヤフ政権が「ハマス壊滅」を掲げ、イスラエル軍によるガザ攻撃が激しさを増すにつれ、国際世論はイスラエル批判を強めていった。ハマスはガザに住む一般のパレスチナ住民をイスラエルからの報復攻撃を防ぐためのいわば盾に利用している。民間人を犠牲にしつつイスラエルへの攻撃を繰り返すハマスの姿勢は許されるべきものではないが、メディアが流すガザ地区でのパレスチナ人の悲惨な惨状が、イスラエルに対する批判を煽った。この流れはいまも続いている。イスラエルの軍事活動を「ジェノサイド(集団殺害)」と表現し、「被害者」だったイスラエルが「加害者」となったと批判するメディもある。
 またハマスの奇襲攻撃を察知できず、1200人以上の市民の犠牲を出したネタニヤフ首相の責任を問う声も強まり、ハマスとの戦闘が終われば首相辞任に追い込まれるのは必至の情勢でもあった。逆に言えば、戦争が続く間はそれを口実に政権を維持できる。ネタニヤフ氏がハマスとの停戦合意を拒否し、戦闘をガザ以外の周辺諸国に拡大させるのはそのためではないかとの指摘も多い。

停戦に向けた努力

 激しい戦闘の後、23年11月に初めて4日間の戦闘休止合意が成立。人質107人が解放された。しかし12月には休止期間の延長ができず戦闘が再開され、イスラエル軍はガザの南部に侵攻。24年4月には南部ハンユニスの地上作戦を終え、5月には最南部ラファとエジプト境界にあるラファ検問所も制圧した。
 米国のバイデン政権はネタニヤフ政権支持の立場に拠りつつ、2024年春〜夏にかけて、停戦→人質交換→復興の枠組みからなる和平案などを提示し、国連安全保障理事会でも関連決議が成立したが、実現には繋がらなかった。11月には国際刑事裁判所(ICC)が戦争犯罪容疑でネタニヤフ首相に逮捕状を発出した。
 24年後半、停戦を求める国際的な圧力の強まりを背景に、バイデン政権はイスラエルの軍事行動を支持しつつも、民間被害増大を理由に人道措置を強く要請するとともに、6週間の停戦→全人質の解放と恒久的な敵対行為の停止→ガザ再建の3段階からなる和平構想の実現をめざした。その結果、米国、カタール、エジプトの仲介による間接協議が実を結び、トランプ次期大統領の就任直前の25年1月15日、イスラエルとハマスとの間で6週間の停戦と30人以上の人質解放で合意が成立した(図表4参照)。合意は3段階に分かれ、

 ▼第1段階:6週間の停戦を実施し、この間、ハマスが、ガザ地区に98人いるとされる人質のうち、33人を段階的に解放する。女性、子ども、高齢の人質の解放を優先させる。イスラエルは、刑務所に収監しているパレスチナ人数百人を釈放するとともに、ガザ地区の人口密集地から軍を段階的に撤退させ、住民が帰還できるようにする。さらに、ガザ地区の住民への人道支援物資の配布を拡大する

 ▼第2段階:ハマスは、残る人質全員を解放し、イスラエルは、ガザ地区から軍を完全に撤退させ、恒久的な停戦を実現する

 ▼第3段階:ガザ地区の再建と復興を開始する。エジプト、カタールなど仲介国が、双方が合意を守っているかどうか監督する

というもので、戦争の早期終結への期待も高まった(1月19日発効)。

 第1段階の停戦は、双方によって実行され、3月1日に期限を迎えた。しかし第2段階への移行に関し、間接協議は暗礁に乗り上げた。軍の完全撤退と恒久的停戦を実施すれば、ハマスに態勢を立て直す機会を与えてしまうとして、イスラエルが難色を示したためだ。そのためトランプ米政権は第1段階の停戦を4月下旬まで延長し、ハマスが残る人質の半数を直ちに解放することなどを内容とする調停案を双方に示した。ネタニヤフ政権は、調停案の受け入れを表明する一方、ガザ地区への支援物資の搬入と電力の供給を完全に停止させ、ハマスに受け入れを迫った。
 だが、もとの停戦合意から大きく逸脱するとしてハマスが受け入れを拒否したため、イスラエルは3月18日、ガザ地区への大規模空爆を実施、戦闘の再開で停戦は崩壊した。ネタニヤフ首相は「今後は攻撃を続けながら、交渉を行う」と述べ、軍事攻撃で圧力をかけながらハマスと間接協議を続け人質の解放を迫る考えを示した。カッツ国防相も「人質が解放されなければ、ガザ地区の一部を併合する」として、ハマスへの圧力を強めた。
 その間、ネタニヤフ政権の連立与党である極右政党「ユダヤの力」党首でハマスに強硬なベングビール氏は1月の停戦合意に反対し国家治安相を辞任。また7議席を持つ「ユダヤの力」が連立を離脱したため与党勢力は57議席となり、国会(定数120)で過半数を割り込んでしまった。審議中の2025年予算案が可決できなければ憲法の規定に従い国会の解散と総選挙の実施は避けられず、ネタニヤフ政権の存続が危ぶまれる状況が生まれた。
 だが軍事作戦の再開を受け、ベングビール氏が国家治安相に復帰。ぎりぎりのタイミングで与党は過半数を回復。予算案可決のめども立ち政権存続に道が開かれた。ネタニヤフ首相がハマスとの停戦合意を無視してガザへの大規模軍事作戦に踏み切ったのは、政権維持のためだと指摘されている。
 戦闘の再開で、ガザ地区の人道危機は深刻さを増した。イスラエルは3月2日以降、ガザ地区への全ての支援物資搬入を停止させ、住民の9割が深刻な食料不足に苦しむことになる。医薬品の在庫も底をつき、病院も攻撃で破壊され、怪我人や病人の治療が困難になった。さらにイスラエルが電力の供給も全面的に停止したため、浄水施設が稼働せず安全な飲み水も確保できなくなった。

「抵抗の枢軸」との闘い

 ガザでの戦闘が激化するに伴い、イスラエルとハマスを背後で支援するイランとの対立も強まった。24年4月、イスラエルは在シリアのイラン大使館を空爆し、イランの革命防衛隊の精鋭コッズ部隊の幹部らを殺害、7月にはハマス最高幹部をテヘランで殺害した。イランも反撃し、弾道ミサイルなどでイスラエルに攻撃を加えた。
 またイランの支援を受ける中東各地の武装組織(「抵抗の枢軸」)がハマス支援の目的でイスラエル攻撃に出た。これに対抗してイスラエルは24年9月、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラに対し大規模な作戦を実施し、最高指導者を含む指導層を次々と殺害、11月末には停戦に持ち込んだ。12月に入ると、ヒズボラの支援を失った隣国シリアのアサド政権が反体制派の反攻であっさりと崩壊。混乱のなか、イスラエルは「抵抗の枢軸」の補給路となっていたシリアの軍事施設を次々に破壊した。イスラエル軍は翌25年7月にもシリア南部スウェイダ県で暮らす少数派(イスラム教シーア派傍系ドルーズ派)住民の保護を名目にシリアの首都ダマスカス中心部にある暫定政府の軍本部などを空爆している。
 またイエメンのイスラム教シーア派武装組織フーシ派がイスラエルにミサイルやドローンの攻撃を繰り返すようになったため、イスラエル軍は24年7月、イエメン西部ホデイダ港の周辺にあるフーシ派の軍事目標を初めて空爆した。ネタニヤフ首相は、イランがホデイダの港を通してフーシに殺傷兵器を供給し、フーシはここを拠点に紅海での船舶攻撃を繰り返してきたと批判。以後、イスラエル、フーシ派双方の空爆やミサイル攻撃の応酬が続いた。隣接するガザやレバノンに加え、イスラエルから離れたイエメンへの攻撃にも踏み込んだため、ガザでの戦闘が中東域内に拡大する懸念が強まった。

イランとの「12日間戦争」

 さらにネタニヤフ政権は25年6月、イランへの大規模な空爆に踏み切った。イランの核開発問題を巡り、トランプ政権は4月からイランと協議を続けていたが、イラン国内でのウラン濃縮を巡り双方の主張の隔たりは大きく、交渉は難航した。イスラエルは、イランの核開発が自国の安全保障に対する脅威であると長年主張し、繰り返し軍事行動を正当化してきた。ネタニヤフ首相は「(イランが)秘密の計画の下で濃縮ウランの兵器化を進めていることは明白だ。非常に速いペースで前進している」と述べ、イランの核保有が迫っていると警鐘を発した。
 そして6月13日未明、イスラエル軍は「立ち上がる獅子」作戦を開始、200機以上の戦闘機でイラン各地の標的100カ所以上を爆撃。攻撃対象は、中部ナタンツのウラン濃縮施設のほか、核弾頭の運搬手段となる弾道ミサイルの開発施設など広範囲に及んだ。首都テヘラン近郊のレーダー施設やミサイル貯蔵拠点、軍事インフラなども標的となり核施設や軍事拠点に大打撃を与えた。この攻撃でイラン国内では600人以上が犠牲になり、最高指導者直轄の軍事組織・イラン革命防衛隊のサラミ司令官ら多くの重要人物も殺害された。イランも報復として、イスラエル最大の商業都市テルアビブやハイファ、エルサレムに向けて弾道ミサイルやドローンなどを発射した。
 6月21日には米軍もイランへの攻撃に加わり、フォルド、ナタンズ、イスファハンにある核施設を空爆した。その後、トランプ大統領が停戦案を示し、イスラエルイラン双方が合意に達し、6月25日停戦が発効した。24日、ネタニヤフ首相はイランへの軍事作戦で核とミサイルの脅威を排除し「歴史的勝利を果たした」と宣言。その上で、イランが核開発を開始すれば「同じ強度と決意で行動する」と警告した。ハマスの後ろ盾になっているイランへの攻撃を国民の7割が支持。大規模な作戦を断行し、イランの戦力や核開発能力に打撃を与えたネタニヤフ氏は「強いリーダー像」を国内に印象付けることに成功した。

ガザ市制圧計画決定・ガザ全域支配めざし軍事作戦開始

 イスラエルは「抵抗の枢軸」との戦いと並行してハマスとの戦いも続け、ガザ地区の75%を制圧したが、ネタニヤフ首相はガザ地区全体の占領を視野に、戦闘のさらなる拡大に動く。8月8日、ネタニヤフ首相は、ガザ北部にある最大都市ガザ市の制圧計画を決定。「武装解除を拒否している以上、ハマスを打倒する以外にない」と述べ、ガザ市制圧計画の正当性を強調するとともに、軍の支配をガザ全域に広げる意向も明言した。イスラエルがガザ地区全体を軍事・政治的に完全に支配し、ハマスを殲滅することが狙いである(図表5参照)。

 9月15日、イスラエル軍はガザ市への地上侵攻を開始、10月上旬までにすべての住民を避難させ、その後、攻撃を本格化しガザ市を制圧する計画だった。ガザ市に住む100万人の住民のうち約35万人が南へと非難を始めたが、市内には多くの市民が残っており、イスラエル軍の攻撃で多数の犠牲者が出た(図表6参照)。

 その間、9月9日にはカタールの首都ドーハでイスラム組織ハマス幹部らを狙った空爆を行い6人を殺害した。カッツ国防相は、今後も海外に拠点を置くハマスのメンバーに対する暗殺作戦などを継続する姿勢を示したが、カタールはガザの停戦交渉の仲介国であるばかりか、米国の同盟国でもある。この攻撃はイスラエルが「一線を越えた」と各国で受け止められ、トランプ米大統領も不満を露にした。この作戦の実施についてはイスラエルの対外特務機関モサドが反対したため、ネタニヤフ首相は戦闘機による空爆に切り替えたとされる。
 かように24〜25年の2年間にイスラエルが軍事作戦を展開した地域は、占領地であるパレスチナ自治区のガザとヨルダン川西岸だけでなくレバノン、シリア、イエメン、イラン、カタールの5カ国に広がった(図表7参照)。脅威とみなせば遠く離れた外国でも先制攻撃を辞さないイスラエルに対し周辺諸国の警戒感は高まった。

パレスチナ国家承認の動き加速

 ハマスによるイスラエル襲撃後、「イスラエルの自衛権を尊重し、軍事作戦に一定の理解を示してきた欧州諸国の姿勢にも変化が表れた。イスラエルがガザへの物資搬入制限を続け飢餓が拡大するなど人道状況が極限まで悪化するなか、イスラエルに圧力をかける狙いから、パレスチナ国家の承認に動いたのだ。
 マクロン仏大統領は7月、主要7カ国(G7)として初めてパレスチナ国家の承認に踏み切る方針を表明。英加豪、ポルトガルなどもこれに続いた。9月には条件付きを含めて計11カ国が承認し、国連加盟国193カ国中150カ国以上がパレスチナを国家承認するようになった(図表8参照)。

 ネタニヤフ首相はこれに猛反発。ハマスによるイスラエル奇襲というテロに「 莫大 な報酬」を与えているとパレスチナを国家承認した国々を批判した。その上で、ヨルダン川西岸で進めているユダヤ人入植地の建設をさらに拡大する方針を示した。2025年には西岸に20か所以上の入植地を建設することが承認され、1993年のオスロ合意以降最大の規模となった。イスラエルの閣僚からは、西岸併合を示唆する発言も飛び出した。カッツ国防相は西岸入植地での演説で「彼ら(欧州の国)が紙の上で国家を承認するなら、我々は現地にユダヤ人国家を建設する」と豪語した。
 入植地の拡大に留まらず、23年10月のガザ戦闘開始以降、西岸では暴力事件も多発。国連人道問題調整事務所(OCHA)が25年8月に出した報告によれば、西岸内ではユダヤ人入植者によるパレスチナ人への襲撃が25年に入り1千件以上発生し11人が死亡、約700人が負傷したという。死者数は24年1年間の数と並び、負傷者数は前年の486人を超えた。住民の収入源であるオリーブの木の伐採や家畜の被害も相次いだ。

20項目のガザ和平計画

 事態の悪化を防ぐため、9月29日、トランプ米大統領はネタニヤフ首相と会談し、ガザ地区での停戦や人質解放を含む20項目の和平計画(「ガザ紛争を終結させるための包括的計画」)を発表した(図表9参照)。先にみたように2023年11月にはイスラエルとハマスの合意により一時戦闘は休止したが7日間で破綻。2024年5月末には当時のバイデン大統領が停戦に向けた3段階の和平提案を示すも協議は難航。ようやく2025年1月、6週間の停戦と人質の解放などで合意したが3月に戦闘が再開、いずれも功を奏していない。

 今回の計画では、イスラエルとハマスの合意後、直ちに戦争を終結させ、イスラエル軍は段階的に撤退することとされた。ハマス側は人質全員を解放し、イスラエル側も終身刑を受けた250人のパレスチナ人と、23年10月のハマス襲撃以降に拘束されたガザの住民1700人を釈放。ガザへの支援物資搬入も全面的に再開されるとしている。ガザはパレスチナ人らの委員会が暫定統治し、ハマスは統治に一切関与しないことも計画に盛り込まれた。
 委員会は関係国首脳らで構成する国際機関が監督する。国際機関のトップにはトランプ氏が就き、トニー・ブレア元英首相らが加わる。治安維持では米国やアラブ諸国などが「国際安定化部隊(ISF)」を創設し、パレスチナの警察部隊の訓練や支援に当たる。ガザ住民に強制退去を求めないことも盛り込まれた。トランプ氏は、ガザ住民を近隣国に強制移住させ、リゾート地に再開発する案を提唱していたが、一部を撤回・修正した。またイスラエルがガザを「占領も併合もしない」ことも明示された。国連安全保障理事会は11月18日、トランプ政権が主導したガザ和平計画を支持する決議案を賛成多数で採択した。決議は法的拘束力を持ち、採択によって和平計画に正当性が与えられた。

和平計画の第1段階に合意

 イスラエル、ヨーロッパ、アラブ諸国はこの提案を支持した。ハマスも人質全員の解放を承認した。これまでの戦闘でハマスはシンワル氏ら最高幹部を軒並み殺害されたうえ、地下トンネルなどの軍事インフラも多くが破壊された。人道状況の悪化に伴い、ハマスに対する住民の反発も広がっており、国際社会が支持する和平案を拒否すれば、イスラエルに戦闘継続の口実を与えることにもなる。
 和平案はハマスにとって受け入れやすい内容でもあった。これまでの停戦交渉では、人質解放後の恒久停戦を求めたため決裂したが、今回は停戦後、米国がイスラエルに戦闘を再開させないと「約束」したからだ。さらに決定的だったのが、中東諸国からの圧力だ。交渉はカタールやトルコが仲介したが、ハマスはカタールに政治事務所を設け、トルコも資金集めの拠点として利用している。両国に見放されるとハマスはガザの外で活動停止に追い込まれるなどイスラム圏の中で孤立する恐れがあったのだ。
 一方、ネタニヤフ政権は、パレスチナに強硬な極右政党を抱えており、ハマスが「壊滅」する前の戦闘終結は連立政権の崩壊にも繋がりかねない。だが、ハマス幹部を標的にした9月のカタール空爆が仇となった。トランプ大統領の逆鱗に触れたネタニヤフ首相は米国の圧力に折れ、和平案を受け入れざるを得なかったのだ。それに伴い、ガザ市制圧作戦は停止された。
 トランプ大統領は25年10月8日、パレスチナ自治区ガザの和平協議を巡り、イスラエルとハマスが米国提案の和平計画の「第1段階」に合意したと発表した(図表10参照)。イスラエルとハマスが停戦に合意するのは23年11月、25年1月に続いで3度目。翌9日、イスラエルとハマス双方がエジプトで合意文書に署名した。ガザで戦闘が止まるのは、1〜3月の一時停戦以来、約7カ月ぶり(図表11参照)。戦闘開始から2年を迎え、ようやく紛争は和平実現に向けて前進し始めたといえる。停戦の後、ハマスに拉致された人質全員が解放される見通しとなった。

 10月13日、エジプト東部のシャルムエルシェイクでガザ地区の戦闘終結と和平を協議する首脳会議が開かれ、トランプ大統領はじめ停戦交渉を仲介したエジプト、カタール、トルコの首脳も合意文書に署名した。過去の合意でも人質の一部が解放されたが、恒久停戦には結びつかなかった。今回の合意を受け、人質の解放が順調に進むかどうかが大きな焦点だったが、13日から人質の解放が始まり、パレスチナ人囚人の釈放も実行された。ガザにおける戦闘の終結も辛うじて実現し、イスラエル軍は一定のラインまで撤退した。

和平計画の第2段階開始:焦点はハマスの武装解除

 その後、人質の解放は予定よりも大幅に遅れたが、26年1月26日、最後の人質の遺体が回収され、遺体を含む人質48人全員が返還された。それに先立つ1月14日、米国のウィトコフ中東担当特使はガザ和平計画の「第2段階」開始を発表した。
 第2段階にあたり、暫定統治を指揮する国際機関「平和評議会」の創設メンバーにルビオ米国務長官やブレア元英首相ら7人が任命された。平和評議会はガザ対応のため安全保障理事会で承認されたものであり、その役割はガザに限定されていると国連は指摘しているが、トランプ政権は「評議会の役割はガザに限定されない」との立場を示している。トランプ大統領は国連に代わる新機関の設立を視野に入れているとの見方も出ている。平和評議会のトップを務めるトランプ氏は欧米、アラブ諸国や日本など60カ国以上に平和評議会への参加を要請した。
 またトランプ政権はガザでの日常的な行政サービスに当たる「行政国家委員会」を設立、完全な非武装化と再建に着手する。同委員会は、政治的に中立なパレスチナ人や専門家らで構成され、「平和評議会」などの監督下に置かれる。このほか平和評議会の下に評議会の構想を具体化させるための組織として「創設執行委員会」や実務面で暫定統治にあたる「ガザ執行委員会」も設立。さらにガザの治安維持やハマスの武装解除を担う国際安定化部隊のトップに米軍のジェファーズ少将が任命された。
 もっとも和平計画の第1段階は「人質の解放と停戦」を、難航が予想される「ハマスの武装解除と恒久的な和平」と切り離し、前者だけで成立させたものであった。そのためハマスの武装解除やイスラエル軍の撤退範囲の拡大などが盛り込まれた第2段階についてはイスラエル・ハマス双方とも否定的な考えを示しており、協議の先行きは不透明だ。
 ハマスは、イスラエルのパレスチナ占領が続く限り武装解除を拒否する構えを崩していない。一方、ネタニヤフ政権の内部でも第2段階の履行を否定する声が上がっている。カッツ国防相は1月25日、ハマスが武装解除しても「完全撤退はしない」と改めて明言。その上で、ガザへの再入植を示唆した。政権を支える極右政党など強硬派の意見を反映したものだが、イスラエルでは26年10月までに総選挙が行われる予定で、ネタニヤフ氏は求心力を保つために極右勢力の意向を無視できない事情がある。また暫定的な統治を担う各機関相互の関係や役割は定かでなく、国際安定化部隊に誰が参加するのかも明確になっていない。「武装解除を拒否する」と表明しているハマスから武器を取り上げる危険な任務を受け入れる国はなかなか現れないからだ。
 「第2段階」の先行きが不透明ななか、25年10月の停戦発効後も散発的な戦闘はやまず、ガザではイスラエル軍の空爆や発砲で700人以上が死亡している(26年3月末時点)。人道状況も改善が見られず、十分なテントや食料、燃料が供給されていないばかりか、イスラエルは昨年末、日本を含む37の国際NGOの活動許可を取り消すと発表。26年1月には東エルサレムにある国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の施設を重機で破壊するなど人道支援活動を妨げている。

再度のイラン攻撃

 ネタニヤフ首相はパレスチナ国家の樹立には一貫して反対の姿勢を崩さず、ハマスの殲滅をめざしている。ガザ地区の復興や和平第2段階への円滑な履行が実現するかどうか懸念が強まる中、26年2月28日、イスラエルは「イランの脅威を排除するため」として、米軍と共に再びイランへの先制攻撃に踏み切った。
 イランは25年6月に米国とイスラエルの攻撃によって多くのミサイルや核施設を攻撃され、軍事力が弱体化した。しかし、保有していた高濃縮ウランの行方は分かっておらず、イスラエルはイランの弾道ミサイル増産やウラン濃縮施設の再建に懸念を深めていた。
 25年12月下旬、ネタニヤフ首相はトランプ米大統領との会談で、イランが核開発を再開している懸念などを訴え、トランプ氏からイラン攻撃の支持を取り付けることに成功した。
 その後、26年2月から米国とイランの間で、核や弾道ミサイルの開発制限、親イラン武装組織への支援停止などを議題とする協議が進められたものの、イランは議題を核開発に限定するよう主張し、濃縮活動については「平和利用」が目的だと強調して放棄を拒否し、話し合いは停滞、長期化も予想された。
 イラン脅威の完全除去に拘るネタニヤフ首相は、イランは既に濃縮度を60%に高めており、20%を超える技術を持つと核兵器に使う90%以上の濃縮度を実現するのは難しくない。協議を続けても、イランが交渉を長引かせ、時間稼ぎをしている間に核兵器を保有してしまう恐れが高いこと、さらに反政府デモが続いたイランの現状を踏まえ、攻撃を加えればハメネイ政権を崩壊させられる可能性が高いとの見通しをトランプ大統領に伝え、トランプ氏もこれに同意し、両国の共同作戦で再びイラン攻撃に出たのである。ネタニヤフ首相は、核保有が差し迫っているとイランの脅威を強調することで米国を再度のイラン攻撃に引き込むことに成功したのである。

“ネタニヤフの戦争”

 初戦における奇襲攻撃でイスラエル軍と米軍はイランの体制転換を狙い最高指導者であるハメネイ氏を殺害した。しかし体制の転換は起きず、米国寄りの政権樹立にも失敗。イランは頑強に抵抗し、報復として湾岸諸国を攻撃、さらにホルムズ海峡を事実上封鎖するなど徹底抗戦の姿勢を強めている。戦争は長期化し、中東全域を戦火に巻き込んだだけでなく、石油の途絶がもたらした経済の混乱や生活危機など世界中の国がこの戦争の影響を蒙り、地球規模の混乱が起きている。
 出口戦略を模索するトランプ大統領は、地上戦実施の威嚇を示しつつも、メンツを保つ形での早期停戦実現に傾いている。だがネタニヤフ首相はあくまでもイランやヒズボラの脅威除去を目指しており、完全停戦には消極的だ。ガザへの攻撃やレバノンへの侵攻、さらに2度にわたるイラン攻撃など、ネタニヤフ政権の下、イスラエルから戦争が絶える兆しは見えない。いま世界全体が“ネタニヤフの戦争”によって揺さぶられているといっても過言ではない。次回はネタニヤフ首相個人に焦点を合わせ、彼の経歴や政治信条、それにイスラエルの政治状況などに触れてみたい。

(2026年4月30日、平和政策研究所上席研究員 西川佳秀)

国際情勢マンスリーレポート
近年の中東の騒乱に深く関わっている人物といえば、イスラエルのネタニヤフ首相である。今後の中東情勢を分析するうえで、彼の思想や政治的信条を理解することは大きな意味を持つだろう。今回は、ネタニヤフ政権におけるパレスチナ問題への対応およびアラブ諸国・イランに対する外交政策などを概観する。

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