アフガン・テロ戦争とアフガニスタンの将来:日本の役割

アフガン・テロ戦争とアフガニスタンの将来:日本の役割

2015年7月21日

はじめに 

 国際テロは、21世紀の世界が直面する大きな問題である。イスラム国が勢いを増しつつある今日、イラクやシリアに眼を奪われがちであるが、アフガニスタンではタリバンが復活を遂げつつある一方、他方ではガニとアブドゥラ両陣営の軋みが目立っており、連合政権の崩壊から内戦に至る危険すら感じられる。本稿では、読者の関心が深いと思われる以下3点について検討したい。1点目は、超大国アメリカが、ベトナム戦争を超えてアメリカ史上最長の戦争を戦ってもなおタリバンに手こずったのみならず、タリバンが復活を遂げたのは何故かであり、2点目は、現下の状況ではアフガニスタンが突き進んでゆく方向を変えることは極めて難しく、その意味で日本がとるべき政策の提言はできないが、過去の日本の援助で行われたDDRを検証して将来の糧にすることであり、3点目は、果たしてアフガン内戦は不可避なのかである。

1.何故、タリバンは復活したのか

 アフガン・テロ戦争は、初戦から躓きの連続だった。2001年10月7日に始まったアフガン・テロ戦争は、約1か月後の同年11月13日にカブール開城を果たし、難なくタリバンを追い払ったように見えるが、実はそうではなかった。ブッシュは、「パキスタン軍人もクンドゥスに未だ居残っているので救出させてほしい。彼らの死体がイスラマバードに届けば自分の政治生命は危うい」とのムシャラフの頼みを聞き入れ、同月中旬アフガン北部クンドゥスに集結したタリバンを一網打尽にできるチャンスを逃し、パキスタン軍人と共にタリバンの大物たちをパキスタンに逃してしまった。クンドウス作戦はアフガン・テロ戦争の初戦で最大の失敗だったが、同年12月のトラボラ作戦でもオサマ・ビンラディンを取り囲みながら捕まえられず、翌2002年3月に行われたタリバン、中でもハッカーニ・ネットワークの残党狩りのために行われたアナコンダ作戦も成果を上げられなかった。
 パキスタンに逃げ込んだタリバンは、2002年に体制を立て直して2003年から国境を越えてアメリカ軍にゲリラ攻撃を挑むようになった。何故、タリバンがパキスタンにsafe heavenを見出すことができたかと言えば、ムシャラフが公式にはアメリカの対テロ戦争に協力すると言いながら、裏ではタリバンを支援するダブルゲームを行っていたからである。アメリカは、ムシャラフをアフガン・テロ戦争を遂行する上での欠くべからざる盟友と考え、ムシャラフのダブルゲームになかなか気づかなかった。何故、ムシャラフがダブルゲームを行ったかと言えば、パキスタンの国家安全保障政策上の考慮、戦略的深み政策(Strategic Depth Policy 以下、SD政策という)のためである。SD政策とは、インド脅威論から出たパキスタンの対アフガン政策で、アフガニスタンに親パキスタン政権とまでは言えないにしても、少なくともパキスタンとインドを比較して、よりパキスタンと親密な政権をアフガニスタンに据えなければ、パキスタンはインドとアフガニスタンという二つの敵に挟まれることになり、いかなる手段をとってもそのような事態は防止しなければならないという、パキスタンの国家安全保障政策をさす。隣国に友好国を持ちたいのは普通のことであるが、SD政策が特異なのは、インドの脅威を前提にしている点と、あらゆる介入的手段を厭わない点である。
 アメリカ軍に対する国境を超えたタリバンのゲリラ攻撃は2004年になると益々増加していき、ムシャラフは、アメリカからの強い圧力を受けて2004年3月に南ワジリスタンに対する軍事作戦を行った。この作戦は、一言でいえば、アメリカに見せるための地上掃討ヘリなどによるハデな攻撃と、部族民への妥協だった。部族民は、伝統的に軍の立ち入りが禁じられた部族地域に対する軍事作戦とムシャラフのダブルゲームに怒っていた。結局、ムシャラフは、部族民にアフガンに行って戦闘を行わないこと及び外国人戦士を匿わないことと引き換えに、恩赦と賠償金を与えた。しかし、アルカイーダら外国人戦士は、軍事作戦の主要なターゲットが自分たちであるのを知っており、将来再び軍事作戦が行われることを懸念していた。もし、部族民が外国人戦士を当局に引き渡す行為に出れば、居場所を失ってしまうからである。そこで、アルカイーダは、2006年に北ワジリスタン作戦が行われる前に、部族民の心情に訴えて彼らを自分たちの味方に付け、ムシャラフから引き離すための説得活動に乗り出した。「ムスリムなのにアメリカに協力するムシャラフは最悪だ」という説得は功を奏し、2005年までには、南北ワジリスタン部族民の心情を、タリバンを支援してアメリカと戦うべきだとの考え方で一致団結させることに成功した。しかし、部族民の団結は、昔からの部族間の確執や日常的な諍いのために崩れる恐れのある脆いものでしかなかった。これを強固なものにするためタリバンのオマルは、部族民のもとに密使を派遣した。密使は、「パキスタン軍に対する攻撃を止めて部族民の力をタリバン復帰のために貸してほしい」と熱弁をふるうと同時に、ザルカヮイからもたらされた爆発物や自爆テロの技術を部族民に伝えた。ザルカヮイは、オサマ・ビンラディンから金をもらってアフガニスタンで、爆発物の訓練を重ね、イラク戦争の後、オサマ・ビンラディンに忠誠を誓ってイラクのアルカイーダを創設した人物だった。こうして、2006年春に始まったタリバンの反撃、いわゆるSpring Offensiveは、パキスタンの部族地域に集結したハッカーニ・ネットワークなどのアフガン人戦士約3000人、アルカイーダ、IMU(Islamic Movement of Uzbekistan)、ETIM(East Turkistan Islamic Movement)などの外国人戦士約2000人、これに部族民約2万5000人が加わり、JeMやLeTなどのパキスタン武装勢力の戦士約1万人もパキスタン各地から部族地域に集まって、総計約4万人に膨れあがり、彼らが前衛部隊となって戦われた。Spring OffensiveではISAFよりもタリバン側に多くの被害を出したが、タリバンの士気は大いに高揚し、タリバン復活のキッカケとなった。Spring Offensive以降、タリバンの攻撃は、件数・態様とも増加・悪質化し、特に2008年からはその傾向が顕著で、現在はタリバン政権樹立時にも支配を及ぼせなかったアフガン北部にまでその影響力を及ぼしている。
 最後に何故タリバンが復活を遂げたかで忘れてならないのは、アフガン人一般民衆がタリバンを支持していることである。何故、彼らがタリバンを支持するのかを一言でいえば、タリバンは草の根の勢力で、一般人の心情を代弁している上、彼らが生活してゆくためにはタリバンに頼る以外に方法がないためである。そのような状況は、タリバン政権の成立によって平和がもたらされ、多くの民衆が軍閥の専横から解放されて胸をなでおろした状況と同じものである。これに対し、多くの住民にとって、外国軍は招かれざる客でしかなく、占領軍のように大きな顔をして外国軍が存在することに敵意と恐怖を覚えている。部族の基本的な慣習を無視して行う夜間の民家捜索と、外国軍の軍事作戦によって民間人が受ける付帯的損害(いわゆるcollateral damage)は、特にアフガン人の怒りを買っている。

2.日本が担当したDDRは成果をあげられたか

 タリバン掃討後のアフガニスタンを一つの国として安定させるには、当時、各地に群雄割拠していた軍閥を解体して武力をアフガン国軍を中心としたANSF(Afghan National Security Forces)に統合するとともに、軍閥が抱えていた民兵に職を与えて市民社会に統合する必要がある。このような観点から始められたのが、武装解除、動員解除及び市民社会への再統合事業(the disarmament demobilization and reintegration programme 以下、DDRという)及び不法武装集団の解体事業(disbandment of illegal armed groups 以下、DIAGという)で、日本が主要な資金援助国となって行われた。
 果たしてDDRは所期の目的を果たすことが出来たのだろうか。結論を先に言えば、DDRは、2003年2月~2005年6月(社会復帰活動は2006年6月まで続いた)までの約2年間アフガン全土で実施され、目標とされた約6万人が武装及び動員解除され、約3.6万個の小火器、1.1万個の重火器が集められたが、DDRで武装解除された兵士は中小軍閥のあまり役に立たない兵士で、集められた武器は壊れていたり旧式で使い物にならないものが多かった。DIAGも、DDRと同じことが当てはまる他、間もなく実施された地方警察(Afghan Local Police以下、ALPという)創設事業によって骨抜きになった。現在でも、アフガニスタンでは、各地で軍閥が群雄割拠し不法武装集団が跳梁跋扈している状況である。
 DDRが失敗した最大の理由は、当時、DDRを実施すること自体に無理があったことである。換言すれば、DDRは、第二次世界大戦後に復興の入り口に立った日本が経験した多くの復員兵の社会復帰とは全く違う新たな取り組みで、当時、アフガニスタンは、DDRを成功裏に実施できる社会状況ではなかった。つまり、DDRは、武装・動員解除した元民兵を教育・訓練して市民社会に復帰させることを目的にしていたが、アフガン社会は2003年になると急速に治安が悪化していき、警察も有効に機能していなかった。そのような状況で武装解除することは、危険を呼びこむようなものだった。例えば、DDRによって解体された中小の軍閥の中には、彼らが抱えていた民兵も再雇用されなかったため、新たな武器も手に入れられず丸裸になった者もいた。彼らは、丸裸になった代償としてアフガン国軍の助力を約束されていたが、実際にはタリバンに攻撃されてもアフガン国軍の支援は得られず、結局、元の支配地域から逃走を余儀なくされた。また、市民社会に復帰させると言っても、長年の内戦に打ちひしがれた社会で生業を見いだすことは極めて困難だった。つまり、学校がないのに教師として訓練しても就職先がなく、職業訓練をしても小規模事業を起こせる見込みはなく、農地が著しく不足しているのに農業訓練をしても無駄であるなど、訓練・教育を受けた者を受け入れる社会状況にはなかった上、復興どころか社会状況の悪化が懸念され、将来の展望は全く開けていなかったのである。このような中で、地雷除去とアフガン国軍やアフガン国家警察への再就職だけは、元民兵を取り込める有効な措置であったが、年齢制限があるなどして、これらに再就職した者は約4%に限られた。なお、中小の軍閥の中には、DDRを利用して自ら警察署長などになった者もいた。彼らは、迫り来る社会情勢の悪化に備えて、出来るだけ自分の懐をこやそうと、ポストを利用して部下の警察官を募集し、管轄地域をあたかも自らの封土のように治め、腐敗した行政を行って治安を悪化させた。このような状況は、タリバンが勢力を伸ばす格好の土壌になった。
 もう一つのDDR失敗の理由は、DDR実施スキームに問題があったことである。DDRが成果を上げるには、DDR対象者が的確に選ばれなければならないが、DDRのスキームは、軍閥が実質的にDDR対象者を選定できるものだったのである。つまり、DDR実施スキームは、国防省がDDR希望者民兵リストをad-hoc Afghanistan New Beginning Programme(以下、ANBPという)に渡し、移動武装解除隊(Mobile Disarmament Units 以下、MDUという)が全国各地を訪問し、UNAMAや日本の監督の下に地域検証委員会が民兵に会って検証の上、DDR対象者を決め、それをMDUに報告してMDUが最終的に確認するというものだった。一見すると、このスキームは、DDR対象者が的確に選定されているように見えるが、実際は、各地の軍閥の力は強く、軍閥は、地域検証委員会のメンバー(政府代表1人、ANBP代表1人、村の長老3人で構成される)である村の長老を動かして、国防省のDDR希望者民兵リストを決めていた。つまり、DDRは、はじめから軍閥が差し出した民兵・武器リストに基づいて決められていたのである。
 その他、DDRが本来の目的を達成するためには、武器や民兵の数をあらかじめ掴み、実態に応じて徹底して実施することも必要である。しかし、そのような実地調査は行われず、DDRは任意の措置でしかなかった。それのみならず、当時、多数の武装勢力が国全体に広がっていたことからだけでも、軍閥が抱える民兵の数は6万人よりもはるかに多いと考えられたが、当初から徹底的に実施することは目指されず、6万人という実施の目標値=DDRの限度が設けられた。限度が設けられたのは、軍閥がDDRを利用して懐を肥やすのを避けるためである。つまり、当時、多くの軍閥はDDRの対象となるべき民兵の数について水増し申告を行った。水増し申告は、すでに市民社会に戻っている者を、武装解除と動員解除に応じたように見せかけて、DDRに応じた民兵に支払われる手当金を詐取すると同時に兵力維持を図るために主張された。手当金支給については、手当金が軍閥に巻き上げられるケースも頻発したので、後には廃止されたが、DDRの試行段階では、武装解除と動員解除に応じた兵士個人に手当金(US$100)が支払われていた。また、多くの民兵をDDRの対象にすると、一部とはいえ、アフガン国軍兵士などとして再雇用される者も増え、彼らに支払われる給料や支給される新たな武器も、軍閥の利用に供することになるので、そのような事態を避ける必要もあった。
 最後に、DDRが失敗した理由として挙げるべきは、CIAが行った軍閥への現金支払である。アフガニスタンでは昔から恒常的で強力な国の行政機構によって行政が行われたことはなく、アフガン王が金やその他のギフトを地方の支配者に渡して彼らの気持ちを引きつけ、その見返りに彼らが王に忠誠を誓ってきた。CIAが、軍閥に金を配ったのは、カルザイ政権を維持してゆくためには、この昔からのシステムに頼る以外に妙案が見つからなかったからである。しかし、現金の供与額が多額で長期に及んだ結果、不正、汚職、無駄、ごまかしによる盗みなどあらゆる副産物が生じた。それのみならず、軍閥は、CIAの金を使って自らの支援組織を再武装して活性化し、逆に中央政府に対峙するようになり、中央の支配を脅かす存在になってしまった。
 なお、CIAによる現金支払いは、ガニが大統領に就任した2014年9月以降から少なくなったが、それでも続いている。

3.アフガニスタンの将来(アフガン内戦の予感)

 タリバンは、タリバン政権時にも支配下におけなかったアフガン北東端のバダクシャン州の一部にまで影響力を広げるなど勢いに乗っている。アブドゥラとガニの連合政権(national coalition government)は、アメリカの圧力を受けてやむなく至った合意でしかなく、特に、アブドゥラ陣営の者たちは大統領選挙の本当の勝者はアブドゥラだと信じているため、彼らが承諾しているとは言い難い。それに、政権発足から約9か月たった今日でも、国防大臣、最高裁裁判所長、検事総長の他、いくつかの州知事が決まらない上、アフガン国会議員の任期が2015年6月21日で切れ、新たな選挙をしなければならないのにその見通しが立たず、両陣営の新たな火種となっている(両陣営は、選挙の前に選挙改革をすることで合意している。期限までに選挙改革をして新たな国会議員を選ぶことは、アメリカが後押しした連合政権の合意の要で、最重要な点である。従前の選挙の問題点を洗い出し選挙改革の提案をする選挙改革委員会(electoral reform commission)メンバーの指名は、2015年3月のガニの訪米前に急遽行われた。しかし、指名されたメンバーには、前もって相談されなかった者や選挙制度に疎い者も含まれているなど問題がある。特に問題なのは、アブドゥラと合意した候補者名簿には載っていない者=ガニの盟友Shukria Barakzaiを、ガニがアブドゥラに相談もなく一方的に同委員会委員長に就けたことである。そのため、アブドゥラ陣営の者は、「委員長ポストに指名された者の氏名は新聞で初めて見た」と言って怒っており、その他の者も、「民主的な選挙を行うための改革を話し合う委員会の長が非民主的に決められた」と不満を述べている。さらに問題なのは、2014年の大統領選挙で不正選挙に協力又は黙認した選挙監視員について、刑事裁判で有罪が確定しなければ任期6年の途中で首を切れないのが通常の手続きであるところ、アブドゥラ陣営は、「選挙改革委員会で彼らの処遇を決すべきで、決められなければ新たな選挙はできないと主張していることである。ところで、アブドゥラが就いているCEOについては、その権限を憲法上明記するため2年以内に拡大長老会議(以下、ロヤ・ジルガという)を開いて憲法改正を行うことになっている。選挙ができないと、国会議員が一部のメンバーであるロヤ・ジルガを開くことが出来ない。大統領とCEOの二頭政治は、もともと紛争を孕むものであるが、現段階で既にロヤ・ジルガ開催不能の見通しであることは、両陣営の対立抗争が今から先鋭化することを意味している)。
 上記の状況を考慮すると、タリバンとの和平は期待薄であり、アブドゥラとガニの連合政権は、そう遠くない時期に崩れ去り、破局を迎えるだろう。ガニは、ウズベク人の有力軍閥ドストムが率いる政党(Junbish-i-Milli Islami Afghanistan = National Islamic Movement of Afghanistan)とカルザイの支援で大統領に就任したが、アフガンに草の根の支持基盤のない独立の候補者である。それは、2009年の大統領選挙でアブドゥラは30.5%を得票したのに、ガニの得票は3%弱だったことにも表れている。
 連合政権が崩れ去れば、瞬時に同盟者を替えることで知られるドストムのみならず、ポストと引き替えにガニを支援した有力者は、殆ど確実にガニの下を離れると予想される。うまみのあるポストを期待できなくなれば、ガニについて行くメリットはないからである。決戦投票でガニに味方した汚職撲滅大統領代行ジア・マスードも、ガニ政権が崩壊すれば、大同団結の方が自らのポストや力の保全に役立つと考えて、ガニから鞍替えしてアブドゥラらと組み、後述の新北部同盟に加わる可能性も十二分にある。彼がアブドゥラと対立してきたのは、一種の権力闘争のためにすぎず、状況が変わって損得勘定が違って来れば、態度を変える公算が大だからである。
 最悪のシナリオは、ドストムがアブドゥラやアッタと対峙し、アフガン国軍もバラバラになって1992~96年のアフガン内戦のような状態が再燃する可能性である。ドストムとアッタは互いに牽制しアフガン北部、中でもマザリシャリフでの覇権をめぐって戦った仲で、有力軍閥は実のところ分裂している。しかし、ありそうなのは、もっと良いシナリオである。彼らが生き残るためには、有力軍閥の一致団結しか道はなく、彼らは小異を捨てて大同につきタリバンと戦うため団結(彼らの団結を、ここでは便宜上、新北部同盟という)する可能性が高い。
 新北部同盟とタリバンの戦いがどの様に展開するかは、①アフガン国軍が一体性を保つことができるか、②アメリカ軍がどの程度駐留するかやアフガン国軍の作戦を支援するため空爆を行うか否か、③外国の最新兵器がアフガン国軍に残されるのか、残されるとしてもどの程度か(アフガン戦争当時もアメリカがイスラム戦士にスティンガー・ミサイルを供与してから戦局が変わった)などの要因によっており、現時点で確定的に予測することはできない。
 大まかな予測をすると、新北部同盟は、アブドゥラかドストム又は新たなリーダーが アフガン国軍を牛耳り、カブール要塞戦略(Fortress Kabul Strategyとはアフガニスタン最後の共産政権ナジブラによって取られた戦略で、首都と幹線道路だけを固めて、田舎や周辺部に巣くうイスラム武装勢力からの攻撃を封じ、政権を維持した政策のことで、驚くほど有効に機能したことで知られる)をとって相当長い期間首都カブールを持ちこたえ、全国を支配している訳ではないが、名前だけでもアフガニスタンを代表することになるだろう。換言すれば、タリバンは現在よりも強くなって、イスラム国のようにアフガニスタン内部の独立国のような状態になる可能性はあるが、周辺に押しやられた状態に留まるということである。新北部同盟とタリバンの戦いは、どちらも決定的な勝利を収められず相当長引くと予想される。しかし、タリバンが上手に出て支配地域を広げ、少なくともアフガン・テロ戦争開始当時の領域を回復する可能性が高い。なぜ、タリバンが優位かと言えば、オマル以外に指導者がいないという弱点もあるが、新北部同盟よりも団結して一体性を保っており、タリバン政権を復興させる気迫と勢いに乗っているからである。また、アメリカが2015年以降も戦闘任務を継続し空爆を続けるとしても、アメリカ軍など外国軍は将来いずれかの時点でアフガニスタンから引き揚げざるを得ないことや、タリバンとの戦闘で疲弊したアフガン国軍からは次第に脱走者が多くなってバラバラになり一部はタリバンに降るだろうことも、タリバン優位の理由である。
 ところで、アフガン国軍のうち空爆の支援やNATOの指導がなくても戦えるのは23旅団のうち1旅団にすぎず、兵士の士気は低く平均約20%が毎年脱走している。将来タリバンがアフガニスタンを席巻するような勢いを示せば、生き残りとその後の生活のためにタリバンに鞍替えし、又は未だ勝ち目のる有力軍閥に乗り換える可能性も大きい。タリバンは、国土の殆どを席巻することになっても、直ぐにはカブールに入城しないのではないだろうか。タリバンはアフガン内戦で疲弊しきった社会の救世主として政権を樹立した経験があり、アフガン全土が軍閥の恐怖政治に墜ちて民衆が疲れ切るのを待ち、再び救世主となって登場する方が容易に安定的な支配を打ち立てることができることを知っているからである。なお、タリバンとの和平交渉は、最近さかんに、ウルムチやイスラマバードで行われているが、カタールのタリバン代表部は公式的なものと認めておらず、タリバンのイメージを良くするための外交戦術にすぎないというのが多方の見方である。

政策オピニオン
多谷 千香子 法政大学教授
著者プロフィール
東京大学教養学部卒業。東京地検検事、法務省刑事局付検事、外務省国連局付検事、総務庁参事官、最高検察庁検事などを経て、2005年3月に退官。その間、1995年に全欧安保協力機構マケドニア紛争拡大防止ミッション・メンバー、2001年9月~2004年9月に旧ユーゴ戦犯法廷判事を務める。現在は、法政大学法学部教授。専門は国際刑事法。著書に、『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から」(岩波新書)、『戦争犯罪と法』(岩波書店)などがある。

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