トップイメージ
P-Catch27
政策オピニオン

日韓国民感情のねじれをどう解消するか?

― コミュニケーション理論の観点から ―
東海大学准教授 金 慶珠

はじめに

 ここ数年「最悪の日韓関係」とよく言われるが、長期的なスパンで見れば、日韓関係は文化や経済面を含めた全般的交流は着実に拡大している。しかし相手国に対する政治・社会面での情報や知識の理解という意味では、メディアの情報発信のあり方も含めて、極めてイメージ先行の感情的な対立が続いているのも事実だ。これまでの日韓関係における意思疎通がうまく行かない原因をメディア理論の観点からみると、同じテーマを前にしてフレーム(枠組み)が噛み合わないために非生産的な議論を繰り返してきている現状が指摘される。特に、安倍政権と朴勤恵政権が発足した2012年以降、日韓間の諸問題に対するそれぞれの主張は、いわゆる「国際社会」または「国内支持基盤」を意識したもので、コミュニケーションの前提となる日韓間の情報の共有が欠落している。ここでは、コミュニケーション理論に基づいて日韓の意思疎通に焦点を当てて日韓関係を分析・展望してみたい。
 現在の日韓の国民感情がなぜこのような厳しい状況になっているのかを考えてみるときに、メディア理論の一つである「フレーミング理論」を使って検討して見る必要がある。フレーム(frame)とは、一般的に「ものごとを眺める基本的な枠組み」の意味であるが、言語学者であるレイコフ(G. Lakoff)は、現代社会では、メディアや政治権力によるフレームの規定が、大衆の政治・社会的議題に対する解釈や認識のあり方を左右するとしている。メディア決定論ではないものの、特定の議題に対して互いに異なるフレームが存在する場合、人々の思考を先に制する側が政治的に勝利し、そのフレームが大衆の事態認識に重大な効果を発揮することを指摘している点においては、昨今の日韓関係を分析する上でも多くを示唆している。
 これまで日韓のさまざまな葛藤や立場の違いを埋めようと努力しながらもうまくいかなかった要因の一つは、同じ議題を前にしながらも、双方とも全く違った次元の話を繰り返すという「フレームの不一致」現象が上げられる。すなわち、慰安婦問題などをめぐる日韓両国の政治権力およびメディアの情報発信のあり方は、互いに意思疎通を図るというよりは、むしろフレームの取り合い合戦の様相が繰り返されている点が指摘されるのである。また、それぞれのフレームは相手側に対して提示され、議論されるのではなく、むしろ国際社会という名の第三者や、国内支持基盤という身内だけを主な情報発信の対象者とすることで、事実上の「コミュニケーションの不在」も続いていることも指摘せざるを得ない。

1.日韓関係の現状認識

(1)世論調査の「罠」

 現在の日韓関係をどう見るか。最近のメディアで日韓関係についてよく言われる「決まり文句」に、「過去最悪の日韓関係」というものがある。しかし、様々なデータを見る限りでは、日韓関係の全般的悪化ではなく、政治の関係、とくに朴槿恵政権と安倍政権の発足以降、いわゆる歴史認識問題に基づく国民感情の対立や葛藤が急激に表面化している点に問題意識を持つべきである。
 具体的に見てみよう。政治的に日韓関係を見るときに、日中関係との比較で見ることが多い。しかし、日中間には、尖閣問題をはじめ目に見える実質的な国益の衝突があるが、日韓間には実質的な国益の衝突はないことに注目すべきだ。竹島(独島)問題について言えば、ここをめぐって(尖閣諸島に見られるような)軍事的衝突の可能性はほとんどなく、主張やイデオロギーの違いに留まっている。またサムスンが日本の家電メーカーを合わせたい以上の経常利益を上げたといっても、あくまでもマーケットレベルの競争の結果の話に過ぎない。むしろモノづくりレベルで言えば、日韓は相当連携が進んでおり、ウィン・ウィンの関係が十分に成り立っている(例:2012年の対韓直接投資の中で日本が第一位)。人的交流を見ても、最近、日本から韓国への観光客が減っているのは残念であるが、韓国からの観光客はむしろ増加傾向にあり、日韓の人的・文化的交流は、過去20~30年のスパンで見れば、紆余曲折を経ながらも飛躍的に拡大している。もちろん政治レベルで言えば、日本外務省のHPから「(韓国とは)基本的な価値を共有する」の文言が削除され、韓国国会で安倍政権に対する糾弾決議がなされるなど、先鋭な対立の様相が見られるのは事実である。韓国メディアでは安倍首相は「歴史修正主義者」であるとよく言われるが、他方の朴槿恵大統領も「歴史原理主義」ともいえる態度で日本に接していると報じられる点を考えると、両国の政治的対立がメディアを通じてそれぞれの国民感情を刺激している構図だ。そしてこれらの現象は、日韓の経済や安保面での国益を懸けた関係悪化というよりは、抽象的レベル、感情的レベル、イデオロギー的レベルの衝突に特徴があるといえる。
 過去に紆余曲折がありながらも日韓関係は文化、社会、経済面において全般的に進展してきたとはいえ、ここ数年で互いに対する認識が大きく変化したことは、さまざまな世論調査結果からも明らかだ。例えば、内閣府の「外交に関する世論調査」(2014年12月)を見てみよう。1978年から今日まで永年にわたって「韓国に対して親しみを感じるか?」という同じ問いの項目の調査をしている。90年代までは(88年ソウル・オリンピックを除くと)ほぼ一貫して「親しみを感じない」が「感じる」を上回っていた。しかし2000年代以降は、常に逆転している。それが再び逆転したのが2012年。李明博大統領による独島上陸と天皇発言が大きな契機となり、日本の対韓世論が一気に悪化した。これは同大統領云々というよりは、それまで(潜在意識のレベルに)沈潜していた感情や認識がパンドラの箱を開けたかのように、日韓のメディアを通じて一気に噴出したためと見られる。

ホワイトペーパー

言論NPO・東アジア歴史財団「日韓共同世論調査」(2015年5月)

ホワイトペーパー

 日韓の国民意識に対する同様の調査として、言論NPO・東アジア歴史財団による「日韓共同世論調査」(2015年5月)がある。韓国人の中で日本に対して悪い印象を持つ人が72%、日本人の中で韓国に対して悪い印象を持つ人は54%となっている。この数字を見る限り「韓国は反日だ」というメディア言説は妥当性のある判断のようにも見えるが、世論調査は慎重に解釈していかないと、数字だけが一人歩きしてしまうところに、「罠」や「限界」があることを忘れてはならない。

(2)感情と認識の棲み分け

 言論NPO・東アジア歴史財団による「日韓共同世論調査」と同じ時期に「毎日新聞」と「朝鮮日報」が日韓共同世論調査(隔年実施)を行っているが、ここでも日本に対して「嫌い」あるいは「悪い印象を持つ」韓国人の割合は、常に7割くらいとなっていて、ここ数年の間に悪化したというものではない。
 ところが、同調査には「日本社会の長所を知っているか?」「日本社会の評価すべき点は何か?」という質問がある。そして、9割以上の韓国人が、その評価に加わっている。例えば、日本が技術立国であることや、国民の勤勉性や穿設さ、社会システムの先進性などについて、日本人は嫌いだが積極的に評価している(97%、2012年調査)。しかし、同じ質問を日本人に向けてしてみると、韓国社会を評価する人の割合は7割以下となり、「よくわからない」という回答が約30%に上っている。2014年の調査でも、相手国との文化経験・交流経験者は韓国の方が圧倒的に多い。韓流といわれるが、20-30代の同世代で比較してみると、日本人は韓国人に比べ相手国の文化・交流経験の割合が2割以上少ないという結果が出ている。ゆえに韓国の若者の方が相対的に日本の文化や社会に対してある程度「積極的好奇心」を持っていることが分かる。
 このように、好き嫌いなどの印象の良し悪しと、相手の社会について何らかの知識を持って理解し、評価するという二つの観点から見ると、日韓には対照的な姿が見えてくる。結論から言えば、韓国の対日世論は「ツー・トラック型」の対日認識であるのに対し、日本における対韓認識は、相対的に「ワン・トラック型」の特徴が見られるのである。
 韓国社会は良くも悪しくも日本社会を強く意識し続けてきた。植民地支配と朝鮮戦争を経て、最貧国からの出発を余儀なくされた韓国の国づくりの過程において、日本という「帝国列強」に次ぐ「先進隣国」としてのあり方は、「日本に追いつけ、追い越せ」の時代を経て、さらにはミドルパワーとなった今日の韓国においても意識され続けている存在といえるが、その中身においては日本に対する感情と認識の棲み分けが進んでいることも特徴的だ。つまり、数多くの世論調査から読み取れるのは、歴史や領土問題については反日感情の高まりがあるが、日本に対する一定の肯定的な知識や評価もあるために、日本を「範」とする見方も根強く見られるのだ。最近では、セウォル号沈没事故のとき、日本社会の安全管理体制との比較において韓国の現状改善を求める記事が韓国メディアに溢れたのもその一例である。
 他方で、日本のメディアには、ここ数年来、「韓国人は反日だ」という感情フレームが依然として強く機能しているように思える。譬えてみれば、内閣府の世論調査にも見られるように、日本の対韓意識は、いいときは非常にいいのだが、悪くなると極端に悪くなる傾向がある。一種のジェットコースター現象だが、これは感情と知識の棲み分けが相対的に図りにくい情報環境にある所以ではないだろうか。言い換えれば、日本における韓国の存在感または意識の必要性が相対的に低かったために、必然的に韓国社会に対する情報・知識基盤が脆く、メディアや政治権力の情報フレームに影響を受けやすい傾向にあるものと思われる。
 一般に国内の情報や知識に関しては、メディアからの情報発信が一次的になされても、自分の所属するコミュニティーにおけるグループ・コミュニケーションを通じて二次的、三次的に情報や知識を獲得、交換することによって、自分の判断や見解を最終的に調整していくことができる。例えば、改憲問題についてメディアがある主張をしても、周囲の意見やオピニオンリーダーの意見などを取捨選択しながら自分の考えが調整されていく。良くも悪しくも、メディアや政治権力のフレーム設定に一定の歯止めがかかる仕組みが機能するのである。ところが、外国のことや自分が経験したことのない話となると、情報機器の発達によって関連情報を容易に得ることはできても、身の回りにそれらの情報を総合的に判断できる人材や経験材料が少ない場合、情報の偏りや真偽を直接的に判断することは非常に難しい。知識人のレベルではそうではないだろうが、日本社会には、韓国社会に対する知識や経験の蓄積がまだまだ足りないのも事実だ。一般大衆レベルが朝鮮や韓国について関心をもって見始めたのはここ10~15年ではないだろうか。こうした経験と知識基盤の脆さから、情報韓流ブームが起きれば、韓国に興味を持ち親しみを抱くのだが、一方で何らかの政治的な衝突や葛藤があると非常に警戒心を強め、日本からの観光客の低下という現象へとつながりやすい背景にあるものと思われる。

2.日韓問題における「フレームの不一致」

 メディア情報発信のあり方と実際のコミュニケーションを融合させて見る上で重要な理論として、米国の言語学者G.レイコフ(George P. Lakoff)が提起した「フレーミング理論」がある。これは議題の焦点をどのように設計するのか、枠(フレーミング)の練り方を問う視点だ。政治やメディアの分野で言えば、フレーミング競争に勝ち残った、あるいはフレーミングを先制した政治勢力が勝利を収めることになる。日韓関係においても、政治権力やメディア空間ではこうしたフレーム合戦が続いている。そのために同じように日韓問題について議論しているように見えても、お互いに全く噛み合っていない状況が生まれている。前掲の言論NPO・東アジア歴史財団による「日韓共同世論調査」においても、日韓が相手国に親しみを感じない背景に、日本人が挙げる一番の理由は、「韓国人はいつまでも歴史認識で日本を批判してくること」であり、韓国人の挙げる理由は「日本人は歴史問題で真摯な反省をしていないこと」という認識のズレがある。そこでこのフレーミング理論の観点から日韓間の歴史認識をめぐる諸問題の議論がどのように展開してきたのかについて検討して見よう。ここでは、日韓の歴史認識問題の主なものとして、日韓併合の歴史解釈、日韓基本条約の性格、従軍慰安婦問題などについて検討する。

(1)日韓併合

 日韓併合をめぐるフレームの不一致は、いわば「実益論」と「道徳論」に見出すことができる。日本の新聞、とくに「産経新聞」や「読売新聞」などでよく見られるのは、「植民地受恵論」のフレームである。これは50年以上も前からすでに提起されている論点で、「日本は韓国(朝鮮半島)を植民地支配したが、一方でこれはまた韓国の近代化にも寄与したではないか」という論である。これに基づいて日本側は、(日本の植民地支配によって)韓国に恩恵(=近代化、経済発展)があったかどうかに焦点を当て議論をする。1953年10月に日本側の交渉首席代表であった外務省参与・久保田貫一郎氏がこの種の発言したときには、韓国は大いに反発して3年間交渉が頓挫することになった。一方、韓国のメディアで見られるのは徹底した「植民地被害論」である。簡単に言えば、日本=加害者、韓国=被害者という図式から全てを議論している。
 個人的には「植民地受恵論」は歴史的事実としては余り意味のない考え方で、むしろ政治的フレームであると考える。その根拠に大蔵省が1982年に出した資料(大蔵省財政室『昭和財政史』)によると、終戦当時朝鮮半島にあった資産(国および民間・個人資産)の約85%が日本の所有であったという。日本の学者の共同研究によっても、純粋な朝鮮人・韓国人所有は全体の1.5%に過ぎなかったことがしてきされている。結果として、近代化がなされた事実は否定しないが、近代化が果たして韓国人のためだったのかという視点に立つと韓国では全く受け入れられていない理由だ。ただ、歴史には光と影が必ずあるわけで、その両面を多角的に見る余裕が韓国社会には必要かもしれない。
 また、韓国の主張する「加害者・被害者」という区分は、当時の国際秩序における帝国主義の角逐を余り考えずに、道徳的な議論に持ち込もうとする議論として日本側に映っており、その主張は日本側にほとんど届いていない。日韓併合をどうみるかについては、日韓基本条約においても相当議論された。その結果として「もはや無効」という玉虫色の表現で決着した経緯がある。英語では、already null and void、韓国語では이미 무효하다となっているが、それぞれ最初から無効であったと解釈できる文言となっている。この点もいまだに噛み合っていない。道徳論的に見るか、当時の国際秩序の帰結として見るか、結果としての被害で見るか、どれだけ恩恵を与えたかでみるかという、フレーミングの違いがあって全く噛み合っていないのである。

(2)日韓基本条約

 よく日本のメディア・フレームの一つに、日韓基本条約を通じて日本から韓国に合計8億ドル余りの支援があり、これをもとにして韓国の経済発展がなされたのに、これに対する韓国社会の誠意(感謝)が全く見られないという言説がある。
 しかし、この言説は韓国では全く機能していない。支援があったことは事実だが(ただし、そのほとんどは現金支援ではなく、生産物および役務としての供与であった)、韓国側が関心を持ってみているのは、その資金援助の名目である。この点に対する解釈が日韓の間で決定的に違っている。いわば、「経済援助フレーム」と正当な権利行使としての「請求権フレーム」が対立しているのである。
 この資金援助は、日韓基本条約と一緒に締結された「日韓請求権並びに経済協力協定」(正式名:財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)に基づいて行われた。この名称に「請求権」と「経済協力」が併記されたのも、互いの異なる主張を併記したためである。日本側は「8億ドルの資金援助は、これから経済発展する韓国に対する一種の“独立お祝い金”のようなものだ」という認識であり、その結果、朴正煕政権下で大きな経済発展を遂げることができたという点に焦点を当てている。一方、韓国側は「戦争被害に対する正当な請求権行使に過ぎず、援助や支援ではない」と解釈した。日本と朝鮮(韓国)は戦争したわけではないから、賠償金は発生しない。あくまでも請求権に基づく当然の権利主張であり、かつ不当な政治的妥協による金額設定という不満もくすぶっている。
 語弊を恐れずに言えば、夫婦が離婚するときに、慰謝料は払わないが、財産分与をするようなもので、一つだった国が二つに分かれたためにお互いに発生するのが請求権である。日本側はこれを放棄することを受け入れたが、韓国の場合、そもそも日本に求めたかった請求権の総額として約20億ドルを想定していた。結果としては、無償3億ドル、有償2億ドル、その他2億ドルとして決着した。事実上、日本から韓国に渡ったお金で韓国経済が成長したと見るよりは、そのときの日本からの技術者を含めたさまざまな人材や会社などが韓国社会に進出したので、インフラ整備、企業のあり方など総体としての技術指導が韓国社会の基礎を作っていったことは評価に値する。しかし、経済支援であればこそ、一方的な援助ではなく、日本企業も韓国の経済発展に伴う利益を享受したことも否定できない事実である。

(3)従軍慰安婦問題

 従軍慰安婦問題は、フレーミング理論から見ると、端的に言えば、日本側は「争点の分散化戦略」で、一方韓国側は「争点の集中戦略」だ。
 従軍慰安婦問題が提起されてから20年以上が経過する中で、この問題をめぐる論点自体が変化してきた。当初は、慰安婦の事実認定に関する争いだったが、その後は日本政府として慰安婦に対する賠償責任があるか否かという点に移り、今日では「でっちあげ論」あるいは「売春延長線論」に移っている。また「河野談話」の検証・見直しなどを通じて「政治的妥協の産物」ではないかという印象を与えた。「朝日新聞」が吉田清治証言に対する検証記事を掲載することによって、従軍慰安婦問題がすべて吉田証言から出てきたような印象を与える情報のミスリードがあったように思う。
 結局、大きく見れば、韓国側が追及したのは法的責任論と道義的責任論であったが、日本側は道義的責任は認めるが、国家としての法的責任は1965年の日韓基本条約で終わっている点ではずっと一貫していた。ところが、2011年頃からこの問題が日韓間で再燃するにつれ、日本国内では、国家としての賠償問題や責任問題から離れて、軍の関与、強制性の有無など、動員のプロセスなどの多義的焦点に移っている。しかも狭義の強制性と広義の強制性などに分けて、安倍総理の言葉で言えば、「人の家に入り込んで銃剣を突きつけて連行した」という狭義の強制性はなかったという発言にまでつながっている。また、最近では、吉田証言がウソだったから従軍慰安婦問題全体もウソだったという論調がまことしやかに主張されているが、これは重箱の隅をつつくような議論であり、「従軍慰安婦問題のガラパゴス化」である。これと関連して、旧日本軍による強制性を認めた報告書「クマラスワミ報告書」をまとめた元国連人権理事会特別報告官クマラスワミ氏は、韓国外交部とマスコミによる合同取材班のインタビューを受けて(2014年8月)。「自分の発言を取り消すつもりはない。あの報告書はそもそも吉田証言から出たものではなく、多くある証拠の一つだ。それが決定打になったわけではなく、決定打は慰安婦自身の証言だった」と答えている。
 日本国内における慰安婦問題の争点がなかなか国際社会で通用しないのは、そもそも従軍慰安婦問題は、動員のプロセスの問題ではなく、慰安所の設置と管理運営の事実にあるためで、これに関しては、軍が関与していたという事実に関する資料は日本側にもあるからだ。この点は、「河野談話」以前の加藤紘一官房長官(当時)の「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する内閣官房長官発表」でも言及しており(1992年7月6日)、メディアでも報じられている事実だ。この関与の責任を当時の日本政府がもっていたかどうか、日本の識者の多くは「責任あり」との見解を示している。ただしそれに関して日韓間の法的賠償責任となると、日韓基本条約で終わっているという見解だ。
 それでは、韓国はどのようなフレームを持って臨んでいたのか。そもそも韓国政府は日本に対して求めているものが何なのかについては、戦略的に不明瞭な部分もあり、非常にあいまいなままだった。そもそも慰安婦問題に関しては、政府、メディア、市民団体、それぞればらばらで主張の違いがある。
 具体的には、韓国の場合、日本が法的責任を認め、国家賠償をせよというのが、市民団体を中心とする主張で、1965年の日韓基本条約当時は、この問題は議題にも上らなかった問題であることから、その協議に応じるべきだという論理である。しかし、韓国政府の立場は必ずしも、そうではない。これに関しては日本ではほとんど報じられないのだが、慰安婦問題発生当時の金泳三政府は、政権誕生間もない時機にこの問題に対応せざるを得ないこともあり、これを早々に収める戦略を取ったものと思われる。すなわち、「韓国が道義的、道徳的に優位の立場に立って、日本には賠償を求めないかわりに、韓国政府が賠償をしていく。しかし日本に対しては、継続的に真相究明に全力を尽くすことを期待する」。これが韓国政府の正式な見解だった。韓国政府は、市民団体からの突き上げに対して「責任は日本にあるが、それを日本に求めることはしない」と言い続けてきたのである。
 こうした政府と民間との意見対立を解消すべく、市民団体は韓国政府を相手に憲法裁判所に訴え出ている。慰安婦および彼女らを支持する市民団体は、「韓国政府は日本との法的交渉に臨むべきなのに、法的交渉は日韓基本条約を尊重するという(日本の立場と基本的に)同じ立場に立っている。口では彼らに責任があるといいながら、実際の行動を取らない。そこでこれは不作為の憲法違反である」と訴えたのである。その結果、2011年に下された憲法裁判所の判断は「不作為の違憲状態」であるというものであった。つまり、「日韓請求権並びに経済協力協定」第2条1項には、「完全かつ最終的に解決」したと記されているのだが、続く第3条には、互いの解釈において異論が生じた場合に、どうするかについての取り決めが書いてある。まず外交的努力を通じて解決し、それでもダメな場合は、仲裁委員会に付託しその決定に従うとなっている。憲法裁判所が注目したのはその第3条であり、少なくとも韓国政府は日本に外交的努力を傾けるべきだという判断である。
 こうした中、韓国側が1996年頃から焦点を合わせているフレームが「人権問題」である。「河野談話」においても「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」という部分がより重要であるという主張である。韓国側は、日本との2国間である程度政治的に解決を図ることは難しくなった96年ごろから、国連を舞台とする人権問題として展開させていった。市民団体は賠償請求と法的責任追及は一貫して主張しているが、政府は一貫して人権問題として道義的責任を果たしていないと主張している。このフレームは日本では全く通用していないようにも思える。その根拠に、過去20年にわたって、日本のメディアで、人権問題から従軍慰安婦問題を扱っている記事は全体の6%に過ぎないが、ここ数年は韓国では8割が従軍慰安婦問題を人権問題として捉えていることが上げられる。
 国際社会においては、ある程度人権フレームが通用しているようにも見えるが、韓国側に不足しているのは、その人権フレームの普遍性をどこまで戦略的に理解しているのかという点にある。慰安婦問題に対する人権フレームに国際社会が同調している事実は、同時に韓国社会における人権問題にも適用される言説であることを真摯に受け止める必要がある。私自身、韓国人として憂うるのは、果たして人権とは何かという点について、韓国メディアが真剣に議論しているかということだ。戦時における女性の人権問題は国家間の問題を超えた普遍的課題であるが故に、自らが率先する姿勢を見せない限り、自らの発信力を損ねる危険性を認識する必要がある。

異文化コミュニケーションからの提言

 個別問題のフレームでなぜお互いに噛み合わないのか、なぜ互いの主張だけが延々と繰り返されているのか、そしてなぜお互いの距離感を広げつつあるのかの背景については様々な分析が可能である。国際政治情勢から見れば、東アジア情勢におけるパワー・バランスの変化が指摘されている。中国の台頭と日本の相対的な立ち位置の変化、韓国の変化である。日中のパワー・バランスが逆転する中で、日韓は今すぐそこまではいかないにしても、相対的な戦略の変更が求められるような状況になっている。その中で各国が自国のパワーを確保しようとして意見の衝突が起こっている、という見方だ。もちろん、こうした政治情勢の変化は、互いに対する認識の変化を促すより直接的な原因ではあると思われるが、そうした情勢変化のなかで、日本や韓国をはじめとする北東アジアのメディアや政治権力のフレームが、総じて、帝国主義的な文化論が再びメディアの論調を復活させている点が懸念される。
 近代帝国主義の異文化論のフレームは、「自文化(自民族)中心主義(ethnocentrism)」に支配されていたといえる。この考え方のキーワードは、進化論で、ダーウィンの進化論に基づいて、国際社会は弱肉強食の世界、適者生存、優れたものが劣等なものを支配していくのが自然の摂理であり、それによって未開なものが文明化していくと見る(文明化の理論)。帝国は未開な文明を支配し、そこに一定の恩恵を与えながら彼らを文明開化していくのが、優勢国(先進国)の使命であるとして、帝国主義を正当化している。日本におけるこの代表的な論としては、福沢諭吉の脱亜入欧の考え方である。帝国主義時代の文化論の最先端の社会思想と言っていいだろう。彼はその考え方をアジアに初めて適応しながら先進国・先進文明(欧米)と遅れている悪友としてのアジア(支那・朝鮮)を取り上げて、日本は有利な方向に進んでいくべきだという考え方だ。
 しかし、国際社会は第1次大戦の終わりごろから、優劣関係のみならず、優位の競争も起きてきた。そこには暴力があり、決着のつかない戦い、先の見えない帝国主義諸国間の弱肉強食の戦いが繰り広げられる中で、第二次世界大戦後に欧州において登場した考え方が、文化相対主義(cultural relativism)だった。これを一国の中で言えば「多文化主義」、国との間に適用すれば「文化相対主義」となる。簡単に言えば、お互いに違いを認めて多様性を受け入れるという考え方だ。しかし、逆に、この理論はそこにまた限界を孕んでいるとも言える。人間社会は異質なものに対して違いを認めて仲良くする心理にはならない特質をも持つ。異文化とは常に衝突し、自分とは違う価値観は排除するというのが、文化人類学的な知見である。多様性を簡単に認めてしまうと、究極的には内向きの文化論にしかならないし、別の意味の「自文化中心主義」に陥らざるを得ない。相手を優劣で判断せずに多様性を認める価値観はあるが、これだけでは国際社会において連携を見出すことが難しいという問題点がある。近年、欧米で「多文化主義は失敗した」といわれているのには、そのような背景がある。
 そしてグローバル時代を迎え(とくに米国を中心に)新たに登場したのが「普遍的価値観(universal values)」である。多様性だけでは全体の協力・協調関係は確保できないので、そこに普遍的価値観を持ってきた。お互いの違いを認めるだけではなく、お互いの共通の価値観を見出そうというのである。共通の価値観を見出し、それ以外の多様性は許容していく。これが普遍的価値観の考え方である。
 日韓関係はお互いの違いを認めて仲良くしようとは言いつつも、違いを情報発信しているかどうか以前に、依然として優劣論で判断しようというフレームがはびこっている状況だ。日本においては、文明の先進性を強調する。欧米に対する日本人の意識がどう変化してきたかは別にして、中国や朝鮮を含むアジアを見る日本人の視点には、いまだにかつての名残が色濃く残っている。一方、韓国は帝国主義的文化論の中で、自分は弱者ではなく被害者だという点に立って、道徳的優位性にすり替えようとする。韓国自身も道徳的優位性を強調すればするほど、帝国主義的優劣論の中に自らを置いてしまうジレンマを抱えている。
 私自身は、韓国はこの被害者のフレームから脱却しない限り、本当の意味での歴史の克服は難しいと思っている。日本との関係以前の問題で、自国の歴史をどのように多角的に見ていくのかという問題は、日韓問わずにどの国も背負っている重い課題といえる。ここ数年、メディアを通じて発信される情報の文化的フレームの土台は、むしろ帝国主義時代への逆戻りの傾向が見られる。
 こうした現状を打開すべく、多くの提言が行われてきたが、私としては以下の3点を提案したい。第一に、日韓共同の(国内向けではない)何らかのチャンネルを立ち上げる必要性だ。例を挙げると、1992年に開局した独仏共同出資のテレビ局に「アルテ」というのがあるが、これはドイツ語とフランス語の二カ国語放送で、民放とは違う情報発信の役割を果たしている。韓国にはJチャンネルなど、日本のドラマやアニメを専門に放送するチャンネルがあって、非常に視聴者も多い。日韓がお互いにコミュニケーションした上での情報発信をする共同のチャンネルがあれば、もっと相互理解が深まることにつながるだろう。
 第二に、慰安婦問題の解決が難しいのは、それに正解がないというよりは、お互いに相手が信じられないから、どうにも動けないということがあると思う。そこで慰安婦問題に関する和解のための懇談会、あるいはさまざまな分野の専門家を含む有識者などが定期的に親密に話し合うことができる機構をつくりましょうというところまで、日韓両政府が同意することが出来れば、政治的な表向きの対立は避けることができるのではないか。この機構は政治からある程度距離を置き、お金がらみであってもいけない。現政権が何か短期的に圧力を加えるとか、妥協するといったところで、社会的合意や支持が得られるかは分からない。そして短期的というよりは中長期的に持っていく必要があるだろう。
 日韓両国について一番危ういと思うことは、自らの誇りを取り戻す、国際社会から尊敬された国になりたいという両国の思いは理解できるが、それを達成する方法において、誰かを貶める、あるいは安易に自分の負の遺産に目をつぶったりして達成できるものではないということでる。相手国を批判するだけ、相手国を悪者扱いすることだけで自国の尊厳を保つことはできない。しかしメディアや政治家は、ポピュリズムという余りにも軽い方向に走りすぎているように感じる。

(2015年6月15日に開催された「21世紀ビジョンの会」での発題を整理してまとめた)

政策提言・出版物

政策提言
研究活動を踏まえてIPPがまとめた政策提言
IPP分析レポート
IPP独自の視点で諸問題の背景や解決への課題を分析
政策オピニオン
国内外の専門家による政策課題に関する分析と意見
IPP政策ブリーフ
時事的テーマや政策課題に関するコンパクトな情報
IPP国際会議
レポート
研究所紹介パンフレット
ダウンロード(PDF:1.8MB)

主な研究テーマ

OFFICE

一般社団法人 平和政策研究所
〒169-0051
東京都新宿区西早稲田3-18-9-212
E-mail:office@ippjapan.org

※サイト上のすべての著作物(文章・写真・画像等)を無断で複写・転載・リンクすることを固く禁じます。

ページ上部へ戻る