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IPP分析レポート

日韓歴史認識の構造

― 韓国の近代化と植民地支配をめぐって ―
外交・安全保障研究部会

2014.06.13

「韓国の近代化」をめぐる認識のずれ

 安倍政権が河野談話の継承を確認し、オランダ・ハーグにおいて日米韓首脳会談が開催されることで、長く停滞していた日韓関係に前進の兆しが見え始めている。局長級協議も4月以降、開催される見通しとなり、日韓両政権の関係改善に向けた方針は、ほぼ固まりつつあるようだ。しかし、2012年の李明博大統領(当時)の竹島(韓国側では独島)上陸以降、戦後最悪と言えるほど悪化した両国の国民感情が改善されたとは言い難く、政府レベルにおける関係改善への努力の足を引っ張る可能性がある。

 両国民の感情的な対立の背景には、「慰安婦の強制性の有無」など、歴史的事実に対する認識の齟齬がある。従って、この認識のずれを少しでも埋めるために、一つ一つの歴史的事実を明確にしていく努力が重要であると考える。

 その中で、今回は「韓国の近代化と日本との関係」をテーマにして考えてみたい。この問題に関して、日本の一部には「日本は植民地支配で良いこともした。特に教育や経済などの近代化は日本統治がなければなされなかった」という意見がある。しかし、当然のことながら、この見解は、日本の植民地支配を正当化するものとして、韓国側の強い反発を招いている。実際には、韓国の近代化と日本による植民地化政策とは、いかなる関係を持っているのであろうか。以下、史料をもとに検証してみたい。

日本政府による「朝鮮半島支配」の意図

 韓国側からみれば、韓国併合以降、第二次大戦終結までの期間は、日本の侵略によって植民地支配を受けた時代ということになる。しかし、現実的には、支配階級に対する恫喝や、散発的な軍事行動はあったにせよ、おおまかな併合へのプロセスにおいて「戦争」という手段はとられなかった。併合に向けての手続きは、当時の国際法の枠内において「条約締結」という形式で進行した。このことが、韓国併合は侵略ではないという日本の側の主張の一因となっている。

 まず、日本側の意図について考えてみる。その際に、参考となる史料が「対露交渉決裂ノ際、日本ノトルヘキ対韓方針」(1903年12月30日閣議決定)である。朝鮮半島問題を巡って日露対立が深まる中で決定されたこの方針では、いかなる場合においても、朝鮮半島を日本の実力支配下に置くということを明確にしている。当時の朝鮮が主権国家であったことを考えれば、半島の実力支配を明記したこの方針は「侵略」あるいは「植民地化」の意図を表しているものとみなされても仕方がないだろう。

 しかし、その手段については国際的に批判を受けない方法で実行することが意識されている。まず保護条約の締結が第一であり、万が一、それを皇帝(王)が遵守しなかった場合には軍事的に支配する。つまり、軍事的侵略も選択肢の一つとして準備されていたが、結果として条約締結を通した韓国支配に成功した、ということになるだろう。

 「日露戦役以後韓国併合迄ニ於ケル日韓条約関係の考察」(外務省アジア局1932年5月)をみると、条約締結を通した韓国支配については次の八段階のプロセスがあったことが示されている。

 第1段階:日韓議定書(1904.2.23)
 第2段階:第1次日韓協約(1904.8.22)
 第3段階:第2次日韓協約(1905.11.17)
 第4段階:第3次日韓協約(1907.7.24)
 第5段階:韓国中央銀行ニ関スル覚書(1909)
 第6段階:韓国ノ司法監獄事務委託ニ関スル覚書(1909)
 第7段階:韓国ノ警察事務委託ニ関スル覚書(1910.6)
 第8段階:韓国併合条約(1910)

韓国統治を可能にした「官僚機構の支配」

 では、なぜ殆ど武力行使を伴わない軍事的圧力と条約の締結だけで併合がなされ、その後35年にわたる長期統治が可能だったのであろうか。それは、結論的に言うと、朝鮮の統治機構の担い手である官僚を掌握したことに尽きる。日本による半島の統治は、朝鮮総督府という統治機関を通して行われたが、そこには日本人官僚と朝鮮人官僚がいた。日本人官僚は、当然のことながら日本の方針に忠実であるが、一方で日本に協力する多くの朝鮮人官僚がいたのである。彼らはどのようにして育成されたのであろうか。

 彼らの履歴書を調べると、興味深い事実が浮かび上がる。大韓帝国の韓国人官僚の中で、併合以後も引き続いて朝鮮総督府の官僚を務めた人物の履歴書、747名のものが確認できるが、その特徴は、日本への亡命や日本留学の経験者、そして官立外国語学校や官立法官養成所など近代学校の卒業者であったことがわかる。

 当時の近代学校は、列強の脅威を感じて近代化の必要に迫られた朝鮮王朝が、1894年の甲午改革によって、近代的知識人の育成を目的として設立したものである。しかし、この近代学校の設立、および教育、経営には日本が深く関与していた。

 具体的には、学校の教員を日本人が務め、教育カリキュラムも日本のものが導入された。そして、これらの学校の卒業生が1906年以降、日本による統監政治が行われるなかで官僚として登用されるようになったのである。その結果、日本の影響を深く受けた韓国人官僚と、「近代化」のためにブレーンとして派遣された日本人官僚たちが併合後、朝鮮総督府の中核を占めることになった。

 時系列で整理すると「第1次日韓協約(1904.8)」において顧問政治が開始され、「第2次日韓協約(1905.11)」から韓国人高等官の任用と掌握が進み、「第3次日韓協約(1907.7)」において日本人官吏任用制度が確立された。以下、いくつかの「近代学校」の実例をあげながら親日派官僚の育成について検証し、同時的に推進された日本人官僚の派遣と合わせて、日本による朝鮮半島の統治機構の掌握がどのように進行していったのかを見ていこう。

「官立外国語学校」の事例

 大韓帝国の官僚の履歴書を調査してみると、当時設立された近代学校のうち、官吏登用に最も大きな影響を持っていた学校が官立外国語学校であったことがわかる。大韓帝国の官僚の中で近代学校出身者のうち官立外国語学校出身者は241名にもおよぶ。これは近代知識を早期に導入するためには、日本の明治維新のように欧米に留学して学ぶという時間的余裕がなかった当時の韓国において、日本語は朝鮮語と語順が同じであり、漢字語を使うという点で共通部分が多いことから、日本の書物などを利用すれば早く近代的知識を導入できるため、当時の近代官僚には日本語の素養をもつ者が多かった。

 官立外国語学校は1894年に設立されたものであるが、当初は日語学校、英語学校、漢語学校、法語学校、徳語学校、俄語学校の六つの学校があったが、各校舎は分離独立されていて、各国列強の公使館の影響が強かったようである。日語学校も最初、日本公使館内に設けられた日語学堂が甲午改革(1894年)を契機として官立化されたものであった。特に日本にとっては、ロシアを始めとする三国干渉によって朝鮮政府への影響力が低下するなかで、日語学校などを通じて親日派官僚を育成していくことは、その後の対韓政策において重要な位置を占めるようになった。

 このようなことから、官立外国語学校出身官僚の動向は、当時の韓国における各国列強の影響力を示す一つのバロメーターと見なすことができよう。

 官立外国語学校出身官僚(241名)を学校別に区分すれば、日語学校が145名、英語学校46名、漢語学校20名、法語学校16名、徳語学校10名、俄語学校3名であった。官立外国語学校出身官僚の60%が、日語学校出身者であったことから、当時の官界において日語学校の影響力がもっとも強かったことがうかがえる。これは日語学校の入学者数にも反映されている。1906年まで日語学校の毎年の入学者数は50名ほどであったが、日本による統監政治が本格化する1907年に入ると、その数は4倍以上(1907年201名、1908年250名、1909年174名、1910年136名)に増加した。またこれに対して入学志願者数(1907年350名、1908年700名、1909年950名、1910年1,290名)も非常に多いことが注目される。韓国内にも日本の影響力を利用して、官界への進出をはかろうとする者が多かったことがうかがえる。

 日語学校の設立目的は通訳官の養成であったが、統監府が設置されて以降の教育科目には法制、経済、簿記などが導入され、日本語に精通した実務官僚の育成を目的とする学校に変貌していった。これは朝鮮語が不得手な日本人官僚が朝鮮を統治するために、手足となる日本語に堪能な朝鮮人官僚の育成が緊急な課題であったためであろう。

「官立法官養成所」の事例

 官立法官養成所(現ソウル大学法学部の前身)は1894年に設立され、韓国で初めて近代法の教育が行われた。初期に教官をつとめたのは日本人(外務官僚)であり、その後、韓国人教官にかわるが、彼らは養成所を卒業した後、日本留学を経て教官となった者たちであった。したがって、養成所では日本の近代法が教えられたのである。設立当初、法官養成所の目的は、司法官の養成であったが、その教育内容の変遷を見てみると行政官の養成所へと変貌していることがわかる。

 具体的には、設立当初の教育科目は法学通論や民法など法律に関するものばかりであったが、1906年ごろから行政学、経済学、財政学、日本語が入り、1908年には理財学、簿記などが追加されるなど、東京帝大法学部と同様の性格を持つようになっていった。つまり、行政能力に長け、なおかつ日本語能力に優れた官僚の養成である。これが1907年以降の卒業者から親日派官僚を多く輩出する要因となった。

 日本語能力の重視について言えば、1906年3月の入学試験で、正規試験のほかに「官立外国語学校、およびそれと同等な学校の卒業生は免試験許入する」とされ、外国語学校、中でも日語学校の卒業生が無試験で入学できるようになった。更に1908年には入学試験科目に日本語が追加され、官僚輩出の教育課程における日本語能力の重視が鮮明になっている。

 このような教育内容の変遷は、法官養成所における日本の影響力を示すものであるが、これは法官養成所の卒業生の動向からも確認できる。第1回から第7回までの卒業生を調べてみると、239名のうち190名が大韓帝国の官吏となり、うち112名(45.8%)が朝鮮総督府の官吏となって日本統治に協力している。中でも、日本が最も人材を必要とした1908年(第6回)の卒業生を見てみると、54名の卒業生のうち、実に53名が大韓帝国の官吏となり、8割近い40名が朝鮮総督府の官吏としてそのまま移行していた。

「京城学堂」の事例

 朝鮮総督府の官僚になった人物の履歴を調べると京城学堂の卒業生が目にとまる。京城学堂は1896年に日本組合教会(キリスト教)系の大日本海外教育会が朝鮮に創設したものである。この団体は朝鮮半島のみならず中国大陸にも近代教育振興のために学校を建設している。その資金は、日本政府の補助金に加えて、当時の政財界(伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一など)からの寄付によって賄われた。

 特に、渋沢栄一は熱心な支援者であったようで、彼に提出されたと思われる京城学堂の報告書が『渋沢栄一伝記資料集』に残されている。その資料によれば、入学者の中には、没落した両班家系の子弟が多く含まれていたと報告されている。つまり当時の朝鮮の支配層から疎外され不満を抱いていた人々の子弟である。このような疎外感や不満が、彼らをして日本を背景に官界への進出を後押ししたであろうし、また日本も親日派の育成にそれを利用したものと思われまる。

 京城学堂の卒業生は200名ほどだったが、そのうち履歴書で確認される範囲だけでも40名が親日派官僚として朝鮮総督府に入っている。そして、この学校は民間で設立されたが、日本にとっても重要な位置づけの学校であったことから、1906年には官立第二日語学校に格上げされた。

 このようなことから、日本の支配層もこの京城学堂を大きな関心を持って見ていたようである。まず、先ほども触れた渋沢栄一は次のように述べている。「商業上より観察して、京城学堂の拡張をはかるの今日の急務なるを認むる者なり」(『太陽』5巻5号)。渋沢は単に資金援助を行うだけでなく、直接、韓国に訪問した際、京城学堂に立ち寄り、学生に奨学金を手渡して未来を語りつつ励ましたという。

 また、大隈重信は「京城学堂出身者の者にして京城、或は仁川に於ける日本商估の店頭に、或は朝鮮人に接し、或は日本人を迎へて商業を営める者を見るは、現に利益の点よりも得る所頗る大なるのみならず、政治上の関係に於て、亦た極めて利益あるを疑はざるなり」(『渋沢栄一伝記資料集27』)と述べている。

 伊藤博文に至っては「日本人の事業にして真に奏効したのは京城学堂のみ」(岡田哲蔵『本多庸一伝』)と語り、その意義を高く評価している。

 このように近代学校に対して、日本は官民あげて積極的に資金、人材を投入して関与したのであった。また京城学堂の運動会に韓国の学部大臣が招待され「日本は近代化のためにお金も人材も出してくれている」と感謝の弁を述べたという逸話もある。このようにして日本は、特に行政分野の人材育成を通した近代化への貢献を一方では感謝されながら、他方では着実に韓国の植民地化を進行していったのである。つまり、韓国の近代化は、それを進めれば進めるほど日本の植民地支配が強化されるという矛盾する二面性を持っていたのであった。

日本人官僚の派遣

 親日的な朝鮮人官僚の育成に取り組む一方で、多数の日本人官僚が韓国に派遣するための法律や条約が整備された。まず、日韓議定書(1904年2月23日)では「東洋ノ平和ヲ確立スル為メ、大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ、施設ノ改善ニ関シ其忠告ヲ容ルル事」と定めた。続く第1次日韓協約(1904年8月22日)では「韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ」として、大蔵省の主計局長目賀田種太郎を財務顧問として受け入れさせている。しかもこの時、目賀田は単身ではなく、部下を引き連れて渡韓し、韓国の財政の「近代化」に着手した。

 第3次日韓協約(1907年7月24日)では、第4条「韓国高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト」、第5条「韓国政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓国官吏ニ任命スルコト」と定め、韓国の統治機構の人事権を日本の統監が握り、日本人が韓国の官吏となることができる法制度が定められた。これによって、翌1908年、韓国統治機構における官僚の再編が行われた。日本から2,121名が大韓帝国の官吏として登用され、既存の韓国人官僚と入れ替えられた。1910年の併合直前の日本人官僚の任用総数は実に3,623人にのぼる。

 彼ら日本人官僚は、大韓帝国の中枢に配属された。当時の度支部(大蔵省)について見てみると、大臣こそ韓国人だが、官僚トップの次官は日本人であった。更に、大臣官房を見ても、韓国人秘書官を除き官房付事務官はすべて日本人で占められており、司税局に至っては、局長、税務課長以下、主要なポストを日本人が独占している。さらに、地方の税財政を監督する財務監督局を見ても、局長、事務官を日本人が務め、韓国人官僚は末端に配置されている。参考までに1910年6月時点における度支部(大蔵省)の民族別官僚数の割合を以下に挙げておく。

 全 体:韓国人41%,日本人59%
 奏任官:韓国人36%,日本人64%
 判任官:韓国人42%,日本人58%

 このように見ると、各部(省)の次官、局長、課長のかなりの割合が日本人で占められていることから、併合条約締結の時点で、既に当時の大韓帝国の統治機構は、ほぼ日本の支配下に入っていたと言っても過言ではないだろう。

知的エリートによる「近代化」と権力移行プロセスの同時遂行

 当時、韓国に派遣された日本人官僚の中で課長以上任命された高等官は、日本の高等文官試験の合格者であり、その70%は東京帝国大学法学部の出身者であった。日本による韓国統治は、軍人ではなく、知的エリート官僚によって遂行されたのであった。派遣された日本人官僚は当時、現役の官僚であり、特に大蔵省、内務省(警察及び地方官僚)、法務省出身者が多かった。

 ところで、彼らは日本において、江戸幕府から明治政府に権力が移行された際、中世的な幕藩体制を近代化し、強力な中央集権体制を築き上げる過程で重要な役割を果たした者たちであった。この時の経験を持った官僚たちが韓国に派遣され、持てるノウハウをそのまま適用して、韓国の「近代化」を推進していったのである。そして彼らは明治政府が近代化を推進していく中で幕藩体制を解体し、その中央集権化をはかることによって権力の移行を確立していったのと同様に、韓国の「近代化」を推進する中で、大韓帝国を統監府による統治体制に組み込んでいったのである。

 その具体例の一つが徴税権の移行にみることができる。韓国では地方の徴税権はもともと観察使(知事)や府尹、郡守など地方官僚が握っていたが、統監府は「管税官官制」(1906年9月)施行して徴税権を中央に一元化させた。そして納税を金納制に変更し、全国の郵便局に国庫金の入出保管機能を付与して納税の経路を地方官僚から分離させ、その中央一元化をはかった。そして全国に設置された郵便局は「韓国通信機関委託ニ関スル取極書」(1905.4.1)によって、「委託」という名目で日本に接収されていたのである。

 このように地方官僚が握っていた徴税権の中央一元化は、各藩主が握っていた徴税権の中央一元化をはかった明治政府の政策と類似するものである。また地方の税財政の中央一元化をはかる過程において、明治政府は税財政を監督するために全国の主要都市に財務監督局を設けたのであるが、同様のことが韓国でも行われており、その局長にはかって日本の財務監督局の局長を歴任したものが任用されている。

 このように日本人官僚が行った韓国の「近代化」政策は、彼らが日本で行ったそれと同様のものであった。日本人官僚は、近代化政策を通じて幕藩体制から明治政府へ権力の移行を確立させたように、韓国の「近代化」政策を通じて大韓帝国から統監府への権力の移行を確立させたのである。したがって、日本人官僚によって行われた「近代化」は日本の統治体制への編入と同義とみるべきであろう。

周到な計画のもとに推進された韓国の植民地化

 当時の日本人の中には、韓国の発展の為を思って近代化に尽力した者も少なからずいたであろう。しかし、全体としてみれば、韓国の近代化を主導した日本側の動機には、韓国を日本の統治体制に組み入れるという明確な意図があったと言わざるを得ない。韓国の近代化は同時に日本による植民地化でもあったのである。そして、日本が深く関与した近代学校を卒業した朝鮮人官僚と、明治維新の担い手であった日本人官僚とが共同してそのプロセスを遂行した。

 1908年に韓国統治機構が大きく再編され、日本人および親日的な官僚がその中枢を占めることとなった。その時点で、韓国統治機構は、ほぼ日本の影響下に入っている。従って、その後に締結された併合条約は、日本政府と、実質的に日本の指揮下に入った韓国政府との間に交わされた「形式的なもの」に過ぎない。

 確かに、政府間の合意という観点からみれば、併合条約は合法的に結ばれたと言えるだろう。しかし、深く日本が浸透した韓国政府、官僚の実情を見る時、そこに韓国側の意志が正当に反映されたとは言い難い。そこには、近代化支援の名目を立てつつ、国際社会の非難を浴びない形で、韓国を自らの支配下に置こうとした「計画性」があったと言えないだろうか。

 日韓国交正常化交渉で10年以上ももめた最大の原因は、韓国併合を侵略と見るか否かということであった。日本側では、この問題を「合法か違法か」という観点で論じる傾向が強いが、条約締結は形式的に「合法」であったとしても、それに至る過程には、帝国主義的な植民地支配の「意図」があったと認めるべきだろう。まず韓国併合が主権国家の「植民地化」であったという負の側面を明確にしてこそ、もう一方の側面である日本による「近代化」に対する評価も正しくくだすことができるのではないだろうか。

《参考文献》

岡本真希子『植民地官僚の政治史―朝鮮・台湾総督府と帝国日本―』2008 三元社
浅井良純「日帝侵略初期における朝鮮人官吏の形成について―大韓帝国官吏出身者を中心に―」(『朝鮮学報』155輯,1995年 朝鮮学会 )
浅井良純「韓国併合前後における日本人官僚について―文官高等試験合格者を中心に―」(『朝鮮学報』193輯,2004年 朝鮮学会 )

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