海と人の教育学 ―公共財とフミリタスへ―

海と人の教育学 ―公共財とフミリタスへ―

2017年10月11日

1.はじめに

 今年3月に小中学校の新しい学習指導要領が告知された。小学校のそれは平成32年度に、中学校のそれは平成33年度に施行される予定である。今回の改訂のキーワードの一つが、「海」である。たとえば、小学5年生では、「海洋立国」、また「海に囲まれた日本」が強調されている。
 もう一つのキーワードは、人間と自然のつながりという概念である。たとえば、中学社会の学習指導要領の「目標」には、「人間と自然環境の相互依存関係」という言辞が加えられている。
 本論では、こうした新しい学習指導要領の内容を視野に入れながら、海・自然と人間の深い関係について考えてみたい。それは、「人間性」(フマニタス)、つまり「人格」とは何か、を考えることに通じているはずである。

2.基本的で不思議な事実から

 まず基本的で不思議な事実を確かめるところから始めたい。私たちは、休日になると、しばしば山や海に出かける。海では、遠くの水平線を眺めたり、足下の細波の音を聴いたり、潮風を浴びたり、とさまざまな体験をする。山では、山頂から雲海を眺めたり、木々のざわめきを聴いたり、腐葉土の香りに包まれたりする。こうした海や山でのありふれた体験というものは、なぜか私たちの心を癒し、安らぎを与えてくれる。
 私たちは、文明・文化の真っただなかに暮らしながら、あたかも「自然とのつながり」を無意識に求めているかのようである。いわば、頭では、自然は「利用し活用するもの」と考えながら、心のどこかで、人は自然に与かって生きている、自然を享受して生きていると感じているかのように。こうした「自然とのつながり」という感覚は、基本的で不思議な事実といえるだろう。
 ふりかえれば、この「自然とのつながり」は、古代ギリシヤ哲学やキリスト教思想のなかにも記されている。しかし、なぜ人は自然とともにあると心が癒され、慰められるのかについて、明示的に説明した理論や思想に、私は出会ったことがない。それは、今でも説明しがたい事実のままである。
 この基本的で不思議な事実としての「自然とのつながり」は、海と人のつながりといいかえられる。そのつながりは、古い神話や宗教に数多く記されている。端的にいえば、いのちはすべて海から生まれている、人は海から生まれたといった考え方が、多くの神話や宗教のなかに見いだされる。
 たとえば、旧約聖書の「創世記」には、天地創造の様子が記されている。最初に水があって、水を集めたものが海と呼ばれ、その海のなかでいのちが創り出された、とされる。もっとも、人間は、神の似姿として土から作られたと書かれているので、海から生まれたとは言いがたいだろう。
 ともあれ、古くから人類は海とのつながり、大きく拡げていえば、「自然とのつながり」を感じ考え続けてきた、といってよいだろう。

3.「里海づくり」の授業

 次に具体的な海洋教育の授業の一つとして、環境省が中心になって推進している環境学習プロジェクト、「里海づくり」の授業を紹介したい。
 環境省の定義によれば、「里海」とは「人手が加わることで生物の生産性と多様性が高くなった沿岸海域」である。ようするに、人と海が共生している場所であり、「里山の海版」ということができる。この「里海づくり」という実践は、人びとの生活形態が大量消費・大量生産に変わってくるとともに、海が汚れ、環境が悪化するという現実を踏まえて行われるようになった。
 具体的な授業として、たとえば、「海の自然度調査」がある。それは、子どもたちに、海を環境として保全するために自分にできることを考えさせる、という体験型の授業である。子どもたちは、グループになって海に出かけ、海の生物を観察する。そして漂着物、ごみを調査する。さらに海の水の透明度、汚れ具合も調べる。学校に戻って、そうした知見をワークシートにまとめ、発表し、どうしたら大切な里海を守れるか、みんなで考える。
 こうした授業実践は、活動的・協働的であり、探究学習に通じるアクティブラーニングである。ただ、この授業においては、前述の「基本的で不思議な事実」は消えてしまっている。本来、人が人としてもっているだろう、「自然とのつながり」は、前提とされているかもしれないが、言葉としてあるいは理由として明示されていない。そこに見いだされているのは、生態系が変化し、環境が悪化しているという負の事実だけである。

4.なぜ「海の環境の悪化」は「問題」か

 なぜ、海の環境が悪化すると問題なのか。あるいは、なぜ人は海の環境の悪化を問題とするのか、と問われれば、ふつうそれは、私たちの生活に大きな負の影響を及ぼすからだ、という答えが返ってくるだろう。
 たとえば、瀬戸内海では「里海づくり」を中心とした活動が多く行われている。古来、瀬戸内海は「豊饒の海」と呼ばれ、さまざまな魚介類を人びとに贈り届けてきた。しかし、近代化のなかで自然海岸が埋め立てられ、藻場・干潟が失われ、また産業排水・生活排水で水質が悪化し、赤潮が多発するようになった。いいかえれば、物質環境(森・川の栄養塩類が川から海に流れ込み、植物プランクトンや海藻が育ち、これを小型の魚類、貝類が食べて、それを大型の魚類が食べ、さらにそれを人間が食べるという連関)がアンバランスになり、生態系が劣化し、海の生物の種類・個体数が減少し、生命の多様性・生産性が低下していった。この結果、漁獲量が減って、漁業による生活が成り立たなくなっていった。
 これは、たしかに大きな問題である。しかし、ここにおいても、「基本的で不思議な事実」が理由として挙げられていない。私たちが自然とつながっているという感覚が、この議論のどこにも見いだせない。

5.なぜ「地球温暖化」は「問題」か

 もう一つ、地球温暖化を取りあげよう。海は、地球の温暖化と密接にかかわっている。地球惑星科学の専門家によれば、海がなくて全部が陸地だったら、地球の温暖化は今よりずっと進行し、地表温度は40度を超えている、という。海が熱をため込んでいることで、地球の温度上昇が抑えられている、と。
 2010年までの100年間で、地球の平均気温は1.4度上昇した、という。さらに2100年までに、最大4.8度上昇すると予測されている。50年前、(私の故郷である)山口県では、夏の気温が30度を超えることはめったになかった。冬は、数年に一度、水道が凍っていた。しかし今では、夏の気温は30度をはるかに超え、冬に水道が凍ることはまったくない。
 私たちは、地球温暖化という現実を日々実感しながら生きている。温暖化による海面温度の上昇は、内陸部に集中豪雨を発生させ、大きな災害をもたらす。また、海の酸性化によって、サンゴやアワビや魚介類の生育に大きな影響を与える。さらに、海水温の上昇によって魚が取れなくなるという問題も生じる。
 温暖化対策として、2015年のCOP21(国連気候変動枠組条約第21回締約国会議)で、世界の気温上昇を2度未満に抑えるための国際的な取り組みが合意され、いわゆる「パリ協定」が採択された。現在、110カ国以上の国と団体がこの協定に加盟している。しかし、ここでの議論も、生活の問題、経済の問題が前面に出てきて、「基本的で不思議な事実」が出てこない。

6.「自然とのつながり」を下地としつつ

 ここで、「自然とのつながり」を下地にして、「海の環境の悪化」「地球温暖化」などを問題と感じる、もっとプリミティブな理由を考えてみたい。
 海の環境の悪化や地球温暖化といった現実は、利益減少、被災損害、商品不足など経済的・社会的な問題を派生させるからこそ「問題」とみなされる。しかし、私たちの心のなかには、これらの問題を「問題」とみなす、言葉では表現しがたい、「自然とのつながり」という感覚があるのではないか。
 授業論として考えても、海にかんする問題解決型の授業を行うとき、子どもたちの最初の動機づけを、「自然とのつながり」というプリミティブな感覚においたほうがよいだろう。政治の問題、領土領海の問題を最初に持ち出しても、子どもからすれば、なかなか実感がわかないだろう。むしろ、人間としての根本的な感覚・情感を前面に出しつつ、授業を始めるべきだろう。
 このプリミティブな感覚は、中世ヨーロッパの思想において「感受性」(アフェクトゥス)と呼ばれていた営みである。人には普通の知覚や認識を超えた感受性がある。その感受性こそが人と他の生き物のつながり、つまり「自然とのつながり」を可能にしている。それは、人の「いのち」が同じ「いのち」である生きものと「交感する」(情感的に通じあう)ことである。

7.自然へのかかわり方という教育学的課題

 さて、このプリミティブな感覚(情感)を踏まえるとき、現代教育学は、何を考えるべきだろうか。私は、私たちが持っているこの基本的な感覚にもとづいて、人として望ましい「自然へのかかわり方」を言語化し、次世代に伝えることが、現代教育学が担うべき重要な課題である、と考える。
 人は一般に、何らかのルールにのっとり、何らかの利害にもとづき、発言し行動する。しかし、人の言動は、こうした現実的な側面だけでなく、情感的な側面、私の言葉でいえば、存在論的側面という意味ももつ。私たちが「人として」というとき、あるいは「良心の声に従って」というとき、これらの言葉が何を意味しているのか、考えるとき、利益、権利、義務、さまざまなルールを考えながら行動する自分とは違う、もう少し深いところにある心の領域が見えてくるだろう。それが存在論的側面である。

8.コモンズとしての森

 そうした心の存在論的側面を念頭におきつつ、思考の糸口として、二つの概念を設定したい。ひとつは「コモンズ」(commons)、もうひとつは「畏敬の念」、すなわち「フミリタス」(humilitas)という概念に通じるそれである。
 コモンズは、経済学者の宇沢弘文が1995年に『地球温暖化を考える』で提唱した概念である。コモンズとは、通常「共有地」「入会権」と訳されるが、具体的にいえば、だれかの所有物ではない、だれでも利用できる場所である。ただし、この場合の「だれでも」は、自分たちの町・村といった特定の共同体の構成員のみに限定されていて、それ以外の人はふくまれていない。
 日本についていえば、明治期以降、私的所有権という考え方が定着するとともに、少なくなっていったが、そうしたコモンズにあたる場所(おもに森)があった。その森では、人びとが、下草を刈って肥料にしたり、枝を取って薪にしたりした。ときには、木を切り倒し、家を作る材木に使った。こうした、コモンズという協働・共有の場所は、今でも世界各地にあるが、先進国では、日本と同じように、私的所有権という考え方が定着するにつれて、少なくなっていった。ちなみに、アメリカのマサチューセッツ州ボストンには「ボストン・コモン」という大きな公園があるが、それはもともとコモンズであった。
 宇沢は、森と人とのかかわり方を考えるとき、すべての森をコモンズと見なすことを提案している。それがなぜ温暖化を抑制することにつながるのか。簡単にいえば、人は、私的所有権を超える共有の財産という考え方を持つことによって、他者ともっと協力できるようになり、人と森の共生、さらに地球全体との共生を考えるようになる。そのとき、おのずと温暖化への対策も生まれてくる、ということである。科学技術的対策を考える前に、人びとの意識を変えることで温暖化を抑制することを、宇沢は考えたのだろう。

9.公共財として海をとらえる

 さて、私の提案は、この「森」を「海」に置きかえることである。海洋教育を行うとき、海をどうとらえるか、あるいは自然をどうとらえるかというとき、これは、検討に値する考え方ではないだろうか。
 ただし、「コモンズ」という言葉ではなく、「公共財(善)」という言葉に変えた方がよいだろう。というのも、コモンズは「ローカルコモンズ」といわれるように、基本的にある特定の共同体が所有しているものを指すからである。海をそのように考えることは、適切ではない。
 もちろん、里海は、ローカルコモンズと考えることができる。近海を里海として考えること、そこに自分たちで手を入れ、健全な里海をつくること、まさにコモンズと考えることは、適切な考え方である。
 しかし、もっと広い沿海、大洋になると、そうはいかない。大洋、たとえば、黒潮は、特定の共同体を超えた広がり・流動性をもつからである。
 ここでいう「公共財」は、「レス・プブリカ」(res publica)の翻訳である。「レス・プブリカ」は、「みんなのもの」(res=もの、publicus=みんなの)を意味する。ちなみに、「共和国」と訳される「リパブリック」(republic)は、この「レス・プブリカ」という言葉から派生した言葉である。
 この公共財という概念を支えているのは、「私的所有権」の大前提にある「自分のものだから大切にする」という考え方の対極にある考え方である。それは、「みんなのものだから」大切にするという無私の考え方である。

10.畏敬の念と公共財

 この「みんな」は、基本的に私たち人間のことをさすが、できれば、すべての生きもの、さらに自然全体に広げるべきだろう。「人間は万物の上に立つ」とか、「生きものは人間に食べられるために創られた」といった人間中心主義を退けるためである。人間も生きものも、いのちとして同等であると考えたい。
 というのも、人間は、なるほど高度なテクノロジーを持っているが、どんなにがんばっても細胞一つ創り出せない。私たちは、人間が誇る技術力を超えて、いのちがもつ豊饒さを受けとめ、驚異の感覚をもつべきではないだろうか。人間は、豊穣に満ちたこの世界のほんの一部を占めているだけである。
 思い出されるのは、道徳教育の指導要領の解説書のなかで「畏敬の念」が語られていることである。この「畏敬の念」を存立可能にするものは、この驚異の感覚であろう。すなわち、人間が作り出せない人為を超えたものが、この世界に満ち溢れているという感覚、人間はその満ち溢れたものの一つに過ぎないという感覚が、この畏敬の念を存立可能にするだろう。
 なるほど「スピリチュアリティ」によって「畏敬の念」が可能になるという考え方もあるだろう。しかし、どんなに科学的に考え工夫しても、人間はいのち一つも創り出せないという事実を直視したうえで、人為を超えたものの一つとして私たちも生きていると考えるほうが、納得しやすいだろう。
 つまるところ、海洋教育は、基本的に、海にかんする知識技能の教育に限られるものではなく、自然全体を考える教育になるべきである。さらにそれは、人間を形成するという意味で人間の教育につながっていくべきである。
 なぜ公共財を理念として語るのが大事なのか。それは、基本的に私たちが、「私が」というときの「私」が呼び寄せるエゴセントリズム、所有個人主義という考え方を超える考え方をもつべきだからである。個人・自己を否定するためではなく、「公共のものだから大切にする」という考え方を持つために。さらに言えば、「公共のものだから大切」と「自分のものだから大切」のバランスを取るために、重層的思考を持つことが必要だからである。
 なるほど、現実の海洋は、たしかに領海なるものに区切られていて、多くの問題も起きている。さらに排他的経済水域(EEZ)も設定されている。どこまでも海洋は区分けされている。これでは、公共財としての海という考え方は成り立たない。現実的には、政治的な議論や対応が必要であるが、心のなかでは、海は本来、公共財であるというスタンスをもちつづけるべきである。
 いいかえれば、理念がもっとも語られるべきである。おそらく社会主義の実験が大失敗をして以来、社会科学や人文学は、理想や理念を語ることを過度に避けるようになっているように思われる。ポストモダニズムなどの影響もあるだろうが、理念を語ることを恐れすぎているように思われる。いたるところでこまかな規則が定められているが、規則で人を縛るのではなく、理念を掲げ理想を構想することで一定のベクトルを創出することが、もっと生じるべきだろう。

11.海が贈り人が与るという関係

 さて、海洋教育に戻っていえば、海を公共財と考えるということは、望ましい自然とのかかわり方をどのように表現することになるだろうか。
 畏敬の念、公共財の理念を踏まえていえば、プリミティブな「自然とのつながり」は、自然と人の「贈り与る」関係といいかえられる。この、自然が贈り人がそれに与るという関係を前提にするなら、環境教育でいう「保護か開発か」という対立図式を退けることができる。環境教育の重要な概念である「持続可能な開発」という概念自体が、妥協の産物に見えてくるだろう。
 たとえば、「適度に保護し適度に開発すれば大丈夫」「あまり欲張らなければ、自然と共存・共生できる」という考え方は、自然を客体と見なし、それを操作する人間を主体と見なしている。人間が主体であり、視界に入るものは制御し操作できるという考え方を、無反省に前提にしている。
 むろん、自然科学においては、およそ主客の図式が大前提である。この図式が前提にあるからこそ、近代の文明・文化は大きく進歩してきた。教育においても、理科における探究学習は、この主客の図式なくしては成り立たない。
 東京大学の海洋教育促進研究センターの日置光久教授は、理科的な学びを構成する四つの概念を示している。「体得」「観察・思考」「習得」「納得」である。たとえば、実際に海に行って、海を「体得」する。次に、それをデータにして頭のなかで違いを確認する。潮の満ち引きが主題であれば、岸壁のこの辺りまでは白いから、また漂着物がどこまで来ているかを観察し、この辺りまで海水がくるだろうと考える。次に、なぜそんなことが起こるのか、自然科学的知識で言語化していく。潮の満ち引きは月の引力によって起こる、日本海側と太平洋側では水位も違ってくる、と。そこでは、自分の考えたことが補正されたり確認されたりする。これが「習得」である。これらに加えて、いったん身に付けた知識を実際に確かめてみる。一日に二回しかない潮の満ち引きを実際に目で見て、確かめる。これが「納得」である。こうした科学的思考においては、私は主体であり、潮の満ち引きは客体であり、主体が知的に高まることが、探究活動のめざすところである。
 「贈り与るという関係」を象る思考は、こうした科学的思考とともに大事にされるべきである。この思考は、「存在論的思考」と呼ぶことができるが、この存在論的思考は、科学的思考を否定しない。この二つの思考は、対立するのでも、違背するのでもなく、重層するもの、重ね合わされるものである。

12.「人格の完成」とは

 ところで、〈畏敬の念は、神なしでは考えられない〉と考える人もいるだろう。私も、その意見に賛成する。しかし、いくつか考えるべきことがある。
 まず一つは、神(仏)という概念が、多くの私たち日本人にとって、何らかの「願い」を託す相手であることである。この「願い」をもつ人が、およそ「エゴ」として存在していることである。「私は〇〇をしたいが、自分の力だけでできないから、助けてください」という「私」は、「私の利益」「私の健康」「私の家族」という「私」、エゴセントリズムに通じる「私」である。
 こうした「願い」を向けられる日本の神仏と対照的なのが、キリスト教の神である。キリスト教の神は、「願う」相手ではなく、「祈る」相手である。「祈り」の中味は、「私」のことではなく、他者のことである。キリスト者は、この世界の不幸・悲劇・苦悩について「祈る」。私は何をするべきなのか、と。
 確認しておくと、キリスト教の神の概念は二重である。一つは、スコラ学(中世の神学)において精緻に概念化された、全知全能の神である。自らは不動であり、すべてのものを動かす神である。「在りて在る」と形容される神である。もう一つは、イエス・キリストという神である。通常、教育学で「人格の完成」といわれるときにめざされていたのが、このイエス・キリストである。人が「祈る」相手は、基本的に後者の神である。
 もう一つ考えるべきことは、この二つの神の扱いである。すなわち、日本に「人格の完成」という概念が入ってきたとき、どちらの神もすっかり排除されたことである。たとえば、教職課程の授業で「人格」という言葉が使われるが、すくなくとも道徳教育で語られる「人格」は、カントの用いた「ペルゼンリッヒカイト」(Persönlichkeit)の翻訳である。その語幹の「ペルゾーン」(Person)は、英語の「パーソン」(person 人)にひとしい。そして「ペルゾーン」の元の言葉は、ラテン語の「ペルソナ」(persona)である。さらにさかのぼると、「ペルソナ」は、古代ギリシア語の「プネウマ」(pneuma)の翻訳である。「プネウマ」は「息吹」を意味する。「息をしている」ことが生きている証しであるように、息吹は、いのちの象徴であり、前者の神からの贈与である。つまり、キリスト教においては、人を生き生きと生かすいのちは、「在りて在る」神の贈りものである。それは、生命ではなく、人の心のなかに「神性」として在るもので、後者の神すなわちイエス・キリストの言葉とともに呼び覚まされる潜勢力である。「人格」は、こうした思想史的淵源をもつ概念であるが、日本の教職課程の授業で、こうした思想史的淵源が語られることは、まれだろうから、この概念は、ほとんど文脈が確定されないまま、あれこれ転用され、消費されてしまうだろう。
 ともあれ、キリスト者ではない多くの日本人にとって、いいかえれば、神に「祈る」ことと無縁に生きている人にとって、キリスト教の神に代わりうる超越的なものは何か、という問いは、子どもたちに畏敬の念を育もうとするかぎり、真剣に考えなければならない。

13.まとめ

 これまでの議論をまとめよう。まず冒頭で、人は、自然との感覚的・情感的なつながりをもっている、と述べた。次に、自然を公共財と見なすとき、このプリミティブな「自然とのつながり」は、自然と人の「贈り与る」という関係として、語りなおすことができる、と述べた。そして、この「贈り与る」という関係を支えるものが、自然に対する畏敬の念であり、それを存立可能にするのが、驚異の感覚である、と述べた。
 自然に対する畏敬の念は、私たちが、いわゆる「スピリチュアリティ」とは無関係に、エゴセントリズムや主体/客体の図式を棚上げするときに、「驚き」としておのずと立ち現れてくる。そしてそのとき、私たちは、本来的な意味での「人間性」にあふれる「人になる」ことができるだろう。
 ラテン語にさかのぼれば、「人間性」は「フマニタス」(humanitas)である。これは、英語の「ヒューマニティ」の語源である。フマニタスの本質は、「フミリタス」(humilitas)つまり「慎ましさ」である。「慎ましく」生きるからこそ、人は「人間的」である。「フマニタス」と「フミリタス」に共通する「フムス」(humus)は、「地面・土壌」を意味する。あくまで一つの解釈であるが、一番下にあって生きものを支えるものが「フムス」である、と考えるなら、他者の下にあって他者を支えることが、人が「人間的」であることである。
 これに重ねて確認しておくなら、主体/客体の図式というときの主体も、英語の「サブジェクト」(subject)の語源であるラテン語の「スブエクトゥム」(subjectum)にさかのぼれば、「下にある・そばにある・従っている」を意味している。これを「服従している」ととれば、否定的な意味になるが、「下から支える」ととれば、肯定的な意味になる。そして、後者の意味でとれば、スブエクトゥムもフミリタスに通じている。すなわち、日本語の「主体」という言葉を見るだけなら、想像しがたいが、その言葉がもともともっていた意味は、人が人を下支えすることに通じている。それは、エゴセントリズムとは無縁である。「人間性」や「主体」の言葉の履歴を辿ることは、現代社会で自明化しつつあるエゴセントリズムを相対化する契機になるだろう。
 海洋教育に立ち返っていえば、教育学的に海洋教育がめざすところは、自然と人の「贈り与る」という関係を、この本来的な人間性の育成に通じるものとして、子どもたちによく理解してもらうことである。この関係は、たんなる知識ではなく基底的思考である。すなわち、学力や技能などのさまざまなコンピテンシー(competency)の基底として培われるべき思考である。
 海洋教育を実践するうえで重要なことは、二つの思考を重ね合わせることである。すなわち、人間性の育成に通じる存在論的な思考と、現実的な思考、たとえば、政治経済的な思考、自然科学的な思考という、二つの思考を重ね合わせること、できるかぎり存在論的な思考を基礎におくことである。

(本稿は、2017年8月5日に開催された人格教育講演会における発題をまとめたものである。)

政策オピニオン
田中 智志 東京大学大学院教育学研究科教授
著者プロフィール
1958年山口県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程満期退学。東京学芸大学助教授、山梨学院大学教授、山梨学院大学付属小学校校長等を経て現職。博士(教育学・東大)。専門は教育思想史、教育臨床学。著書に『人格形成概念の誕生』、『学びを支える活動へ』、『教育学の基礎』、『プロジェクト活動』(共著)、『教育人間論のルーマン』、『教育思想のフーコー』、『教育臨床学』、『共存在の教育学』、『何が教育思想と呼ばれるのか』他多数。

関連記事

  • 2019年10月2日 グローバルイシュー・平和構築

    海洋教育が目指すもの

  • 2020年8月3日 グローバルイシュー・平和構築

    海洋国家日本と海洋教育 ―初等教育では何を優先的に教えるべきか―