東アジアと朝鮮半島 ―南北統一を目指す韓国北方外交の成果と現在―

東アジアと朝鮮半島 ―南北統一を目指す韓国北方外交の成果と現在―

2014年12月5日

南北対話の事例

 戦後の朝鮮半島の歴史は、南北統一を志向する方向で歴史が動いてきたことをまず指摘しておきたい。朝鮮半島は中露日米という4大強国に囲まれており、その歴史は4大強国の利害関係と連動している。それゆえ、4大強国の関係を理解しないと、朝鮮半島における南北問題も解くことができない。
 北朝鮮が、武力に拠らず韓国に歩み寄った例が過去に2回ある。1972年7月の南北共同声明と1991年12月の南北基本合意書である。いずれも、お互いに侵略しないことを確認し合ったもので、その結果、南北国連同時加盟がなった。
 なぜ、北朝鮮は韓国に歩み寄ったのか。まず、1972年の「南北共同声明」の背景には米中和解があった。1972年2月にニクソン大統領が訪中し米中共同声明を発表して、米中和解が実現した。中国が米国と手を握ったため、北朝鮮は孤立状態に陥り、それを打開するために韓国に歩み寄ったのである。
 「南北基本合意書」(1991年)の背景には、韓ソ国交正常化(1990年9月)がある。いずれも周辺国家が変動することで北朝鮮が動き出した実例であり、周辺の4大強国が動くと、北朝鮮が動くという点にポイントがある。

南北分断の起源と要因

 まず南北分断の起源と要因について見ておきたい。主に、次の三つがあげられる。A日本の植民地支配と独立運動、B米国の戦後処理の誤り、C米国の朝鮮戦争への対応である。以下、順次見てみたい。

A.日本の植民地支配と独立運動
 一般に南北分断は1945年を基点に論ずることが多いが、実はそれ以前から、南北分断の起源があり、少なくとも1919年まで遡る必要があると思われる。1919年3月1日の、いわゆる「3.1独立運動」である。1910年に日本が韓国を併合した結果、国を失った韓国の人々は1910年ごろから独立運動を始めた。その独立運動が変化する基点が、1919年3月1日の独立運動であった。
 それまでの独立運動は、漠然と日本からの独立を考えていたが、1919年3月1日を前後して、独立後にどのような国家を造るのか、その理想をめぐって大きく二つのグループに分かれていった。一つは、ソ連をバックとして共産主義運動と独立運動を兼ね備えた運動。もう一つは、米国をバックとして、自由民主主義国家を造ろうとする運動であった。つまり、独立運動が新国家建設運動の性格を持つようになったのである。
 1948年までの3年間に統一国家を造ろうとした二つの運動は、結局それぞれ分かれて結実し北朝鮮と韓国に分断されたのである。米ソの戦略に巻き込まれたという側面だけでなく、朝鮮民族の歴史の中にも分断に至る主体的要因があったということである。

B.米国の戦後処理の誤り
 もう一つは、米国の戦後処理の誤りである。具体的には、ヤルタ協定(1945.2.4)で連合国側にソ連を入れてしまったことである。米国は、ソ連に対日参戦してもらうために、ソ連を連合国の一員に入れてしまった。
 ヤルタ会談では朝鮮半島の独立は決まっており、その形態として連合国の信託統治をある期間行なうことになっていた。ソ連は連合国の一員に入ったことで、信託統治の一員になれる、すなわち、少なくとも朝鮮半島の半分はソ連の影響下に置くことができると理解した。ルーズベルト大統領は、ソ連の共産主義の性格(本質)と世界戦略が分かっていなかったのである。
 曽野明氏によれば、ソ連共産主義の特徴は次のようなものであった(『米ソ戦わず』、欧亜協会)。目的は世界の共産化にあり、そのために以下の原則をとる。
 [1]資本主義を廃止して、社会主義体制の実現が唯一正しいという信念をもつこと。ゆえに資本主義は敵である。
 [2]社会主義体制実現のためには議会制度などに頼ってはダメで、暴力(戦争)をもってしてでも決行しなければならないという信念をもつこと。故に社会民主主義者は敵である。
 [3]ソ連を共産党が最初に政権を取った唯一の「祖国」と考え、その指揮命令には絶対服従しなければならず、「祖国」ソ連の防衛に挺身し、民族意識などはすべて清算すること。故に、民族的共産主義者は敵である。中ソ対立の要因は、[3]にあった。
 この点について曽野明氏は次のように説明している(『ソビエト・ウォッチング40年』)。「19世紀のロシアにはロシア人が救世主であるとする“解放”思想があった。たとえば1880年ごろ、ポーランドの太守ムラヴィヨフ伯爵は『余はロシアが世界中、アジアのみならずヨーロッパにおいても、いかなる国民も有しない文化的使命を有することを信じる。われらロシア人は新時代を双肩に担い、疲れた人類を救わんがために来たものである』と言った。このロシア人救世主思想を土台としてマルクス主義を読めば、ソ連共産主義が理解できる」。
 ソ連の基本戦略は何か。[1]「祖国」ソ連を政治的、経済的、軍事的などあらゆる面で強化し、「革命の基地」ソ連が犠牲を蒙らないように常に周到な注意を怠らない。従って、米ソ戦わず、ソ連は米国とは絶対戦争をしない。
 [2]「祖国」ソ連の実力的な援助があってはじめて、各国の共産革命は成功するという見地に立つ。ソ連と他の共産国家は上下関係にある。
 [3]民主主義陣営が一致団結しないように、また防衛体制が完成しないようにあらゆる妨害を加える。
 レーニンの戦略に、それが集約されている。「全世界にわたる社会主義(共産主義)の最後の勝利をうるまで、長い期間にわたって、われわれの基本的原則となるべき戦術がある。それは資本主義諸国の二つの体制間の対立を利用して、それら諸国を互いにかみ合わせることだ。われわれが全世界を征服せず、またわれわれが経済的にも軍事的にも資本主義陣営よりも劣勢であるうちは、この戦術を守らなければならない」(1920年11月)。
 これに基づいて、ソ連は東アジア戦略を立てていただが、米国にはそれが分かっていなかった。例えば、ソ連は、太平洋戦争で日米を対立させて戦わせれば、最終的に日本が負けるだろうから、敗戦後の日本を闘わずに支配できると考えていた。そのために日ソ不可侵条約を結び、日本を南進政策に導き、米国の影響圏をもつ東南アジア諸国などに侵攻させて日米対立を煽り、太平洋戦争に導いた。
 最終的に、ソ連はヤルタ協定によって連合国の一員となり、終戦直前に日ソ不可侵条約を一方的に破って旧日本領(満洲、朝鮮半島)に「解放軍」として入ってきた。そして政治的空白を利用し、共産化を進めたのである。
 このようなソ連の東アジア戦略は、早くも1920年ごろから画策されていた。米国は、ソ連の戦略を知らなかったために、日本の敗戦によって空白となった満洲や朝鮮半島に対して手を伸ばすことができず、ソ連に明け渡す結果となったのである。

C.米国の朝鮮戦争への対応
 マッカーサーは38度戦を超え、最終的に武力で朝鮮半島を統一する意図をもっていたようである。中共軍が参戦してきたとき、マッカーサーは原爆を投下してでも朝鮮半島を統一することを考えたが、米政府は逆にマッカーサーを解任し、休戦した。
 ソ連は、表面上は参戦しなかった。当時は米国が軍事力で圧倒しており、核戦争の脅しをかけられた場合、ソ連は手を出せない状況にあったためである。
 しかし、ソ連は実質的には参戦していた(NHKの番組より)。毛沢東の要請によりソ連軍は空軍を派遣し、ソ連軍人に中国軍の軍服を着せて出撃させた。ただし、米国の支配地域には飛行させなかった。
 スターリンは、「米国と戦ったという証拠を残したくなかった」と後に語ったという。米国との戦争に引き込まれるは絶対に避けたいが、中国の要請を断るわけにもいかない。そこで、そのような知恵を使って対応したのである。このことが、後の中ソ対立の一因となった。

米中和解による北朝鮮の平和攻勢路線への転換

 中ソ対立の思想的な原因は、先に述べたとおりだが、具体的には朝鮮戦争を経験した中国が「ソ連は社会帝国主義である。中国を駒の如く扱う国だ」と考えるようになったことに起因している。事実、中ソ対立は朝鮮戦争休戦の後、数年して表面化している。このように朝鮮半島問題が、世界を大きく動かす要因になった。
 中国は、ソ連と長い国境を接していることから、ソ連に対抗するために、朝鮮戦争で敵対した米国と手を結ぶ戦略を立てた。中ソ対立ゆえに、米中和解(1972年2月)がなり、米中和解が北朝鮮に大きな影響を与えることになった。
 中ソ対立により、北朝鮮はどちらにつくか選択を迫られたが、朝鮮戦争で血の流して助けてくれた中国につくことを選択した。ところが、中国で文化大革命(1966-76)が起きて経済がダメになると、その余波を受けた北朝鮮も経済がダメになった。
 また米中和解により、中国が敵国である米国と手を握ったために、北朝鮮は南北統一戦略を再構築する必要に迫られた。
 武力によるシナリオはどうか。武力侵攻すれば、在韓米軍、すなわち米軍と戦争して勝たなければならない。しかし、米中和解をした中国は北朝鮮を助けてくれそうにない。ソ連もまた世界戦略上、米国とは絶対戦争をしない。結局、米中和解(1972年)以降、武力侵攻による南北統一の道は自滅につながると、北朝鮮は理解した。
 そこで話し合いでも、戦争でもない方法を探すことになった。それが平和攻勢である。韓国で北朝鮮になびく政権が樹立されるよう工作を始めたのである。まず、対話路線をとった。その具体的な動きが「南北共同声明発表」(1972年7月)であった。
 それと同時に、対南工作活動を開始した。例えば、北朝鮮を賛美する国会議員を選挙で当選させるために、世論の工作を進めるべく工作員を韓国に潜入させた。また韓国内の民主化運動を上手く利用した。学生運動の中に、主体思想を浸透させるべく「主思派」を養成していった。

平和攻勢路線が生んだ日本人拉致

 潜伏した工作員が(警察・情報院などに)捕まらないように、韓国人を拉致して工作員にしたて、外国人の立場で工作員にすることを考えた。そのための一つが、日本人拉致であった。
 北朝鮮は、1971年11月に日朝友好推進議員連盟を結成し、翌年1月には日朝貿易推進合意書を調印した。北朝鮮は対話路線を推進するその裏で、日本人拉致を進めていた。北朝鮮の工作員に日本語・日本の文化の教育をさせるために、日本人を拉致して北朝鮮に連れていくことを考えたのである。それゆえ日本人拉致事件は、米中和解以降に多発した。横田めぐみ(1977.11)、田口八重子(78.6)・地村保志(78)など、70年代後半以降に日本人拉致事件が多発しているのは、このような背景がある。
 このように日本人拉致事件が、南北統一問題とリンクしていることが分かる。逆に言えば、拉致問題は南北統一問題の解決なしには動かないことになる。日本人拉致事件が、「日本帝国主義」に対する怨みを原因とするならば、北朝鮮が成立した年以降から続いていなければならない。しかし、拉致事件が70年代後半から80年代初めに集中していることとから、そうではないことがわかる。

韓国の南北統一政策と北朝鮮の変化

 1972年以降、南北対話が始まった。しかし、北朝鮮は最終的に在韓米軍撤退を要求したため、南北の対話は決裂し、断絶状態が続いた。それが大きく動いたのが、1985年以降である。ここに関係するのが韓国の南北統一政策と北朝鮮の関連である。
 韓国の南北統一政策(武力に拠らない平和統一政策)には、主なものとして次の段階がある。
(1)先建設・後統一政策(朴正煕大統領)
(2)北方政策(全斗煥、盧泰愚大統領)
(3)太陽政策(金大中大統領)
 従来これらの政策は別個のものと考えられていたが、よく調べてみるとこれらが連動していることが分かる。

・先建設・後統一政策:朴正煕大統領(1961-79)
 この政策は、韓国が主導して南北を統一するためには、まず朝鮮戦争後の荒廃から韓国が立ち直り、経済力・技術力を高めて近代化を達成する、まず韓国の近代化・現代化を図るという考え方である。
 朝鮮戦争の後、韓国は、米国から毎年2億ドルあまりの援助を受けていたが、米軍の援助だけでは国家を維持するのが精一杯で、経済成長の為に投資に回す余裕はなかった。それで朴正煕大統領は、日本と国交正常化し、資金を得ることを考えたのである。
 1965年6月に日韓国交正常化がなり、日本から「経済協力金」の名目で5億ドルの資金を得ることになった。その結果、韓国は経済力・技術力を高めて「漢江の奇跡」を成し遂げることが出来た。しかし「経済協力金」は賠償金ではないため、日本は条約上、正式な謝罪をしていないことになり、そのことが現在に至るまで日韓の歴史認識問題の原因ともなっている。

・北方政策(1985-92):全斗煥大統領(任1980-88)盧泰愚大統領(任1988-93)
 北方政策には、経済力と技術力が必要であり、朴正煕政権時代の経済発展なしにはできなかった。北方政策が立案されたのは、およそ1985年、完成するのが92年である。
 北方政策とは何か。盧泰愚大統領は、「南北統一問題に関する特別宣言」(1988年7月7日)を発表しているが、その中に次のような文言がある。
 「朝鮮半島の平和を定着させる条件を造成するために、北朝鮮が日本・米国等、わが友邦との関係を改善するにおいての協力を行なう用意があり、わが方は、ソ連・中国をはじめとした社会主義国との関係改善を追求する」。
 韓国が、北朝鮮の後ろ盾である中国・ソ連との国交正常化を行なうという宣言であり、これが北方政策の一つのポイントである。社会主義諸国、すなわち北朝鮮との同盟国と韓国が国交正常化を進めるということである。これは北朝鮮からみれば、国際的に包囲されることを意味する。
 北方政策のもう一つとの側面は、経済政策である。南北経済交流を推進し、北朝鮮経済の韓国依存化を図ったのである。当時中ソは経済的に厳しい状況にあり、十分に対北朝鮮援助ができなかった。このため、韓国が提案した南北経済交流推進を北朝鮮は拒むことができなかった。南北の経済格差が顕著であったため、経済交流が進展すればするほど、北朝鮮経済は韓国経済への依存度を高めてくことになった。
 このように、韓国は外交・経済両面で北朝鮮を韓国との対話の場に引き出し、平和裏に統一を進めるレールを敷いていったのである。
 韓国の北方政策には、日米の協力が不可欠であった。当時、日本は中曽根首相、米国はレーガン大統領だったが、二人は韓国の北方政策を支援したようだ。そのことを傍証する内容がある。1985年のボン・サミットの折、日米首脳会談が行なわれたが、中曽根首相に随行した山崎拓(元官房副長官)が次のように語っている(日経Web刊、2011.1.20)。
 中曽根首相が「冷戦解消」の提案を次のようにした。「冷戦構造の東西のフロントは欧州のベルリン、朝鮮半島の38度線だ。ベルリンの壁の解消は米国主導で、NATOでやってくれ。38度線に関しては、韓国は中国、ソ連と国交がない。北朝鮮は日本、米国と国交がない。だから一気にたすき掛け承認をやって、38度線を取り払おう」。
 レーガンが「ちょっと待ってくれ」と言って、シュルツ国務長官とワインバーガー国防長官を連れて別室に行った。しばらくして戻ってきて「今の中曽根首相のオーファーをわれわれは了承する」と言ったという。
 当時、中曽根首相は安倍晋太郎氏に「あまり公けにするな」と口止めしたため、このことは知られていないようだ。中曽根首相の著書にも書かれていない。

・北方外交の展開(1987-92)
 北方外交の構想は85年ごろに立案され、87年ごろから動き出した。かつて日韓国交正常化交渉にもかかわり日本語もできる朴哲彦・大統領秘書官(当時)が、主要な役割を果たしたとされる。
 既に述べたように、北方外交は国際的な北朝鮮包囲網の構築を目的としていた。北朝鮮と同盟関係にある社会主義諸国と国交樹立を行い、最終的なターゲットは中ソとの国交樹立にあった。
 それで、韓国はまず東欧の社会主義国に働きかけた。第一に選んだのがハンガリーだった(1987~)。朴哲彦が「在米韓国人」の肩書きでハンガリーを訪問し、グロス書記長と交渉し、最終的に国交正常化を成し遂げた。
 当初、グロス書記長は国交正常化には難色を示し、経済交流のみを考えていたようだ。しかし、当時ハンガリーは経済危機にどのように対処すべきか、将来どんな経済のしくみを作ればよいか悩んでいた。結局、経済問題を解決するには、韓国と国交樹立し、韓国の経済援助を求める必要があると考えた。朴秘書官は「国交正常化をすれば、経済援助をします」と言って説得したという。
 こうして1989年2月に国交樹立がなされた。韓国とハンガリーの国交樹立には、北朝鮮が相当反発して、在ハンガリー大使館を格下げしたりして対抗した。
 その後、1年以内に(1989-90)、経済的困難を抱える東欧の社会主義諸国5カ国が韓国と国交を樹立した。当時の東欧社会主義国は、先進大国に経済援助を求めると従属関係に陥る可能性があることを憂慮していた。韓国であればそのような心配はないとして国交樹立を進めたようだ。
 東欧諸国との国交正常化を実現した上で、韓国は対ソ国交正常化交渉に臨んだ。朴秘書官は二度ほど訪ソして交渉を進めた(最初が1988.8)が、交渉は難航した。最終的に、朴秘書官は、ゴルバチョフのアジア外交ブレインであったワシーリェフ・ロシア科学アカデミー東洋学研究所副所長に会って交渉を進め、ゴルバチョフに会う道が開かれた。
 ワシーリェフ副所長は、次のように考えたという。「韓国との国交樹立によってもたらされる利益を考えた。わが国の経済状況は厳しく、その解決が重要な課題だった。韓国と経済・貿易関係を利用することがわが国の困難な状況を解決する一つの道だと考えた」と。
 韓国政府がどうしても実現したかったのが、韓ソ首脳会談だった。サンフランシスコで韓ソ首脳会談が実現し(1990年6月)、同年9月に韓ソ国交樹立をみたのである。
 もう一つが中国との国交樹立である。対中北方外交を展開しようとしていた折、起きた事件が韓国沖での中国魚雷艇乗員の反乱事件である(1985年3月)。それまで、韓国首脳は中国首脳とコンタクトを持つことができずにいた。この事件で、韓国側は遺体を中国に引き渡すことにしたが、これが中国とコンタクトを持つきっかけになった(朴哲彦)。
 1980年代後半から韓国企業の中国進出が始まり、北京とソウルに貿易代表部が設置された(1990年10月に設置合意し、92年1月に設置)。これによって国交正常化の前段階までいった。中韓貿易は、1990年ごろから急激に増え、中朝貿易額を凌駕するまでになった。これによって北朝鮮は経済的にも孤立する状況が生まれてきた。
 1991年5月に中国の李鵬首相が訪朝して中韓国交正常化を通告、1992年8月に中韓国交正常化がなった。このように中ソとの国交正常化が達成され、北朝鮮は外交的に包囲されてしまった。

・南北経済交流(1989~ )
 南北の経済交流合意後、具体的に交流が始まったのは1989年である。経済交流が進めば進むほど、北朝鮮は韓国経済に依存するようになり、それはやがて外交面にも影響を及ぼすようになった。
 韓国は、北方政策によって政治的には直接北朝鮮には働きかけず、背後の中ソと国交を結ぶとともに、直接的には北朝鮮と経済交流を開始し、外交的に北朝鮮を包囲したのである。

北朝鮮の路線転換と日朝国交正常化の模索

 北方政策が進展することによって、北朝鮮は外交的にも経済的にも包囲されてしまった。このため、自滅するか、韓国に経済的に吸収されてしいかねない危機に陥った。南北が対等な立場で統一を図るには、北朝鮮はまず経済を再建し、次いで外交包囲網の打破する必要に迫られた。それなくして、北朝鮮が生き残る道はなくなった。
 北朝鮮としては中ソにより依存していく道もあったかもしれないが、結局日米に接近する道を選んだ。その背景には、ベルリンの壁の崩壊後のソ連の東欧衛星国への対応がある。ソ連が東欧衛星国に介入しなかったため、中ソに依存することに危機感を抱いたのである。仮にソ連が東欧諸国に介入していれば、北朝鮮は異なった対応をとっていたかもしれない。
 北朝鮮は、まず外交的包囲網の打破と経済援助を引き出すために、日本との国交正常化交渉を進めた。日朝の外務省間の交渉記録を見てみると、1991年から92年の間に集中している。北方政策が完結した後に、北朝鮮が動き出したことがはっきり分かる。
 日本は、拉致問題の解決なしに国交正常化はできないとして、1992年11月の第8回日朝交渉を最後に交渉は決裂した。そこで、北朝鮮は米国との交渉に移った。具体的な対米接近は、1992年初めから行なわれている。
 2000年の南北首脳会談で、金大中大統領が金正日総書記と会談したときに、金大統領が米朝会談の仲介を申し出た。それに対して、金正日総書記は次のように語った。
 「(金大中)大統領に秘密事項を申し上げよう。1992年初、米国共和党政府の時期に、金容淳秘書を米国に特使として送り、米軍がそのまま残って南と北朝鮮が戦争をしないように阻む役割をしてほしい。東北朝鮮アジアの力学関係から見て、朝鮮半島の平和を維持するためには米軍がいた方がいいと要請した」。
 それまで北朝鮮は、在韓米軍の撤退を主張してきた。ところが、このとき「(南北が戦争をしないようにするために)在韓米軍はいても構わない」といったのは、対米関係改善に向けて92年から工作を始めていたからである。北方政策が完成した後、すぐに対米交渉を開始したことが分かる。
 1993年から94年にかけて、北朝鮮は対米国交正常化交渉を始めた。米朝国交正常化が実現すれば、日朝国交正常化は自動的に芋づる式に進むと考えたようだ。そのとき問題となったのが、北朝鮮の核である。北朝鮮の核問題は、1993年ごろに初めて国際的な問題となった。
 1993年3月に、北朝鮮はNPTからの脱退を宣言した。北朝鮮の核は、対米戦争の手段ではなく、対米交渉に道筋つけるためのものであった。クリントン政権は、話し合いで解決する方針で臨み、最終的には94年10月に米朝枠組み合意を見ることになる。その内容は、北朝鮮は核開発を凍結し、その見返りとして米国は軽水炉型原発の建設、重油の供給、国交正常化交渉の継続を約束した。
 米朝2国で決めた枠組み合意によって、ニューヨークに「朝鮮半島エネルギー開発機構」(KEDO)が設立された。それに最も多く資金提供したのは韓国(11億ドル)で、次いで日本(4億ドル)だった。しかしその後、北朝鮮が秘密裏に核開発していたことが明らかになり、この計画は廃止された(2005年11月)。そこで日本は、日本も入れる枠組みとして6カ国協議を提案したのである。
 米朝国交正常化が難しくなり、北朝鮮は再び日朝国交正常化交渉に戻ってきた。日朝国交正常化交渉は、2000年4月から再開されている。その前年、1999年2月に金大中政権が成立し、同年金大中―金正日会談が行なわれた。そのとき金大統領は、日朝国交正常化の推進と謝罪要求、そして拉致問題の解決を勧めた。それを踏まえて日朝交渉が再開し、2年後の2002年9月の日朝首脳会談が行なわれた。
 その過程で、拉致問題の謝罪と数人の拉致被害者が帰還することになった。
 この過程をみると、韓国の北方政策の結果、北朝鮮が日本との国交正常化を強く望むようになり、その結果日朝国交正常化交渉が進んだことが分かる。

日朝首脳会談での金正日総書記の発言

 金総書記「核の問題は、これは米朝の問題である。日本と話す問題ではない。アメリカは約束を守らない。アメリカが朝鮮と関係を改善しようという意志は1%もないのではないか。アメリカは朝鮮を「悪の枢軸」と言った。アメリカは口先だけであり、行動はしていない。戦うのか、話し合うのか。われわれは実際に戦ってみないといけないと思っている。」
 「しかし、われわれとしては、常に門戸を開いている。だからわれわれはブッシュ大統領が話をしたいというのであれば話し合う用意はある。アメリカも誠意を示すべきだ。日本はアメリカと同盟関係、アメリカと最も信頼関係のあるアジアの国である。日本のリーダーである小泉総理にこの問題の解決のために努力してもらいたい。」
 小泉総理「誤解があると思う。アメリカには先制攻撃の意思はない。お国(北朝鮮)の安全の保証の問題もアメリカに日本や中国を含めて解決することも十分可能ではないか。」
 金総書記「そういう可能性もあるだろう。しかしわれわれの憂慮の発端は、アメリカの対外政策が対南(韓国)一辺倒だというところにある。朝鮮は敵であり、南朝鮮は同盟国であるとの対応の仕方である。アメリカが真に大国として影響力を発揮できるためには、すべての問題を平等に設定し、われわれへの敵視をやめるべきである。」
 金総書記「既に申し上げたが、われわれとしても核を持っている必要はない。核を持ち続けるというのではなく、凍結するので検証せよと主張しているのである。ただ信頼がない中で先に行動せよと言っているが、こういう中では先に行動は取れないし、信頼構築がなされてからわれわれは行動しようというのである。凍結対補償によって信頼関係が築かれるよう時間はあるので、われわれもアメリカと話すことを望んでいる。この点をアメリカ側にうまく伝えていただきたく、正しく問題をみるようにさせてほしい。」
 小泉総理「金委員長が、凍結が核廃棄の第一歩ということならばブッシュ大統領に働きかける。ブッシュ大統領としても敵視政策をとる考えはない。」
 金総書記「六者協議も重要だが、われわれは六者協議を通じてアメリカとの二重合唱を歌いたいと考えている。われわれは喉が枯れるまでアメリカと歌を歌う考えである。その成功のために周辺国によるオーケストラの伴奏をお願いしたい。伴奏がすばらしければ二重唱は一層良くなるのだ。」

六カ国協議の設置と米朝

 米国は過去の米朝交渉の失敗を反省、ブッシュ政権になってから米朝二国間協議を見直し、日本の提案した六カ国協議に乗っていくことになる。六カ国協議の場で日本(小泉政権)は米国に対して、北朝鮮に先制攻撃をしない旨の文言を合意書に入れる努力をして、米朝関係改善を斡旋した。
 しかし、他の五カ国は北朝鮮の核開発(保有)に総て反対であるから、六カ国協議は北朝鮮にとっては何のメリットもない。そこで北朝鮮が六カ国協議からの脱退をほのめかし、米国はそれを留意させようとする。それに対して北朝鮮は、「米国との直接会議を持つ場がもてればいい」と答える。そこで米朝部会、日朝部会が設置し、北朝鮮はテーブルに戻ってきた。
 北朝鮮は、何としてでも米国と国交正常化をしたいと考えている。2007年3月にニューヨークで、金桂寛外務次官とキッシンジャー元国務長官との会談が行なわれた。そのとき金外務次官は、「米国は、わが国(北朝鮮)の戦略的価値をよく知っているのではないか」「米国が中国を牽制しようとするなら、わが国を(米国の側に)引きつけておくべきです」と言った。

―――これは米国が近い将来、成長著しい中国と政治、経済など各方面で利害関係が衝突するとも言われている。そうなった場合、北朝鮮は核保有国として米国側にたつことも出来るという理屈である。北朝鮮は米国に利益を提供できれば、核保有国の地位を維持できると考えている。核武装したまま米国と良好な関係を維持しているインドやパキスタンと同じ立場を目指すという北朝鮮のしたたかな戦略である。(「読売新聞」2007.11.13)。

 ブッシュ政権のとき、米朝国交正常化交渉は成立寸前まで行った。米国は核開発の完全放棄を要求したが、北朝鮮は核開発を凍結し、核施設の爆破も行なうなどの姿勢を見せたものの、完全放棄には応じなかったため、交渉は暗礁に乗り上げてしまった。そこで北朝鮮は、核実験を実施し始めた(2006/10/9、2009/5/25、2013/2/12)。核実験は、米国を交渉の場に導きだすために行なっている面がある。
 さらに、2010年1月には黄海上で威嚇射撃を行い、続いて韓国哨戒艦沈没事件(2010/3/26)、韓国延坪島砲撃(2010/11/23)などの武力行使を行なった。これは、朝鮮半島が危機的状況にあることを演出するためであった。
 それに対して米国は、空母を派遣し、米韓合同軍事演習を行なうなどの対応措置を取った。米国が「北朝鮮の攻撃行為は休戦協定違反だ」と主張すると、北朝鮮は「このような状況になるのは、休戦協定のままであるからだ。平和条約を結んで朝鮮戦争を終結させれば、このようなことは起こらない」と米国に責任を転嫁した。北朝鮮は、平和条約を結び、米国による北朝への鮮先制攻撃がないことの保証を得たいのである。

・太陽政策(1998-2007)
 太陽政策に関しては、批判も多い。しかし、北方政策の後に太陽政策がとられた点を考慮すれば、別な見方も出てくる。
 太陽政策の目的は、[1]南北の平和的な統一基盤の構築、[2]南北の和解と交流による北朝鮮の改革・開放、[3]経済支援による南北経済格差の解消などである。これを推進したのが、金大中大統領(任1998-2003)と盧武鉉大統領(任2003-2007)であった。しかし、同じ太陽政策といっても、性格はだいぶ異なっている。
 まず、開城工業団地を造成し、韓国の経済力・技術力を導入して北朝鮮国民を教育しながら製品を作り、世界に販売する。そして北朝鮮に技術の蓄積を図る。
 日本は拉致問題が未解決のために経済制裁を行なっているが、韓国は日本以上に拉致被害がありながらなぜ経済援助を続けたのか。それは、中国と北朝鮮との経済関係がリンクしている。
 中国は朝鮮半島については現状維持を望んでおり、北朝鮮が核実験をしても経済援助を継続してきた。中国が経済成長し、中朝貿易も拡大している中で、日米の経済封鎖に韓国も加われば、北朝鮮は中国の支配下に入らざるを得ない。そうなった場合には、南北統一の枠組みが崩れてしまい、統一は永遠にできないことになる。
 それで、韓国は北朝鮮がいくら核実験を行なっても、中国の影響圏に取り込まれないように、経済援助を行ってきたのである。問題は、韓国と北朝鮮との貿易量が、中朝貿易量とは比較にならないほど少ないということである。北朝鮮が中国の影響下に完全に入らないよう、いくら韓国が経済援助しても、韓国の力だけではその流れを止めることはできない。それができるのは唯一米国だけであり、ゆえに米朝を連結させようとした。そう考えたのが、金大中大統領だった。
 金大中政権は、北方政策を引継ぎながら、まず南北統一の枠組みを確保するために、北朝鮮が中国の影響圏内に呑み込まれないように、中朝関係を牽制するしくみを作ろうとした。そのために南北首脳会談を行い、米朝関係改善と日朝関係改善のために説得した。金大中政権は、日米との関係を維持しながら、北朝鮮と日米を連結させようとしたのである。
 しかし、盧武鉉大統領の外交政策は、バランサー国家論が基本にあった。朝鮮半島は、東アジアにおける大国のバランスを取る一つの軸であるという考えだ。韓国の周辺には、日本、米国、ロシア、中国の大国があるが、それらの大国と全方位にバランスの取れた外交を展開しようとした。しかしバランスを取ると言いながら、軸足を中国に置いたために、日・米との関係が悪化した。

朝鮮半島の統一問題の展望

 以上のように、韓国の統一政策は、歴史的な視点でとらえると、先建設・後統一政策、北方政策、太陽政策と段階を経て上手く展開されて来たように見える。
 北方政策を成功させるためには、経済力・技術力が不可欠であり、朴正煕政権時代の経済発展が必要であった。それは、日韓国交正常化(1965)によってもたらされたと言ってよい。その上で北方政策を展開し、中ソとの国交樹立をなし遂げて、北朝鮮を外交的に孤立させることによって日米韓の陣営に上手く誘導し、さらには太陽政策によって北朝鮮が中国の影響圏から離脱をはかれるような形で変革を促し、日米韓の影響圏の中で南北統一を果たすことができるように展開してきたのであった。これに対して北朝鮮の動きはその国際情勢の変化に敏感に反応してきたことから、北朝鮮ほど動きがわかりやすい国は無いということも言えるであろう。
 このような流れを踏まえて、今後の東アジア情勢、特に朝鮮半島の統一問題を展望してみると、まずポイントとなることは、北朝鮮を日米韓の影響圏のなかで変革させる枠組みを維持することである。これには日米韓の良好な信頼関係が必要となる。今日の慰安婦問題や歴史問題などで日韓関係がギクシャクしていることは、南北統一問題にまで影響を及ぼす問題であると認識すべきである。
 もう一つのポイントは、金大中政権の太陽政策が意図したように、北朝鮮を中国の影響圏に入らないようにすることが重要である。そのためには中国の影響圏を牽制するために、北朝鮮と米国の関係改善を推進することが重要であろう。
 このような視点から今日の韓国の朴槿恵政権の外交政策を見ると、危惧することがある。それは対日関係の悪化と反比例するように、対中関係が深化していることである。今回のAPEC首脳会議(2014.11.11)において朴槿恵大統領は、中国が提唱したアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)の実現へ積極的に支持すると表明した。韓国はこれまで中国との自由貿易協定(FTA)も妥結しており、このような発言は、米国が提唱する環太平洋経済連携協定(FTA)よりも中国が提唱するFTAAPに強い関心があるものとしてとらえられるであろう。もちろん、このことがすぐ米国の影響圏から離脱することを意味するものではないにしても、今後の米韓関係に微妙な影響を与えはしないか危惧される。
 一方、中国は、北朝鮮の扱いに苦慮していることから今後、中国も南北統一を推進しようと考えることが予想される。もちろん中国の考える南北統一は、中国の影響圏の中での統一であろう。そのためには中韓の連携が重要であるため、対日歴史問題や経済交流を通して韓国の囲い込みをはかろうとしているのではないかと思われる。
 近い将来、南北が統一される場合、それが中国の影響圏での統一か、それとも米国の影響圏で日米韓が主導する統一かが注目されるであろう。もちろん、日本の国益を考えれば、後者の統一が望まれる。したがって、朝鮮半島の南北統一における今後のポイントは、米朝国交正常化と日朝国交正常化がどのように展開されるかに注目すべきであろう。そういう意味において日本人拉致問題は南北統一にまで影響を及ぼす問題でもある。

《参考文献》

●研究文献
西村明・渡辺利夫編『環黄海経済圏 -東アジアの未来を探る-』九州大学出版会 1991.10
金淑賢『中韓国交正常化と東アジア国際政治の変容』2010.3 明石書店
道下徳成『北朝鮮 瀬戸際外交の歴史-1966~2012年-』2013.6 ミネルヴァ書房
中居良文編『中国の対韓半島政策』学習院大学東洋委文化研究叢書 2013.12
長谷川和年『首相秘書官が語る中曽根外交の舞台裏-米・中・韓との相互信頼はいかに構築されたか-』2014.2 朝日新聞出版
倉田秀也「韓国「北方外交」の萌芽-朴正熙「平和統一外交宣言」の諸相-」1989.10(日本国際政治学会編『国際政治』92号)
秋野豊「ソ連の朝鮮半島政策 -「新思考」外交の文脈における朝鮮問題-」1989.10(日本国際政治学会編『国際政治』92号)
金成浩「韓ソ国交締結と北朝鮮-ソ連の対朝鮮半島政策-」2004.3(日本国際政治学会編『国際政治』135号)
金成浩「韓国の北方政策とソ連-秘密外交(1988-1990年)に関する新資料を中心として-」2006.3(琉球大学『政策科学・国際関係論集』8) 

●映像文献
NHKスペシャル「朝鮮半島が動く」1992.4
NHKスペシャル「北朝鮮とどう向き合うのか」1999.6
NHKスペシャル「キム デェジュン 大統領時代を語る」2005.6
NHK BS 「北朝鮮-中国経済支配の実態-」2006.11

政策レポート
「日韓問題プロジェクト」チーム

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