「アジア女性基金」の経験と信頼構築への道

「アジア女性基金」の経験と信頼構築への道

2015年10月1日

はじめに

 日韓基本条約が結ばれてから今年2015年で50年目を迎えるわけだが、この条約締結交渉に際しては歴史認識の問題を中心に多くの紆余曲折があり、その妥結のために玉虫色の決着を見ることになった。当時はまだ議題にも上がらなかったテーマで、現在の日韓関係の難題の一つが「慰安婦問題」である。
 韓国はソウル・オリンピックを前後に民主化が大きく進展する中、1990年代に入り、尹貞玉氏の慰安婦に関する取材記が「ハンギョレ新聞」に発表された。これを嚆矢として慰安婦問題が日韓の歴史認識問題の大きなテーマになっていった。
 そしてこの問題が日本の国会でも取り上げられ、92年7月に加藤紘一官房長官が従軍慰安婦に関して政府としての見解を発表し、翌93年8月にはいわゆる「河野談話」が発表された。その後、村山三党連立内閣が成立すると、94年8月に村山富市総理が慰安婦問題について改めて「心からの深い反省とお詫びの気持ち」を表明した談話を発表。この流れの中で、政府は慰安婦問題に関して道義的責任を認め、政府と国民が協力して基金を創設し、元慰安婦の方々に対する全国民的な償いの気持ちを表す事業として、「アジア女性基金」(正式名称は「女性のためのアジア平和国民基金」、以下「アジア女性基金」と表記)が始まったのである。
 私は1997年から2005年まで、「アジア女性基金」の専務理事ならびに事務局長の役職を受けてこの事業遂行にかかわった経験から、いまそれを振り返り今後への反省と参考に供することができればと思う。

1.慰安婦問題表面化までの経緯

(1)慰安婦とは
 まず「慰安婦」とは何か。かつての戦争の時代に、一定期間慰安所などに集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちを指す。ここでのポイントは、「一定期間」に「一定場所」にいることである。(注:慰安婦問題に関するデータおよび資料に関しては、村山富市/和田春樹編『デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金』青灯社、2014年を参照されたい)
 ところで、日本で戦後はじめてこの問題を取り上げた書物の著者たちは「従軍慰安婦」と呼んでいた。さらに日本政府がこれらの人々に最初に直面したとき、またアジア女性基金がスタートしたときも同様の呼称を使っていたが、戦争時代の文書には「慰安婦」となっていたことから、今日では一般に「慰安婦」の用語で統一している。
 それでは慰安所は当時どのようになっていたのか。
 実は、慰安所に関する過去の記録、書類、証拠などの収集は非常に難しい作業であったが、これまで東京大学の和田春樹名誉教授をはじめとする関係者の努力によって多くの資料を集めることができ、その内容が明らかになってきた。
 慰安所は、1931年の満洲事変のころに、軍の進出とともに民間業者がついていって軍隊の駐屯地に店を開くことから始まったようだ。当時、「慰安婦」という言葉が使われていたかというと、まだ使われていなかったと言う。
 1932年、第一次上海事変によって戦火が上海に拡大するのに伴い、派遣された日本陸軍・海軍の部隊は、上海に慰安所を開設した。陸軍で慰安所を推進したのは、派遣軍参謀副長岡村寧次だった。『岡村寧次大将資料第一 戦場回想編』(1970年)には、次のように記されている。
――昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。
 その後、1938年11月4日、内務省警保局の内部で、南支那派遣軍の慰安所設置のため就業を目的とする婦女400名を渡航させるように「配慮」ありたしとの要請の文書が起草された。これらは皆日本人の婦女子だ。日本人の場合は、21歳以上の(いわゆる「醜業」に)就業していた人を対象としていた。
 1941年に太平洋戦争が始まると、軍はシンガポール、フィリピン、ビルマ、インドネシアを攻め始め、それと同時に慰安婦も増やしていった。このころ(1942年)、外務大臣の回答に「この種の渡航者(=慰安婦)に対しては旅券を発給することは面白からざるにつき、軍の証明書により、軍用船にて渡航せしめせられたし」とあり、(慰安婦に関しては政府ではなく)軍の直接掌握となったことがわかる。

(2)慰安婦問題
 1990年1月、(元慰安婦)尹貞玉氏の取材記が韓国の「ハンギョレ新聞」に発表されたことを契機に、日韓の歴史認識問題、謝罪問題が注目を集め、慰安婦問題が浮上した。そして同年6月6日に、参議院予算委員会で取り上げられ、その時の次のような政府委員の答弁に対して韓国の37女性団体が怒りを顕わにして批判した。
――従軍慰安婦なるものについて、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私ともとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。
 この政府発言は、軍と国家の関与を否定し、調査の可能性を否定したものとして受け止められ、韓国の37女性団体が「挺身隊研究会」とともに声明を発表し、6項目の要求を日本政府に突きつけた(1990年10月)。すなわち、慰安婦は強制的に連行された存在であることを認める、公式謝罪、真相の究明と発表、犠牲者のための慰霊碑の建設、生存者遺族への補償、歴史教育で取り上げることの6つであった。
 ここに端を発して、翌91年、金学順氏が「戦時慰安婦」として名乗り出て、日本の責任を告発することになった。このことで日本の国会でも大きく取り上げられた。
 94年には、村山富市総理を中心とする三党連立政権が誕生すると、同年8月31日、戦後50年に向けた談話の中で、慰安婦問題につき、心からの深い反省とお詫びの気持ちを表明し、この気持ちを国民に分かち合ってもらうために幅広い国民参加の道を探求することを明らかにした。この発言が、アジア女性基金の誕生につながっていったのである。

2.アジア女性基金

(1)誕生の経緯
 1994年8月31日に、村山総理は、戦後50年に向けた談話を発表し、その中で慰安婦問題について改めて「心からの深い反省とお詫びの気持ち」を表し、この気持ちを国民にも分かち合ってもらうために、幅広い国民参加の道を探求するとした。
 この談話を受けて与党三党は、「戦後50年プロジェクト」(共同座長:虎島和夫、上原康助、荒井聡)をスタートさせ、慰安婦問題は「従軍慰安婦問題等小委員会」で検討を進めた。政府と与党との議論の中で、請求権問題は国際条約によって解決済みであるから個人補償はできないという意見と、個人補償を行うべきだとする意見が対立。しかし問題の解決に早急に当るという観点で調整され、第一次報告がまとめられた(94年12月)。
 政府はこの報告を受けて、慰安婦問題に関して道義的責任を認め、政府と国民が協力して基金を設立し、元慰安婦の方々に対して全国民的な償いの気持ちをあらわす事業と、女性をめぐる今日的な問題解決のための事業を推進することを決定した。
 平成7年度予算(1995年)に基金経費への補助金4億8千万円を計上し、同年6月14日、五十嵐広三官房長官は、「女性のためのアジア平和国民基金」の事業内容と、政府の取り組みを発表した。主な内容は次の通り。
 1)元慰安婦の方々への国民的な償いを行うため広く国民に募金を求める。
 2)元慰安婦の方々に対する医療、福祉など役に立つような事業を行う者に対して、政府資金等により支援する。 
 3)この事業を実施する折、政府は元慰安婦の方々に対して、国として率直な反省とお詫びの気持ちを表明する。
 4)政府は慰安婦関係の歴史資料を整えて、歴史の教訓とする。
 同年7月18日に、村山総理の「ごあいさつ」と基金呼びかけ人による「呼びかけ文」が記者会見で発表され、翌19日には第1回理事会が開催され、「女性のためのアジア平和国民基金」が正式に発足したのである(基金理事長:原文兵衛・前参議院議長)。
 8月15日、「呼びかけ文」を全国紙に掲載すると、その日のうちに1455万円の募金が集まり、年末には1億3375円となり、96年6月には4億円を超える額に達した。その後、2000年代に再び募金キャンペーンを展開した結果、最終的に2002年10月段階で、約5億6500万円となった。

(2)組織構成の問題点
 村山総理が1994年8月に「村山談話」で述べたように、政府が「この気持ちを国民の皆様にも分かち合って」もらうために、政府と国民の共同プロジェクトとして発足したのが、アジア女性基金だった。村山総理の「国民と分かち合う」という気持ちは純粋なものだったと信じる。
 かつて福沢諭吉は、『文明之概略』の中で、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と言った。そして日清戦争の後、「戦争が起きても、この国の民は自分に関係しなければ知らぬ存ぜずだ」という趣旨のことも書いている。このようなことからもわかるが、政府と国民がいかに心を一つにするかは、今に始まった問題ではなく、難しい面がある。
 韓国側の主張では、慰安婦問題の責任はあくまでも国家の戦争責任であって、国民が募金に加わって償いのための事業をするべきではないという考え方である。
 私の経験からいうと、政府と国民の共同プロジェクトとする場合は、それなりの政府の確固とした信念・態度がなければ、かえって問題がこじれてくるのを感じる。とくに政府がこの問題から距離を置く態度で取り組んでいては、政府と国民の共同プロジェクトとはならない。
 例えば、ある政府の委員会で政府委員が「慰安婦問題は、民間団体であるアジア女性基金がやっていますから・・・」と答えているのを聞いた。これでは政府が国民を利用して責任逃れのように被害者側から見られる可能性を高くするのは仕方ないことと思う。
 また、(元慰安婦の)金学順さんが亡くなった時のことだった。その葬儀には多くの慰安婦の方々が駆けつけていた。私もその葬儀に出席しようと訪韓したとき、状況によっては足蹴りされても仕方がないというような覚悟で臨んだ。ところが実際の葬儀では礼儀正しく温かく迎え入れてくれたのだった。近隣の国、とくにアジアでは礼節を重んじるのが大切だと感じた。
 実は金学順さんは、日本側の(償い事業の)気持ちを最初に受け取ってくださった方で、それゆえに逆に韓国内からひどいバッシングを受ける経験もされた。それだけに日本政府としても敬意を払うのは当然だと考えて、私は日本大使館に「誰か(彼女の葬儀に)出席するようにしてほしい」と要請したのだったが、結局は誰も出席されなかった。
 当然ながら、日本政府の対応には政治状態や世論の動き等、時によって微妙な変化が見られる。また外交官個人によっても変化する。もちろん、外務省の中でも、誠心誠意元慰安婦の方々の気持ちを考えた人もいたが、当時慰安婦問題が重要な課題としては取り上げられていなかったと感じた。
 政府と国民の共同プロジェクトというからには、政府はしっかりと支える姿勢を示さなければ、プロジェクトや組織はやっていけないと思う。しっかりと支えるという意味は、この償い事業の根本的考え方や意味を国際的に理解を得る努力でもある。
 これと関連した例を紹介する。元慰安婦の方々のために努力されていたある国会議員が、「反アジア女性基金」、つまり政府からの賠償金が必要であるということを掲げてアジアの当該国を回り、元慰安婦の方々に「アジア女性基金からお金(償い金)をもらうな」と働きかけた。そして(現地の元慰安婦の方の話によれば)「そのうち日本政府から1000万円ほどもらえるから・・・」とも聞かされたとされ、その結果、アジア女性基金の償い金を受け取らずに亡くなった方もいたと聞く。
 もう一例を挙げると、2007年6月14日の米紙「ワシントン・ポスト」慰安婦強制連行の事実なしを含む意見広告が出された。賛同者としては、歴史事実委員会5名、国会議員44名、有識者13名が名前を出している。この広告は国際的には火に油を注ぐ結果を引き起こしたといえよう。
 政治家の姿勢として思うことは、国会議員であれば、議会内で堂々としっかり発言し議論の上で行動してほしいと思う。政府が主導して決めた事業に対して、国会議員という身分にある人が、被害者に対して国の事業を否定するような話を持ちかけて行動に疑問を感じた。
 それではどうすればよかったのか。
 一つの方法としては、議員立法でやればよかったという考えもある。実は、国会において慰安婦問題を解決するための議員立法が、2002年以来13回提出されたが、2002年を除いてはほとんど審議もせずに廃案になってしまった。民主党政権時代には、議員立法が成立するとの期待も高まったのに、何もなされなかった。
 議員立法反対の背景には、官僚の論理として65年の日韓基本条約によって請求権は解決済みという考えがあり、また各省庁の組織防衛的発想など国内の論理が幅をきかせて、あれができない、これもできないということになったためのように思う。
二国間条約(日韓基本条約)によって請求権がなくなったことはその通りだが、国際法の解釈は時代とともに変遷すること、また他の国際法と関連するという事実であって、戦時下の個人の人権侵害問題は、将来も出てくるに違いない。人道的事業をやるときには、これをどう整合性をもたせるかを考えなければならないと感じた。
 人道支援事業を行う際の、法律の使い方はよくよく慎重に進めなければならない。アジア女性基金の事業は、「償い事業」であり、同時にこれは人権問題のからむ、人を慮っての事業でもある。それゆえ賠償を否定する法律論議だけを盾にして交渉しようとしても、現代の国際関係では限界があることを知るべきだ。
 
(3)償い事業の実態
 この事業プロセスで私は、国による文化や宗教の違い、例えば同じキリスト教でも、韓国、フィリピン、オランダでは違いがあって、そういった違いが償い事業への理解や受け入れに反映した。よって各国への対応は、被害者の置かれた環境を考慮に入れることとなった。
 1)インドネシア
○実施期間:1997.3-2007.3、事業規模:3億8千万円規模
 インドネシア政府は日本政府との協議の結果、元慰安婦の認定が困難、元慰安婦の方々や家族の尊厳を守る必要あり、宗教(イスラーム)的理由などにより、個人に対する事業ではなく、高齢者福祉施設整備事業への支援を受けたい旨の方針を示した。そこでそのような施設69箇所を設けた。
 インドネシアで、私がある施設を訪ねたときそこの元慰安婦の方々が歌を歌ってくれた。それが日本の軍歌だった。それをどう受け止めるべきか正直なところ戸惑った。彼女らが歌詞の意味をわかって歌っているのか、ただ口ずさんでいるだけなのか。兵隊さんの洋服の綻びを縫ってあげたという話もしていた。人間関係であるから、それを大事に受け止めてやることが大切だと思う。過酷な権力の下で働かされた屈辱を受ける状態でありながら、死に直面している若い兵隊さんへの気の毒と思う思いは、元慰安婦の方々から感じられるものがあった。
 2)オランダ
○実施期間:1998.7-2001.7、事業規模:2億4500万円規模
 オランダ政府は、太平洋戦争にかかわる賠償等請求権についてはサンフランシスコ平和条約で解決済みであるとして、日本側が直接関係者との話し合いで進めるように促した。そこで対日道義的債務基金(JES)関係者と話し合い、オランダ側がハウザー将軍を介して設立したオランダ事業実施委員会(PICN)と、アジア女性基金とで覚書を交わして事業を進めた。具体的には、オランダ人被害者の生活状態改善のためにPICNに基金が提供された。
 日蘭交流400周年祭に天皇陛下が訪問されたときに(2000年)、後ろ向きになって迎えたといわれる。オランダでも、韓国のように在オランダ日本大使館の前でデモなどをやったりしていたが、その時の大使は彼らを大使館に呼び入れて話を聞いたという。もちろん、それができる国とできない国とがあると思うが、そういう大使の態度・姿勢によっても、反応が違ってくる。
 3)フィリピン
○実施期間:1996.8-2001.8、事業内容:償い金、医療福祉支援事業など
 元慰安婦としての認定作業など困難な作業もあり、フィリピン政府は、外務省・社会福祉開発省・司法省・保健省などが共同して「タスクフォース」を立ち上げ、ここがアジア女性基金との協議機関となった。
 具体的には、元慰安婦として認定された方に、在フィリピン日本大使館からフィリピン外務省を通して、総理のお詫びの手紙と償い金が届けられた。またフィリピンの社会福祉開発省を通して日本政府の予算で一人当たり120万相当の医療福祉支援事業が実施された。
 フィリピンに限らないが、村山談話から踏襲された歴代総理の手紙は大きな意味をもたらした。受け取った方は、額縁に入れて家に飾った人もいた。一般に女性は何か問題があると自分に問題があったからではないかと思い勝ちなところがあるし、社会全体が往々にして女性と性の問題は女にありと考えがちだが、それに対して「(あなたのせいではなく)日本が悪かったのだ」と一国の総理大臣が手紙を通して告げることの重みは想像以上のものがあった。
 あるフィリピンの方が「忘れることはできないが、自分が許すことをしないと、神様が自分を許して下さらない」と言っていたように、フィリピンではキリスト教的な考え方が色濃く出てくる。
 4)台湾
○実施期間:1997.5-2002.5、事業内容:償い金(200万円)、医療福祉支援事業など
 人道的見地からアジア女性基金の活動を支持し、元慰安婦個々人の気持ちを尊重すべきだという考えをもつ台湾の弁護士・頼浩敏氏に協力をいただき、同氏の萬国法律事務所を申請の受付先に指定し、97年5月、台湾の有力3紙に広告を掲載して事業を開始した。
 申請者に対して圧力をかけられる場合もあり、被害者に生活困窮者が多い中で彼女らの(支援金打ち切りなどの)不安を解消すべく、基金は被害者の希望に従い、支給する場合は被害者の不安を解消し絶対に不利益が及ばないようにすることを前提として事業を展開した。そのことに大きく寄与したのが、先の頼浩敏弁護士でもあった。
 また台湾のあるご夫婦が来られて、その夫が語るには「妻が慰安婦だったことは今まで知らなかった。今回初めて知った。実は、自分自身日本兵としてかつて戦ったのだった」という話もある。
 5)韓国
○実施期間:1997.1-2002.5、事業内容:償い金、医療福祉支援事業など
 韓国が一番難しかった。韓国政府はアジア女性基金の設立に対して最初は積極的評価をしていたが、韓国挺身隊問題対策協議会(略称「挺隊協」)などが強力な反対運動を展開し、それに同調するようにマスコミも批判をしたために、政府の態度が変化することとなった。
 元慰安婦の中から基金の事業を受け入れる方も数名現れたが、そのことによって世間のバッシングを受けることにもなった。その後、さまざまな努力を試みたが打開できず、99年7月には基金の事業を停止状態におくことになった。韓国と日本の関係は複雑であるが、お互いに次の世代のためにある程度の解決をつけなくてはいけないし、できると思っている。
 6)償い事業を受け入れて下さった人数
 事業の基金を受け入れた人数について、フィリピン・台湾・韓国に関しては3カ国を一緒にして285人と発表しており、いまだに国別には公表していない。これは、とくに韓国での反対が非常に強くて、国別に公表した場合は、誰が受け取ったか、明らかになってしまうために、その女性がバッシングを受ける可能性が強いために総数のみの表示にしたのだった。この問題もしっかりと取り上げるべきである。慰安婦の二次的被害を阻止・解決すべきである。

(4)評価
 国際社会から見ると、日本における女性の地位は低い。国際社会は、女性の権利を非常に重視しており、現実にみても欧米やアフリカなどでは女性の政治家が非常に多くなった。その点で遅れているのが日本だ。日本の国会議員の女性は10%くらいだ。2013年には、世界105位とされた。2014年3月28日の『エコノミスト』は、女性の地位の社会的低さを報告している。女性の人権に関する事項は、国連を中心にグローバルに連携している。しかし、日本は国際的な潮流にあまり気がついていないのか、国際的に日本の地位を向上させるためにどうしたらよいかなど、そのような視点からの取り組みが殆ど見えてこない。この状態は慰安婦に対する日本の対応についての国際社会の見方を厳しくしたとも思える。
 ここで慰安婦に関連する国際的動きを見てみる。1996年1月、国連人権委員会に「クマラスワミ」報告書が提出された。その報告書は、日本政府が道義的責任を認め、アジア女性基金を設立したことを歓迎しながらも、法的責任、補償、資料の公開、謝罪、歴史教育などは、日本政府がやり残した課題だと指摘した。また1998年8月には国連人権委員会で「マクドゥーガル報告書」(McDougall Report)が決議され、その付属文書の中で日本の慰安婦問題を取り上げた。同報告書によれば、慰安所は性奴隷制度であり、女性の人権への著しい侵害の戦争犯罪であり、責任者の処罰と被害者への補償を日本政府に求めるもので、厳しい内容の報告書だった。これらの内容に対して批判する日本のグループもあるが、女性の人権侵害という視点に欠けた主張を繰り返しているのは残念である。
 ところで、アジア女性基金の事業に対して(とくに韓国への対応を取り上げて)「失敗だった」と評価する声を聞く。実は、アジア女性基金の特徴として、ステークホルダー(利害関係者)が非常に多いという点がある。国家、政府、国民、被害者、募金者など、ステークホルダー全体を目に入れてみた場合、本当にそう言えるのか。
 前節で述べたように、フィリピンの方で補償金を得て生計を維持することができた人もいるわけで、償い事業の影響はさまざまである。被害者を中心に見ながら、どのような対応をしていくべきか、今後もずっと見守っていくべきだろう。また貴重な募金をしてくれた日本国民の方々の気持ちを無視することもできない。例えば、兵隊の体験を振り返ってお詫びの気持ちを込めて手紙と一緒に募金した人も少なくなかった。政府と国民の共同事業として立ち上げたからには、さまざまなステークホルダーへの思いやりや対応など、一つ一つを大事にしていくべきだろう。
 以前、若いジャーナリストの集まりに参加してアジア女性基金の活動について話をしたことがあったが、彼らは「何も知らなかった」と口をそろえていた。当時、どうしてもっとマスメディアが動けなかったのかという残念な思いがある。こいった記者の方々には、このような社会問題を今後積極的に取り上げてほしいと訴えた。「アジア女性基金」が果たした役割は、今判断できることではないと私は考えている。

3.これからの若者に向けた期待

 アジア女性基金では、右も左もさまざまな意見を持つ人を集めた話し合いの場を設けて理解を求める努力をしてきたが、結局双方とも同じ意見を持ったまま帰られることが少なくなかった。とくに年齢の高い人ほどその傾向が顕著だった。そこで思ったことは、むしろ若い人たちに向けて、こうした問題をどうしていくべきかを考えてもらいたいと思う。現在の大学生も4~5年後には社会人になるわけだから、これからの社会を考えたときに、若い人たちにしっかりしてもらわないといけないと感じる。
 日本は過去の一時期誤まったことをし、お詫びもし、そのために十分ではないがお金を出してきた。日本のこれからの仕事は、国民が平和に生きることができ、そのような国民を守ることのできる社会、そして平和構築に向けてどのように貢献していくかだ。国民が平和に生きることのできる社会、すなわち人権侵害のない社会、それを目指して日本はこのような方法でやっていくという発信をすべきであろう。東アジアで日本が信頼されることが大事であり、そのことが平和構築につながるのである。
 例えば、これからのアジアの人材育成に資金援助をするなど、日本として世界に向けて発信できる発想、あるいは国家ビジョンが必要だ。それがないから若者はどこに行っていいのかわからないのだと思う。
 とくにアジアの国々の若者との交流だ。歴史認識問題のように複雑に絡み合った難しい問題は、政治だけでは解決できないから、民間で、あるいは市民が立ち上がってやっていく。異文化の人とどうつきあうかの訓練をして、「私には、中国人、韓国人の親しい友がいる」といえる若者をたくさん育てていくことが、解決への近道かもしれない。ただ若者の交流に際して重要なことは、日本の学生はアジア史に関する理解が薄いので、日本とアジアのかかわり(関係史や近代史)を学校でしっかり教えてほしいと思う。
 最後に、アジア女性基金は、税金も投入して運営した組織だったが、2007年に一旦閉じて区切りをつけた。しかし、今考えてみると、将来に向けて終わり方をきちんとすべきだったのではないかとの思いがある。すなわち、慰安婦問題や戦争の際に起こる女性の悲劇を阻止するためのグループ、専門家集団を何か残しておくべきだったと思うのである。残酷な紛争が世界を不安定にしている現状の中、日本が果たす役割は大きい。

(2015年6月11日)
政策オピニオン
 伊勢 桃代 「アジア女性基金」元専務理事兼事務局長
著者プロフィール
東京生まれ。1959年慶應義塾大学卒、62年米国・シラキュース大学マックウェル大学院修士課程修了。その後、米国での研究活動を経て、69年国際連合ニューヨーク本部勤務。同人事局人事採用部部長補佐、研修部長などを経て、88年国際連合大学(初代)事務局長に就任。国際連合退職後、97年財団法人女性のためのアジア平和国民基金専務理事兼事務局長に就任(~2005)。現在、学校法人AICJ鴎州学園理事長、国際連合協会会長を務める。

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