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政策オピニオン

復権した宗教が国際関係に与えるインパクト


Universal Peace Federation(UPF)会長 トーマス・ウォルシュ

2014.08.07

 私たちは今回、ヨルダンで会議を開いているが、隣の国シリアで進行している内戦では、すでに10万人以上の命が失われ、200万人以上が難民となった。この内戦は近隣のレバノン、ヨルダン、イラク、トルコだけでなく、世界にとっての不安定要因となっている。例えば8月21日に使用された化学兵器で1,000人以上が殺戮され、世界中で懸念と非難の声が挙げられた。

 この事件では米国政府が軍事介入を示唆したもののロシアの反対を受けて、米・ロ・シリアが協議の末に軍事行動ではなく、国連安全保障理事会の管轄下で、シリアが備蓄していた全ての化学兵器を廃棄することが合意された。目下、その廃棄処分が進行中だ。このように米・ロと国連が協調して事態の収拾に当たっていたが、シリア内戦が終息する見込みはない。化学兵器の脅威は取り去られたが、内戦の打開策は見つかっていないからだ。その間、無辜の人々が生死の境をさまよい、難民となって、紛争は膠着状態だ。

 私たちが集ったのは、このシリア内戦だけでなく、世界各地で起きている紛争を平和的に解決するために、宗教一般、そして具体的な教団や信仰者、その指導者たちが、もっと有効に関与できる途はないものか、そのことを探るためだ。宗教というものが平和の使徒として、政府による平和構築の努力を補いながら、情勢を転換できる歴史の瞬間は訪れたのだろうか。

「諸宗教の議会」

 近代の国民国家は、外交的な儀典や交渉の伝統を確立してきた。その中には、本音を言えば尊重も信頼もできない相手とさえも妥協をして問題解決を図る手法も含まれている。その際に大事なのは当事者の共通利益であり、協力せずに敵対を続けた場合のコストが、自国の立場を堅持して得られる利益を上回るという認識のみである。

 国民国家の政府同士が協議をし、交渉をする伝統が確立した反面で、宗教間で公的に認知された協議や交渉の場は存在しない。その原因はどこにあるのだろうか。宗教間で公式に世界的フォーラムを創ることは可能だろうか?

 19世紀には国際主義や世界主義の理想が、国家間の連合や同盟、国際機関などの形をとった。しかし、そうした夢を具現する主体は政府、もしくは非宗教的機関だと信じられた。

 もちろん宗教の領域でも普遍主義への希求は明らかだった。たとえば1893年にシカゴ万国博覧会が開かれた際、世界的フォーラムの一環として宗教指導者による会議が開催された。その名が「万国宗教会議(Parliament of the World’s Religions)」と呼ばれように、諸宗教の代表達は通常の議会・国会の場のように交流・討論をし、重要な問題では歩み寄ることも必要だと認識していたようだ。

 やがて「世界諸宗教会議(World Congress of Faiths)」という、宗教間の機関も生まれた。この「Congress」という言葉には上記の「Parliament」と同様、合意を導き出すために一定の約束や会議規則に沿って協議が行われるような、宗教次元の公的機関を創ろうとする含意が示されていた。近くは1990年前後に、国際連合にも「宗際連合構想(United Religions Initiative)」が立ち上げられた。私たちUPFも、諸宗教の議会を国連システムの中に設置するよう提案してきた。

 本稿では、21世紀における宗教の役割について問題提起をしてみたい。その根底にあるのは次の二点の問題意識だ。①私たちの世界と諸宗教は、国連に諸宗教の理事会とか、宗教議会あるいは宗教同盟などを実現できるような歴史的段階にあるのだろうか。②仮にそうした機関が創設されたとして、シリア内戦のような現実問題の解決に如何に有益なのだろうか。

宗教の復権 

 社会や領土への帰属や組織関係を記述し科学的分類に用いるため、「宗教」とか「国家」といった用語が一般化して以来、「世俗化」「国家」「宗教」の将来を論じる多数の文献が生まれた。例えばマックス・ウェーバーは、合理的思考方法が発達して呪術的手法が衰えていけば、世界の「脱魔術化」は当然の帰結だと予告した。社会学や国際関係論の学者も、彼の主張を支持した。あたかも宗教と近代的国家の間では、一方が勝てば他方は負ける、いわゆる「ゼロサムゲーム」が展開していると信じられていたようだ。

 ヨーロッパでは16世紀と17世紀に行われた宗教戦争を経て、近代国家システムが誕生した。その契機になったのが「ウェストファリア条約」だ。これによって領土、統治権(国境を確保し、領土内の暴力を管轄できる能力)、法の支配が確立され、「国民」から構成される国民国家に主権が付与された。宗教は依然として大事なものではあったが、主権は保有せず、副次的な役割に甘んじることになった。

 財産、領土、権力などを宗教から取り上げて、非宗教的国家に委譲していく過程を「世俗化」と定義すれば、近代化は一般に世俗化を伴うものだった。その一方、宗教的な結びつきが衰退し、社会・文化・文明その他の領域で宗教が力を失うことを「世俗化」と定義するのであれば、世俗化が進行していくという予測が正しいか否か、何とも言えない。

 世俗化という現象は、宗教への偏見または敵意の証拠と見ることもできる。あるいは宗教が露呈してきた過去の悪しき態度や経験、すなわち宗教一般や信者が対立しがちな現実を総合的かつ合理的に判断した結果、世俗化が起きたと捉えることも可能だ。どちらにせよ、こうしたことが16世紀および17世紀のヨーロッパ人の経験したことだった。

 ところで20世紀後半から21世紀初頭、世俗化という命題の真偽を試すような現象が次々と発生した。

・ソビエト連邦の共産主義に対抗する勢力として、ローマカトリックが重要な役割を果たした。アフガニスタンではムスリムが同様の役割を担った。
・1970年代に勃発したイラン革命は、イスラム信仰に根ざした革命だった。
・各地で宗教的な原理主義が台頭し、第三世界では宗教が著しく成長した。
・テロリズムが宗教的理念と結びつき過激化する事例が多く見られた。
・多くの紛争が宗教的要因と民族的要因の両方の影響を受けていた。(バルカン諸国、スリランカ、フィリピン、ナイジェリア、インド・パキスタン、タイ南部、トルコ、イラク・イラン、レバノン、ミャンマー等)。

 また自由でオープンな社会であればあるほど、妊娠中絶、同性婚、安楽死、富の分配、社会的正義、医療、少数派の権利など、社会・政治・経済的問題を論じるにあたって、宗教に関わる要因・見解・選挙基盤などを度外視することはできない。

 宗教の復権現象は必ずしも、建設的かつ穏健なものばかりではなかった。20世紀の大半は冷戦という地政学的状況に支配されていたが、近年の宗教紛争はむしろ、冷戦の終焉が引き金になっている。ハンチントン教授が論じたように、冷戦後の時代は宗教的アイデンティティが前面に出てくる時代となった。それは要するに以下のような状況だ。

・人類の過半数が自らをキリスト教、イスラーム、ヒンズー教、仏教、道教、ユダヤ教、シーク教、土着宗教などの信者だと思っている。
・宗教的観念が人々の世界観や行動に影響を与え続けている。
・合理的思考は経験科学では極めて有効だが、道徳や人生の意味に関する共通の土台や、確かな根拠を示すには、不十分で当てにならない。
・道徳や人生の意味に関する非宗教的な観念なども、従来から知られていた宗教的観念に依拠していることが多い。
・「世俗化」という観念や実践は、そもそもキリスト教など宗教文明に由来する。
・特殊な啓示に立脚した宗教的な観念や教義は、安易な妥協や修正に与しない。

 さらに踏み込んで言えば、近年、いわゆる非国家主体(non-state actors)が活発に活動している。自国内だけでなく国境を越えて活動するものもあり、社会に影響を与え変革を起こすだけの政治力や機能を持っている。例として多国籍企業、国際的な非政府組織(NGO)や世界的活動家、あるいは欧州連合(EU)やアフリカ連合(AU)、東南アジア諸国連合(ASEAN)などの政府間機関がある。さらに忘れてならないのが宗教である。

 これらがもたらす変化として、次のような現象を耳にすることが多くなった。

・「トラック2」や「トラック3」と呼ばれる民間外交
・多国籍市民社会によるイニシアチブ
・不道徳や犯罪と闘う際に、国家権力が懲罰するよりも、恥辱や汚名を被らせる運動
・信仰に立脚した人道主義
・信仰に立脚した暴動やテロリズム

 また「開発」「安全保障」「平和」などの概念が、従来よりも総合的で全体的または多次元的なものとして理解されつつある。そこで今では、「人間の安全保障」という概念が、外敵の侵略や国内での暴力から保護することだけでなく、大気や水の質を維持することまでも意味するようになった。あるいは「人間開発」という概念は、経済援助や国内総生産の増加だけで適用されるものではなく、教育、政治参加、自由など、人間に賦与されるべき広範な機会や能力に関しても用いられている。

 さらに諸課題の解決は国家だけの専管事項ではなくなっている。規模の大きな宗教関連団体や、そこから派生した組織、信仰を動機として組織された団体などが、人道的奉仕や事業、例えば病院、慈善活動、シェルター(保護施設)、学校教育などに従事していることは周知のところだ。その中には、「カリタス」、「ワールド・ビジョン」、「救世軍」、「赤十字社」、「赤新月社」のほか、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教などに関連した多くの有力団体が挙げられる。

 言い換えれば、世界は依然として「ウェストファリア体制」によって規定されているものの、その体制には綻びも見え始めている。一例を挙げれば、国家主権さえ後ろ盾にすれば、国家機関がどんな権力行使も自由にできる、などと考える人は少数派だろう。国家主権を嵩に来ても、民族虐殺や人権侵害を隠蔽し正当化することはできないようになった。

 こうした変化のおかげで、国家主権の不可侵性を前提として1945年に設立された国際連合の課題が浮き彫りになった。設立当初、国連の内政干渉を不都合とみなす国々は加盟してこないだろうとみなされた。つまり国連が国家主権にとって脅威になりかねないからだ。だが今日では「保護する責任」が一般的に受け入れられ、国家主権が完全で神聖かつ犯すべからざるものではないことを示唆している。

 端的に言えば、世界には二つの潮流がある。ひとつは非国家主体、民間部門、市民社会、信仰を動機とした団体や宗教そのものが、ますます重要になっていく流れだ。もうひとつは国家主権が及ぶ力が低下していく傾向で、特に二国間または多国間外交が広く行われて、それらが国家による行為の正当性と結び付けて考えられるようになったのである。

宗教、国際情勢、国連

 このような変化を反映して、政府や政府間組織が、それ以外の重要な利害関係者であるNGOや民間部門、さらに最近では諸宗教とも、統治に関わる場を共有するように求める声が高まっている。国連はNGOや市民社会に門戸を開放していて、まだ正式な役割とは言えないまでも、国連広報局や国連教育科学文化機関(ユネスコ)はNGOを「アソシエート」や「アドバイザー」として参加させている。「クリントン・グローバル・イニシアチブ」、「ゲイツ財団」、「アムネスティ・インターナショナル」、「国連財団」などの市民社会が着手している活動が注目されている。

 国連は、開発を促進して貧困にピリオドを打つために、企業・団体など民間部門の力を取り入れる方法として、10年前に国連「グローバル・コンパクト」を発足した。「企業の社会的責任(CSR)」の強化が要請されていた多くの企業が、「グローバル・コンパクト」の枠組みの中で国連との提携関係を強めている。

 国連は広報局やユネスコの協賛団体として、宗教的NGOの登録を認めている。しかし宗教が有するパートナーとしての潜在力と比較しても、宗教が保有している人的資本の観点からも、国連における宗教の関与は不十分だと言わざるを得ない。

 この面で国連の実績をいくつか挙げることもできる。2010年の国連総会は、「世界諸宗教調和週間(World Interfaith Harmony Week)」の行事を毎年挙行するよう求める決議を採択した。この決議の実現にはヨルダンが中心となって動いてくれた。フィリピン政府も国連が取り組んでいる地球的課題の解決に不可欠な側面として、宗教間対話の促進に積極的に取り組んでおり、過去13年間に様々な成果が得られている。

 国連でUPFの創始者でもある文鮮明総裁が2000年に、諸宗教議会を創設するよう提案した講演を行ってからというもの、UPFは国連加盟国に宗教・宗派間の対話と協力に真剣に取り組むよう、また宗教者の声を代表する正式の場として何らかの機関を国連システム内部に設けるよう、積極的な働きかけを行ってきた。

シリア危機との関わり

 国連やアラブ連盟、欧州連合、ロシア連邦などの枠組みで行われる二国間または多国間の交渉とともに、利害を共有するNGOが参加できる場が求められている。このことは人道分野の活動に特に当てはまる。

 宗教はNGOとして人道支援を行う能力があるだけでなく、平和を構築するのに必須の「ソフトパワー」を保持している。すなわち宗教は、強制や抑止の手段である「ハードパワー」は行使できないだろうが、宗教には人々の「心」を動かす力がある。宗教は道徳的、精神的な指導や忠告を与え、犯罪や不道徳を行う連中の面目をつぶすこともできるのだ。

 しかし単独行動主義への批判が高まり、国家間の協調が国際関係の標準となりつつあるように、諸宗教の関係でも同じことが言えるようだ。すなわち各宗教が各々の説教をするよりも、宗教・宗派の壁を超えて共通の土台に立つ宗教者の幅広い声を代弁する方が、いっそう大きなインパクトを与えられるはずだ。

 私たちが国民国家を評価するのと同様に、現代の宗教の正当性は、当該宗教が「強大宗教」として単独行動主義を発揮するほどの実力を保持しているか否かだけではなく、他の宗教と連携し共通目標に向かって働く度量と能力があるか否かによっても測られるということだ。

 この点で、提案されている「諸宗教の議会」が和解と平和を促していけば、シリア内戦が露呈している危機や、宗教・宗派が絡む他の危機、例えばイスラエルとパレスチナ、スンニ派とシーア派、イランとサウジアラビアの対立などにプラスの効果が期待できるだろう。

 近代国家の諸原則を規定した「ウェストファリア体制」は、単純な理想主義や利他主義の発露で生まれたものではなかった。当時の人々が戦争の恐怖を徹底して体験したにもかかわらず、相互抑止力に代わるような勢力均衡の実際的オプションが見当たらなかったために生じた体制だった。国民国家は自らの国境が尊重されることと引き換えに、覇権獲得の野心を放棄して、相対的な安全と安定を確保できたわけだ。

 すなわち国民国家は「主権」を部分的にでも放棄しながら、平和と人間開発のために協力しあう外交術を身に着けてきたが、宗教は未だ、そのような折衝の術を見出していない。ひとつの理由は、国民国家というものが向かっているのは絶対の真理や究極の救済ではないから、比較的妥協が容易にできるからだ。もっとも、覇権の野望を秘めながら、今はその腕力がないので思い留まっている国民国家も少なくないだろう。

 結論として言えることは、私たちが世界情勢で宗教の役割や責任といったことを再検討することは非常に妥当かつ必要なことだ。国連システム内部に、「諸宗教のコンパクト(協定)」とでも称する超宗教的な機関を設けることによって、「トラック4」外交の可能性が高まるだろう。また宗教が保有している平和構築のための優れた能力も一層活用できるであろう。

 こうした変革を可能にするために、政府関係者が宗教の重要性と価値を認識する一方で、宗教の側もそれぞれの信者への責任だけでなく、世界に対する責任、他の宗教への責任も自覚する必要があるのだ。

『Dialogue & Alliance』(Vol. 27, No. 2, 2013年)より翻訳・転載

<参考文献>
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Jack Snyder,  Editor, Religion and  International Relations Theory,  Columbia, 2011;Jeffry  Haynes, An Introduction  to International Relations  Theory and Religion,  Pearswon, UK, 2007.

Jurgen  Habermas, An  Awareness of What Is Missing: Faith and  Reason in a  Post-Secular Age, Polity, UK, 2010.

Max Weber, The Protestant Ethic and the Spirit of  Capitalism, New York: Scribners, 1958.

Samuel Huntington, The Clash of Civilizations and  the  Remaking of World Order, New York: Simon and  Schuster, 1996.

Thomas G. Walsh, “Religion, Peace and the Post-Secular  Public Sphere,” International Journal on World Peace,  Vol. XXIX, No. 2, 2012.

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