欧州の夢 ―欧州統合と平和構築のプロセス―

欧州の夢 ―欧州統合と平和構築のプロセス―

2014年4月18日

第二次大戦の戦火の中から生まれた欧州統合のビジョン

 日本でヨーロッパの夢を語るにあたり、青山みつこさんという、勇気ある日本女性に敬意を表したい。青山さんは明治時代の日本に駐在したオーストリア外交官で貴族のハインリッヒ・クーデンホフ・カレルギーと結婚し、ご主人の国に渡った。
 この二人が生んだリヒャルト・クーデンホフ・カレルギーこそ、千年の欧州の平和と統合の夢を、具体的なビジョンにした人物だ。第一次世界大戦直後に、カレルギー伯爵は「パン・ヨーロッパ」という著書を出し、「パン・ヨーロッパ同盟」を創設した。これが欧州統合運動の端緒として一般に認識されている。
 オーストリアとそうした歴史のつながりを持つ日本にやってきて、皆さまに欧州の夢の実現について、その目指す価値や原則、その成功と短所などを語る機会を得たことに感謝したい。
 地図を見れば明らかなように、厳密にはヨーロッパを大陸とは呼べない。アジアに添えられた半島のようなもので、ユーラシア大陸の西の端に当たる。この「ヨーロッパ」という名前も、実はギリシア神話の最高神ゼウスがアジアから連れて来た王女に由来している。ヨーロッパには今でも49の国があり、二百もの言語が使われ、宗教もカトリック、プロテスタント、ギリシア正教、イスラム、ユダヤ教、さらには仏教まである。人種もラテン系、ゲルマン系、スロベニア系、オスマン系など多様だ。にもかかわらず、独特の文化的な同一性を持つ大陸と見なされてきた。
 しかし、この小さな大陸は数えきれない戦争の舞台となった。例えば1618年に始まった三十年戦争では、欧州の大半の国を巻き込み、当時の欧州人口の半数近くが戦闘の直接間接の犠牲になったと言われる。20世紀にも流血の闘いは、第一次世界大戦と第二次世界大戦として繰り返された。オーストリア人の作家インゲボルグ・バックマンは、歴史は常に教訓を提供しているが、そこから学ぶ者はほとんどいない、と喝破した。第一次大戦の後、カレルギー伯爵のように教訓を得た人もいたが、状況を変える力にはならなかった。しかし第二次大戦の戦火の中から、戦後の新たなヨーロッパのビジョンを持つ人々が現れたのだ。
 そうした勇気ある一歩を歩み出した一人が、英国のウィンストン・チャーチル首相だった。チャーチルは毎週の戦争報告の中で、国民が戦争の重圧に耐えるよう励ましつつ、戦後の希望を説いた。1943年に彼は、戦後に欧州のすべての国、敵対している国も含めた欧州評議会を設立し、大陸を平和と協力で統合することを提案し、聴衆を驚かせたが、それは日が変われば消えていく陽炎のような話ではなかった。それどころかチャーチルは大英帝国での政治権力を失った後も、彼のビジョンにこだわり、1946年にスイスのチューリッヒ大学で学生達に、欧州評議会を創設することを強調し、大陸全体の平和の展望を示したものだ。
 次の重要なステップは1948年のハーグ議会だった。そこには様々な欧州統合の運動に携わっていたカレルギーのパンヨーロッパ同盟や、チャーチル、ドイツのコンラッド・アデナウアー、フランスのフランソワ・ミッテランなども参加した。彼らは統合欧州について明確なビジョンを持っていた。そして各国の議会代表による欧州議会を設置して、欧州の連合または連邦のための政治・法律的な意味合いを検討しようとした。複数の政府が代表を送ったが、ハーグ議会は基本的に、台頭しつつあった市民社会のイニシアチブであり、市民達の平和を渇望し、戦争と武力衝突を「再び許すな!」という叫びの表れだった。そして遂に欧州の人々の叫びは聞かれることになる。

ベルリンの壁崩壊により欧州評議会が「欧州共通の家」に

 1949年5月5日、西欧の民主主義10カ国が、ロンドンの聖ジェームズ宮殿で欧州評議会を創設した。これは欧州統合に向けた最初の政府間機関となり、カレルギー伯爵やチャーチル元首相の夢が本物、正確には一部だけ本物になったと言うべきかもしれない。
 つまり第二次大戦の惨禍の後、欧州評議会を創設した人々の狙いは、全ての欧州諸国が持続的で平和な協力を確実にする機関を作り上げることだった。しかし残念ながら、欧州の戦後に「鉄のカーテン」が掛けられ、政治的、経済的な分断状態になってしまった。
 この分断により欧州は深刻な影響を受け、二つの政治システム、イデオロギーが対立することになった。ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の言葉を借りれば、欧州は片肺呼吸をしていたようなものだった。その結果、欧州評議会は基本的に西欧の機構であり続け、その状態は、中・東欧で異なる政治システムや価値観に立脚した政権へと徐々に転換されるまで続いた。
 1989年にベルリンの壁が倒されてから、本格的な転換が始まった。その当時、欧州評議会は23カ国から成り、ベルリンの壁が倒される直前にフィンランドが加盟したが、ソ連と特別な関係にあった同国が加盟できたのは、ゴルバチョフのペレストロイカ政策の成果だった。欧州評議会はそうした変動に極めて迅速に対応し、1990年11月には中欧からハンガリーを最初の加盟国として迎えることになった。
 7年後の1997年10月、欧州評議会の第二回首脳会議では、加盟40カ国と、加盟申請中の3カ国を代表して43人の大統領・首相がフランスのストラスブルグに集まった。会場の「パレ・ド・ユーロパ」は、ベルリンの壁が倒される5カ月前にストラスブルグの欧州評議会・議員議会で演説したゴルバチョフ大統領の言う「欧州共通の家」そのもののようだった。
 私自身が欧州評議会を退任した時には45カ国が加盟しており、モナコ公国は加盟準備が済んでいた。セルビアとモンテネグロが平和的に分割され、モンテネグロは47番目の加盟国として承認された。欧州地図で残る空白はベラルーシだ。この国の政治状況は難しいが、欧州評議会は同国の民主勢力、中でも市民社会と連絡を保っていて、欧州評議会の議員会議も、議員同士の重要な対話を続けている。
 ちなみに欧州以外の4カ国が、欧州評議会のオブザーバー資格を持っていて、評議会の活動に関する彼らの利害を表明したり、欧州との連帯を確認している。その4カ国とは米国、カナダ、メキシコそして日本である。しかし欧州評議会と中国との関係も近年発展していて、双方の高級代表が相互に訪問し、おかげで両者が関心を持つ当面の政治課題を討議できるようになってきた。両者はまた、教育、保健、青少年とスポーツなどの分野で協力を強化しているので、欧州評議会は中国での様々な分野の改革にも貢献できるだろう。

共通の土台としての民主主義、人権の擁護、法の支配

 欧州評議会とは何をしているのか。その主眼は拡大欧州の統一を推進するため、広範な分野で協力を行うのだが、共通の土台を多元的民主主義、人権の擁護、そして法の支配に置いている。評議会は欧州で最も古い汎欧州の政治的機構だが、価値を共有する機構であることも重要だ。
 欧州評議会の特筆すべき成果のひとつは、「人権と基本的自由に関する欧州条約」である。それは個々人でも、超国家的な司法機関である「欧州人権裁判所」に提訴できる、という点で独特なものだ。同裁判所の判決は、加盟47カ国に強制力を持ち、レイキャビクからウラジオストクまで、8億人の欧州人が生命の権利、拷問の禁止、結社、表現、思想、良心そして宗教の自由などで保護を受けているのだ。この地域的な人権擁護メカニズムは、欧州評議会が保有する法律体系によって補完されている。例えば、第1に「欧州社会憲章」があり、それは加盟各国が市民に然るべき経済・社会的権利、具体的には雇用と社会的保護を賦与する責任を表明している。
 人権保護という分野で重要な、欧州評議会の二つの条約を指摘したい。すなわち「拷問と非人間的な仕打ちや懲罰の阻止に関する欧州条約」と、「民族的少数者の保護のための枠組み条約」だ。
 前者は刑事拘束された人々を、拷問や手ひどい仕打ちや制裁から保護することを目的としている。民族的少数者の保護に関する条約は、今のヨーロッパでは最も深刻かつ火急の課題だろう。人種・民族間の緊張は近年高まり、しばしば険悪になり武力衝突に発展することもある。最近、南東ヨーロッパで起きた悲劇が、それを物語っている。欧州評議会はそうした課題を、政治および法律のレベルで収拾したり、信頼醸成プログラムを草の根レベルで立ち上げて、緊張を和らげる予防的措置が常に実施されている。また「民族的少数者の保護に関する枠組み条約」は、民族的少数者保護に関して初めて法的拘束力を有する多角的なものだ。
 今日まで欧州評議会は200本以上の条約・協定を採択しており、政府への勧告も千件以上発出してきた。人権はもとより、社会的保護、保健、教育、文化や組織犯罪や汚職問題なども対象にしている。それらは統合欧州に必要な、一連の整合性ある法律や手続きになっていくだろう。欧州評議会は規準設定だけでなく、加盟各国が規準を遵守しているか監視している。もし遵守していなければ、欧州評議会は状況を好転させる支援をする。それでも遵守しない国には制裁措置を発動し、最後の手段として当該国を欧州評議会から除名することもありうる。
 欧州評議会は、「死刑のない欧州」にできたことを大きな誇りとしている。死刑という懲罰は文明社会にあるべきではないものだと強く確信しているので、全ての国が欧州の例に倣ってくれることを奨励したい。人種差別、外人排斥などへの取り組みや、男女平等を促進する努力にも注目してほしい。
 こうした規準の設定や民主化努力を通じて、欧州評議会は長期的な紛争予防に大きな貢献をしている。紛争予防のほうが、紛争解決に要するコストより、はるかに低いものだ。欧州評議会は言わば、「火災予防システム」のようなものだ。

欧州評議会を土台に生まれた欧州連合(EU)

 ところで「ヨーロッパ」と言えば、大概は欧州連合(EU)を想起するだろう。ある時、米国のAP通信にインタビューを受けた。記者は通貨ユーロに関心があったようだが、ユーロは欧州評議会と直接の関連はなく、欧州連合の問題だ。ともあれ欧州のアイデンティティなど話しは進み、記者が出ていこうとする時、こう言った。「最後の質問ですが、この欧州評議会の事務総長室に、何故、欧州連合の旗が置かれているのですか?」。EUの旗と知られている12個の黄金の星を散りばめた青い旗は、実はもともと欧州評議会の旗で、欧州評議会がEUにも同じ旗を使うことを認めたのである。ちなみに欧州の唄はベートーベンの「歓喜の唄」で、オーストリア人のヘルベルト・フォン・カラヤンが編曲した。これも欧州評議会が採択したものを、当然のごとくEUも使うことになったのだ。
 「欧州共通の家」の建築家は多いが、設計者はおらず、単一の建設計画というものもない。1950年にフランスで真に政治家と呼べる指導者、ジーン・モネとロベルト・シューマンは、フランスとドイツという仇敵同士の戦争を未然に防ぐ方策を考えた。出てきたアイデアが、通常戦争を遂行するのに不可欠な資源、つまり兵器や弾丸を作るための石炭と鉄鋼を、国家の枠の外で共同管理する超国家的メカニズムをつくることだった。
 モネとシューマンの二人は、欧州評議会が国家を越えたシステムによって、加盟国の石炭および鉄鋼を管理するよう提案した。しかし加盟国には反対もあり、特に英国はこうした分野での主権放棄には躊躇があった。それでモネとシューマンは欧州評議会の枠外に構想を追求し、ドイツのアデナウアー首相や、イタリアのデガスペリ首相など、相性の良い相手を見つけることができた。結局、フランス、ドイツ、イタリアそしてベネルックス三国のベルギー、ルクセンブルグ、オランダが一緒になって「欧州石炭鉄鋼共同体」を作ったのだ。
 それは6カ国だけの、極めてわずかの権限しかもたない共同体だった。だが6年後、それら6カ国が「ローマ条約」により「欧州経済共同体(EEC)」を創設し、有名な四つの自由、すなわちヒト、もの、サービス、カネの移動の自由を容認する共同市場を目指すことになった。さらにEEC創設の16年目、1973年に、当初の6カ国にデンマーク、アイルランド、英国が加わって9カ国になった。
 1986年、つまりEECが存在して30年も経って、単一欧州法(SEA)が市場規則などを統合して域内市場を完成し、EECの構造や意思決定プロセスも改革した。またスペインとポルトガルが独裁を倒してから10年後に、欧州の共同体に参加してきた。ギリシアと合わせて、欧州共同体は12カ国から構成されることになった。
 有名な1992年の「マーストリヒト条約」は、欧州経済共同体と欧州原子力共同体、それに、この時点でまだ存続していた欧州石炭鉄鋼共同体の三つを一つの傘、すなわち欧州連合(EU)の下に結ぶことになった。マーストリヒト条約はまた、諮問機関にすぎなかった欧州議会に、いわゆる共同決議の権限を与えた。
 1995年には三つの中立国、すなわちオーストリア、フィンランドとスエーデンが欧州連合に加盟した。これはベルリンの壁が倒され、欧州に新たな政治的状況が生まれて可能になった。それまでアイルランドを除けば、EU加盟国は全て北大西洋条約機構(NATO)の加盟国だけだった。

段々と複雑になってきた統合欧州の構図

 欧州連合の「ビッグバン」は2004年に起こった。その年、10カ国が新規加盟したが、それらは旧ソビエト連邦の3カ国とバルト三国、それにかつての共産圏5カ国だった。その3年後にブルガリアとルーマニアも欧州連合に入ってきた。
 マーストリヒト条約(1992)の後、欧州連合は「共通外交安全保障政策」を目指してきた。西欧同盟(WEU)という防衛機構は、全てのEU加盟国を含んでいないのにEUに編入されたため、統合欧州の構図はだんだん複雑になってきた。EUはますます政治的になり、「欧州アラカルト」とも言うべき、加盟各国がそれぞれメニューを自由に設定する形になっている。
 それは「シェンゲン協定」によって一層ややこしいものになった。この協定は欧州域内の国境でパスポート(そして関税)を免除したものだが、シェンゲン協定と単一通貨ユーロほど、欧州統合を象徴するものはないだろうが、同時に、統合の状況を分かりにくくしている。例えばスイスとリヒテンシュタインや、北欧のアイスランドとノルウェーはEU非加盟国だがシェンゲン協定に参加している。
 このことはユーロにも当てはまり、EU加盟国であるデンマーク、英国、スェーデンはユーロ圏には入っていない。通貨政策は非常に政治的なもので、通貨発行権は不可侵の主権のひとつだ。昔から欧州懐疑派の英国は、ユーロにも消極的だ。ユーロ危機が叫ばれる今日、デンマーク、スウェーデンや英国がユーロを拒否してきたのは妥当だったのではないか、という議論もあるほどだ。
 ユーロを創設した人々は非常に大胆だったが、単一通貨と一緒に共通財政・経済政策を採択するほどには大胆でなかったようだ。また予算規律を無視した国に制裁措置を取れず、その結果、問題になったのはギリシアだけに限らない。ただ、いわゆる「ユーロ危機」は、規律を遵守しない国々が過剰債務を負ったことによる危機だ。しかも危機に乗じて投機家たちが高い利子を稼ごうとするので、ますます過熱し悪化したものだ。
 欧州連合にはすでに28カ国が加盟し、さらに5カ国が正式に加盟申請した。それらはアイスランド、マケドニア、モンテネグロ、セルビアそしてトルコだ。2004年以来、欧州評議会の加盟国の半数以上が欧州連合に入り、3カ国が加盟交渉を始めており、2カ国は交渉待機中だ。やがて欧州評議会の3分の2の国々が欧州連合に属する可能性がある。

ウクライナ危機では欧州評議会を活用すべきだった

 1945年、第二次世界大戦の後で欧州再編成はできなかったが、欧州評議会が発足した。1989年以後の冷戦終結を受けて、旧ソビエト諸国の人々が変革に成功し、欧州の政治地図を書きかえることになった。中欧と東欧の人々が民主主義と人権を叫び、欧州評議会は彼らを支援した。
 そして今、3度目の挑戦で、ほぼすべての欧州を巻き込んだ欧州評議会と、拡大統合された欧州連合が、共通外交・安全保障政策に取り組み出した。シェンゲン協定はフィンランドやバルト三国、ポーランド、スロバキア、ハンガリーそしてスロベニアまでカバーしている。壁もなく、鉄のカーテンもなく、分断線が引かれることのない欧州をどこまで拡大できるか。欧州評議会は分断線のない新しい欧州に全てを賭けており、欧州連合もこの目標を拒めないだろう。
 欧州連合も2003年以降、EU拡大とともに、近隣政策を作り上げてきた。それは2004年のEU拡大がもたらした恩恵を、欧州の近隣諸国とも共有しようとしたものだ。拡大EUと、その近隣諸国との新たな分断線が立ち現れるのを防ぐものだった。EU域外諸国がEUとの連携を強めるのに、EUのフルメンバーにならなくても済むものだ。この近隣政策が該当するのは、アジア・アフリカの地中海沿岸国や、東欧とコーカサスの欧州系CIS諸国などだ。
 ウクライナとクリミア危機について、EUは、ウクライナもロシアも、そしてEU28カ国が全て参加している欧州評議会を、全欧州を代表する政治的枠組みとして活用しなかった。EUは、ウクライナの首都キエフで数十万人が抗議集会を行った広場を「ユーロ広場」だと表現した。しかし広場に集まった群衆の第一の狙いは、腐敗した政権への抗議であって、ウクライナのヤヌコビッチ大統領がEU加盟の合意に調印しなかったことは二次的なものだった、という事実を見きわめなかったようだ。EUはまた、ウクライナの一部の過激な政治勢力が、ウクライナ国民でもあるロシア系の人々を公然と差別しようとしていた事実を無視した。
 さらにEUは、ウクライナの隣国ロシアの利害や事情、例えばクリミアにロシアが海軍基地を保有していることや、ロシア系少数派住民にとってロシアは親戚国であることを十分尊重しなかったようだ。こうしてEUはロシアとの対話の機会を失ってしまった。一部では、ロシアのプーチン大統領が米国のオバマ大統領とは電話会談をしているが、EUの指導者とは電話で話をしていない、と思っている。ウクライナとロシアという隣人達とEUは同席して、解決策を探すべきだったのだ。

欧州の夢は、欧州だけに留るものではない

 1989年以降、欧州評議会は共通の価値観に基づく一つの欧州を現実化してきた。欧州評議会とEUは同じ夢によって造られた兄妹のようなものだ。欧州評議会は貧しい兄、EUは豊かな妹かもしれない。ともあれ両方とも、分割線のない、武力紛争のない欧州の夢を担っている。
 まだ課題も少なくないが、我々は大きな前進を成し遂げてきた。創設者達のビジョンを共有する人々の支援を得ながら、統一された欧州のビジョンを成し遂げ、欧州に住んできた何百世代もの人々の夢を本物にするだろう。しかしその夢は欧州に留まらない。全ての人間は、我々を分けている要素より、はるかに多くの共通性を保有しているからである。
 欧州全域で、かつての敵同士の和解がなされた。例えばフランスとドイツ、オーストリアとイタリア、ドイツとポーランド、ロシアとドイツ等など、こうした和解は欧州統合の必要条件であるとともに、その成果でもある。鶏と卵のどちらが先かは分からないが。和解は南東ヨーロッパでも起こっていて、昨日の敵同士が、地域的な会議に同席したり、自由貿易圏をつくって協力している。もちろん問題は、例えばボスニア・ヘルツェゴビナやコソボなどで山積している。コーカサスでも、また今回のクリミア危機もある。しかし新欧州の精神で、対話と相互理解を力として課題を解決してくれると信じる。
 こうした統合の理念は輸出できるだろうか。アフリカ連合はすでに欧州評議会のモデルに沿って努力している。EUの統合レベルに至る道は険しいだろう、アフリカの国々は異なる政治体制から構成されているし、解決すべき深刻な紛争もコンゴやスーダンにあるからだ。
 米大陸には米州機構や、米国、カナダ、メキシコの自由貿易圏(NAFTA)がある。東アジアと太平洋地域には、協力の様々な枠組みがある。アジア太平洋経済協力(APEC)、上海協力機構、南アジア地域協力機構、ASEANさらにASEANプラス3(日本と中国と韓国)などがある。これら複数の協力メカニズムを合理化したり、内部の信頼関係を強める努力も大切だ。東アジアも東南アジアでも、紛争の歴史やイデオロギーの溝がある。欧州と同様、かつての敵やライバル同士の和解の努力が大事だ。

(2014年4月3日に開催された「日欧有識者フォーラム」での講演を要約して掲載)
政策オピニオン
ヴァルター・シュヴィマー 元欧州評議会事務総長
著者プロフィール
オーストリアの政治家(国民党)、元外交官。オーストリアの国会議員を28年務めた後、1999年から2004年まで欧州評議会(Council of Europe)の事務総長。現在は、国連 NGO「ワールド・パブリック・フォーラムー文明間の対話」(WPF)の国際協調委員会議長を務める。2010 年に、セルビア最大の私立大学であるメガトレンド大学の総長に就任。主な著書に『European Dream』(Bloomsbury Academic、2005年)がある。

関連記事

  • 2022年1月18日 家庭基盤充実

    コロナ禍で悪化する若年層のメンタルヘルス

  • 2013年12月25日 平和外交・安全保障

    大国のパワーシフトとアジアの地域統合、日本の役割 ―欧州の経験を踏まえて―

  • 2021年4月13日 グローバルイシュー・平和構築

    新型コロナ感染で増大する世界の紛争リスクと日本の役割

  • 2019年1月24日 グローバルイシュー・平和構築

    宗教と外交政策 ―宗教の関与による平和構築の事例―

  • 2014年2月21日 グローバルイシュー・平和構築

    中東における根源的平和構築のアプローチ ―「中東平和イニシアチブ(MEPI)」モデルとその可能性―

  • 2020年8月6日 平和外交・安全保障

    コロナが変えた世界 ―中国を警戒し始めた欧州―